四
私はまず、背表紙を堪能することにした。
講談にもホワイトハートにも無かった新潮独特の帯状の飾り絵が、豊かな色彩で背表紙の中心に描かれている。
あの妖魔や里木を図案化したのであろうその飾り絵は、私に蓬山の美しい景色や、アニメ版のオープニングを思い起こさせた。
タブレットを手繰り寄せ、幻夢曲を選択する。
美しい笛子の音に、自然と涙が流れる。
なぜか茉莉花の香りまでしてきた気がして、女仙がシーツを茉莉花の上で干していたあのシーンが思い出された。
当時、「仙のくせに随分庶民的だな。これならイケる」と真似をしようとしたのだが、そもそも茉莉花ってどんな木なんだろうかという根本的なことすら分からず、自らの浅慮と浅学を悔い、植物辞典を繰り、茉莉花がジャスミンという聞き慣れた植物だと知ると、近所にその茉莉花を求め散策したことがあった。
その時は見つけることが出来なかったが、何年後かにふいにその植物を見つけて匂いを覚えるも虫が気になり、「やっぱ蓬山じゃなきゃ駄目かぁ」と、がっかりしたものだった。
曲調が変わり、不穏な気配が漂う。
それは、かの国が未だ内乱が絶えない世界であることを表現しているのだろう。
戦乱の無い国など無い。
それはこの蓬莱でも同じだが、かの国の土地や人心の荒れ様はとても語り尽くせないほど悲しく、涙とともにやり場のない怒りがこみ上げてくる。
ある仙が、「自分をかわいそうだと思って泣くのはおやめなさい」と仰っていた。
その後の一連の言葉、そして行動は、私の人生観にも深く影響した。
自らの不遇を呪い他人を羨むのではなく、他人を思いやることが自らを助くることにも繋がるのだと。
それからは涙が出そうになるたびに、これはなんの為の涙なのかと自問するようになった。
自分の為であればぐっと堪え、民の為と思えば構わず泣いた。
そして考える。
今私が流している涙は、何の為の涙であろうか。
もちろん私の為であろう。
だがとめどなく溢れ、堪えることが出来ない。
琴の音が響く。
一転、王の凱旋を思わせる力強い演奏。
強烈なカタルシスが私を襲う。
これは歓喜の涙だ。
そしてこれは私だけの歓喜ではない。
主上のお戻りを願い、そしてようやくお帰りあそばされた、そのことを喜ぶ全ての荒民の歓喜を思い、涙しているのだ……。
公式からの供給が途絶えても何年もほそぼそと食べてこられたのは、数多の同人の民のおかげである。
そしてその殆どが、更新が途絶えて久しい。
恐らくその民たちは今頃、饗宴を以てこの吉事を祝っているに違いない。
私自身見てはいないが、Twitterなどは大変なお祭り騒ぎになっているのだろう。
この先何年も語り継がれ、それだけであと五年は容易く食べていけるはずだ。
分かち合いたい。
ようやく報われた、その思いを、同じように涙する全ての荒民と分かち合いたい。
そして己の愚を恥じた。
あの星を減らした民も、同じ荒民であったはずだ。
その民は私とは違い、恐らく発売と同時に購入した最も忠実な民であった。
星の一つもつけずに優越感などを抱くような自分こそが愚かな民なのだ。
主上の慈しみは、全ての民の上に平等に降り注いでいるのだから。
そうして私は追加購入をするとともに、「小野主上を待ち続けた一人の民の物語」を書くことにしたのだった。




