1.変化
男の左半身は、すでに赤みかかった金色の鱗に覆われていた。
バスルームの鏡に映る彼の左目は、水晶玉のように大きく肥大化し、写るものを歪んで見せる。
勢いよく蛇口から流れ出る水が浴槽を満たし、さらにそこから溢れた水が排水溝へと流れていく。
なぜ……俺なのか?
いくら考えても答えが出せるわけでもなく、男はその問いを何回も頭の中で繰り返していた。
鏡の向こうで、男の左目がギョロリと動いた。
その年の夏は、いつにも増して暴力的なものだった。
照りつける太陽とエアコンの室外機から生まれる熱気が、コンクリートとアスファルトの街を満たしていた。
男はこの街で、会社とアパートを往復する生活をおくっていた。
始まりは……小さな変化。
朝目覚めると、左手の甲に小さな薄い透明の膜のようなモノが、肉を貫いていた。
とくに痛むわけでもない。それは些細なものだった。
男は少し気に留めたが、カチカチと進む時計の針が彼を追い立てる。
彼は、そのまま会社に向かった。
会社に着くと、今度は機嫌の悪い上司が彼を追い立てた。
怒鳴り声とともに、努力や目標という名のノルマが課せられた。
同じ部署にいる恋人――美香子が、眉間に皺を寄せてこちらを見る。
彼女もまた無理な願望を押し付け、名前と顔が一致しない同僚の誰かと比べて男を罵る存在であった。
この街で、男はいつも何かに追われていたのだ。
だから夜になる頃には、左手の変化のことなどすっかり忘れてしまっていた。
次の日、左手の小さな薄い膜は一枚の鱗に変化していた。
鱗は赤みがかったものだった。
幼き頃、戯れに水槽で飼っていた淡水魚を思い出させる色。
顔を近づけてみると微かに生臭い。
……医者に行くべきか?
男はそう考えた……が、すぐにそれを止めた。
会社を休んだところで、さらに彼を追い立てるものが増えるだけだ。
男は引出しからピンセットを取り出すと、それで鱗を掴み、力任せに引き抜いた。
ベリッと音を立てて、鱗が剝がれた。
痛みは無かった。
ただ、ひどく喉が渇いていた。
さらに次の日。
剥がしたはずの鱗は増え、男の左手をびっしりと覆っていた。
指の間には、うっすらと半透明の膜ができている。
男は……恐怖した。
この街では、医者はすぐに見つかる。
しかし、俺を救える医者が本当にいるのだろうか……。
男はそう思った。
それでも藁にもすがる思いで、彼は病院の門を叩いた。
頭の禿げ上がった医者は、怪訝な顔で男を見た。
男は必死に自分の身に起きている変化を伝えたが、医者は困ったような苦笑いを浮かべるばかりだった。
次の医者も、そのまた次も……彼の話を聞けば同じような態度となる。
ついに三件目の医者から精神科に行くことを勧められた。
そこから男は医者に頼るのを諦めた。
街を彷徨う男の携帯電話が、何度も鳴った。
着信は全て上司からのものだった。
上司は電話口でいつものようにヒステリックに怒鳴っていたが、もう男の耳には届かない。
男はぷつりと電話を切ると、街を抜け家路についた。
男は思った。
喉が……ひどく渇く……。
かなり前の友人たちとの小説対決(マルケン杯)用に書いたホラー小説です。
本日より3日連続投稿です。(午後11時)
楽しんでいただけたら嬉しいです。