132:しまらないくらいで丁度いいのが自分たち
壁に突き刺さった大包丁を握った黒い女はヘヒッと口の端を吊り上げ、一気に引き抜く。
そして抜き取った勢いに乗って青い英雄へと斬りかかる。
意表を突かれた形になったケインであるが、しかし腐っても神の座を奪い取った英雄である。光輝く剣で黒女の包丁を受け流す。
そして巨大な刃物の重みに引かれて流れた女の後ろ首へ向けて、剣を振り下ろす。
だがその一撃は投げつけられたフライパンが遅らせて、同時に巨大な鋼の手の平が叩き潰しにかかる。
これにケインは舌打ちを残してその場から姿を消す。
そして邪魔をしたベルノの背後に回り込み、ウエイトレスの背中に剣を振るう。
しかしこの一撃にもまた、黒一色の腕が絡みつく。
合わせて羽交い締めにしようとする黒い女に、ケインは不気味さのあまりに身震い。しかし怖気に震えながらもその手は愛刀の切っ先を翻して、背後を突き刺す。
刃を受けて崩れ落ちる黒の女。
その姿を後ろに確かめて、険しかったケインの顔が和らぐ。
だが崩れ過ぎる女の姿に、その表情はすぐさま驚愕に塗りつぶされることになる。
刃を受けて倒れた後、風船が空気を失うように人の形を無くしていく黒女。
それはただ平らに、影絵のようになるだけではない。そこからさらに粘液と融けてシルエットさえ崩れていくのだ!
影武者、ニセモノを掴まされた。
そう確信したケインが自由になった刃を左側面に向けて押し出す。
すると今まさに叩き込もうと迫った大包丁とぶつかり合う。
その持ち主の姿にケインは絶句する。
包丁でもって切りかかってきていたのは、先ほど突き殺したはずの黒く小柄な女であったからだ。
だが彼を揺さぶった映像というのはそれだけではない。
それ以外にざっと十は超えるほどの黒い女が、ベルノや鋼の手と並んでケインを取り囲んでいたからだ。
しかも黒女たちは床や壁、天井から染み出すようにして次々と現れてはその数をさらに増やし続けているのだ!
『なんなんだ、こいつらッ!? 何だって言うんだッ!?』
鉈やナイフなど大小様々な刃物を手に切りかかる黒女たち。
ケインは群がるそれらを近づく端から切り伏せ、散らしていく。
が、真っ二つにされた黒女が斬られた断片それぞれから再生するなど、蹴散らされるのを上回る勢いでその数を増やし、包囲をぶ厚くしていく。
「ヘヒッ……カタリナは、ホントに、いい方法を教えてくれた……ヘヒヒッ」
じわじわと締め上げるように包囲が狭まるのを画面越しに眺めてホラースマイルを浮かべるのは、やはりのぞみである。
「ダンジョンコアは私の中……そのコアと一体感を、上げて……私自身がダンジョンになる……ヘヒヒッ」
そう言うのぞみの後ろ頭。たっぷりとした黒髪から飛び出した無数の黒腕たちはのぞみ部屋の床や壁にその先端を埋めている。
それはダンジョンとして成立した空間を掴み、コアとのダイレクトな有線接続を果たさせるケーブルとなっている。
侵略者であるケインを押し潰しにかかる黒の影武者たちは、その先端である手が変化したもの――否、ダンジョンに沈み、毛細血管のように伸び巡って一体化した指先の一本一本が変化した分身体たちなのだ。
「こ、このまま……手数で、押し切って、追い返す……ッ! ヘヒヒッ」
のぞみはそんな分身体を無限のごとく繰り出し続けて、ケインの魔神たちさえも凌駕する無双の戦闘能力に対応する。
「追い返すって……そんなぬるいゴールが願いでいいのかよ?」
対してのぞみの胸元のボーゾが眉根を寄せて問う。
欲望の魔神と契約を結んだのぞみの力の源もまた魔神たちと同じく欲望だ。
抱く望みが強ければ強いほど、遠ければ遠いほどに強力かつ疲れ知らずでいられる。
だからこそボーゾは控え目に過ぎる目標によるパワーダウンを心配する。が、のぞみはこのままで良いのだと、ホラースマイルのまま頭を振る。
「ヘヒッ……ボーゾの心配は、分かる……けど、多分大丈夫……ヘヒヒッ」
「ほぉーう? その心は?」
「……か、叶えられるかな? って疑うような願いは、大きいだけでふわふわの、よれよれ……遠すぎる夢は、一気にいくには……重たすぎる……ヘヒヒッ」
「なーるほどな一理ある」
夢、願望、欲望。それらを自分が胸に抱える適量を理解し、さらに敵の手強さを決して軽く見ないその考えに、ボーゾは納得を示す。
「……だが、無理はするなよ?」
しかしすぐさま目を鋭く細めて釘を刺す。
「ヘヒッ? ……な、なんのこと……」
「誤魔化そうとするなよ。無駄だから。お前の体が上げてる悲鳴を……休みを求める欲望を俺が聞き逃すとでも思ってるのか?」
目を泳がせるのぞみだが、ボーゾはその目元のクマが深くなっていることを示しつつ、容赦なく追及する。
今ののぞみはダンジョンとの一体化を深め、分身体を消し飛ばされるのを上回る勢いで送り出し続けている。
いくらダンジョンマスターとして、ダンジョン内部では強力な創造主として振る舞えるとはいえ、負担もそれを受け止められる限界も存在する。
特に繋がりをブーストしている今、ダンジョンに無理を強いれば、それは当然のぞみの肉体に返ってくることになる。
「ヘヒッ……しょ、正直、キツイことは……キツイ、よ……? で、でもここが踏ん張りどころ……! だから、だから……まだスムネムを呼ぶのだけは、勘弁……! ヘヒヒッ」
「それくらい分かってらぁ。まあ、のぞみの睡眠欲と、スムネムの寝かせたい欲望次第ではある、けどな?」
懇願するのぞみに、ボーゾは右手に待ったをかけるようにしながらニヤリと返す。
かざした手をたどってみれば、そこにはすでに寝袋じみたアザラシぐるみに身を包んだ褐色肌の銀髪少女が布団を抱えて待機していた。
「ヘヒィッ!? スムネムッ!? 待って、まだタンマッ!? 厄介なの追っ払ったらすぐ寝る……!? だから、ちょっとタイム……!」
冴えた目で自分を見る睡眠欲の魔神に、のぞみは必死になって待ったをかける。
「……ちょっとって、どれくらい? 今日は本当はお休みする日だったでしょ? ねえ、ちょっとってどれくらい、なの?」
じりじりとにじり寄りながら、スムネムが具体的な答えを求める。
これにのぞみはすぐさま返せる答えがなく、言葉を詰まらせる。
自分一人の勝手で引き伸ばしている作業ならばともかく、強敵を相手取った戦いのことである。
いい加減な時間を約束するわけにもいかず、のぞみは冷や汗を垂らしながら答えを求めて周囲を見回す。
だがそんなことで答えが見つかれば苦労はない。
「……ぐ、具体的に、どれくらいかは……分かんない……み、皆の力を借してもらって……ちょっとでも早く終わらせるしか、ない……かなぁ? ヘヒヒッ」
結局のぞみにできたのは、ド正直に答えることだけ。
見栄も張らず誤魔化しも無し。ただ自分の見立てを誠実に語ること。それがのぞみなりの身内への誠意であった。
「……そうなんだ」
これにスムネムは抱えていた布団を担ぎ上げて静かにつぶやく。
あまりにも冷めたこの声に、のぞみは逆に怒りを買ったかと体を強ばらせる。
「じゃあ、そう言うわけで……のぞみーのお休みのために残ってる魔神チームは全員出撃。いいね?」
「オオーッ!!」
しかしスムネムが続けて口にしたのは、総員出撃の号令。
これに飛び出さずに待機していた魔神たちから賛同の声が上がる。
「ヘヒッ!? へエア?!」
「じゃ、そゆことで。行ってきます」
構えていたのとは別方向に流れた話にのぞみが戸惑っている間に、スムネムは英雄を包囲する戦場へワープ。
続いて残る魔神たちも次々と、のぞみの分身である黒女たちの合間に姿を現していく。
「み、皆……分身を壁に使って……! 何度も言うけど、復活できるからいいや、とかそういうのはダメ……それは、イヤ……だから……!」
そして魔神たちが英雄へ攻撃を仕掛けようとするその直前に、のぞみは慌てて言葉を挟む。
のぞみがはっきりと口に出したこの欲望に、魔神たちからは了承の思念が一斉に。
そうして重なり押し寄せる思念に、のぞみが脳を揺さぶられるままにふらつく。
その一方で、ウケカッセがケインの纏う武具を換金。そして空いたところへザリシャーレが実用性を欠いたオシャレ装備をねじ込む。
またスムネムの枕やイロミダの放つ香気が睡眠欲と色欲を掻き立てて、抵抗のために意識を割かせる。
そうして出来た隙にベルノが食いつき、サンドラが斬りかかる。
『うっとおしい! うっとおしいぞお前らぁあッ!?』
これに業を煮やしたケインが、振り払おうとオーラの刃を振るう。
しかしその度に魔神たちはのぞみの影の群れに紛れ。大きく薙ぎ倒しにかかる一撃には、バウモールの平手が安全地帯を作る。
そして攻撃をやり過ごした魔神たちに足止めを食らっている間に、のぞみの影が作る包囲網はその修繕を終えて、再びにケインを囲いの中に閉じ込めるのだ。
『なんでだ!? いくら欲望の魔神たちを一斉に相手にしてるって言ったってこんな……こんなに押さえ込まれるんだッ!?』
包囲を破るどころか、いいように翻弄され、足止めを食らっている事実に、ケインは苦々しげに吐き捨てる。
『俺はッ! 英雄なんだぞ! 神に選ばれて世界を渡って、世界を救い……人の繁栄を阻む神さえも倒して神に至った……ッ!?』
「……それをやって結局手に負えないで、世界を滅びに導いたんだろうがよ……」
かつて存在した世界での活躍を口に出すケイン。ボーゾはそんなすがるような彼の叫びを耳にして、ため息混じりにつぶやく。
その声にはケインを憐れむような色があった。
このボーゾの憐れみが耳に入ったかのように、ケインは鋭い眼光を周囲に向ける。
『この俺に、よくもこんな無様をッ!? お前も(・)……お前らも、俺を惨めな吉田健一に戻そうって言うのかッ!? そうしようってのかよッ!?』
叫びの意味を受け止め損ねて、のぞみは戸惑うままに「ヘヒッ」と声を上げる。
吉田健一と言うのが、転生前の日本での名前なのだろう。
それだけは理解できたのぞみが眺めるモニターの中で、ケインは全身からオーラを噴き出す。
渦巻き広がるオーラは、動きを妨げ討ち取ろうとするスリリングディザイア勢を押し退けていく。
稲光を含むそれはまさに嵐そのもの。迷宮という限られた空間の中に現れたエネルギーの暴風である。
『俺は戻らんぞッ! 健一には戻らないッ!! だから俺は英雄の……本当の俺でいられる世界を取り戻すッ! その邪魔は誰にもさせやしないぞッ!!』
そんな暴風の中心で、ケインは左右の手に放出したエネルギーを集めていく。
オーラの嵐を圧縮した光の玉たち。それらは己が秘めたる破壊力を誇示するように、激しく瞬く。
「ヘヒッ!? あ、あんなモンが使われたら……みんなッ!?」
解き放たれたエネルギーが巻き起こすだろう被害。それを見たのぞみは大慌てにコンソールを操作。ケインの相手に出ていた魔神たちを黒女で包み、転移させる。
同時にそれ以外の分身体を融かしてまとめ、爆発物を抱えたケインを閉じ込める。
それも一層や二層ではない。空間が許す限りに黒壁を重ね、階層を仕切る壁床天井すべてが漆黒に染まるまでに補強する。
そして黒に染まったモニターが一瞬で白に染め上げられる。
同時にのぞみ部屋を地震が襲う!
これをのぞみは机にかじりつくようにして激震をやり過ごす。
強烈な、しかしごくごく短い間で過ぎ去った震動。
ダンジョンの階層というものは、基本的に繋がっていながらも空間として独立してもいる。
それを貫き伝わるという、常識を覆す威力が何をなしたのか。
のぞみは自分の内にあるダンジョンコアの反応から薄々と察しながらも、自分の目でも確かめようと、モニターに目を向ける。
しかしモニターには何も映っていない。
石畳の床も、魔力明かりの備わった壁も、天井も、英雄の姿もない。ただ白一色に染まった画面があるだけだ。
強烈なエネルギーの奔流に画面が焼き付いたのかと言えば、そんなことはない。
これはのぞみが見たいと求めている、戦場跡の映像に間違いはない。
そう。ケインの起こしたエネルギーの爆発は、迷宮エリアの大半を消し飛ばして、何もない空間を作り上げていたのだ。
まさか自爆したわけではないだろうが、ケイン自身の反応もスリリングディザイアのどこにもない。
恐らくは緊急離脱の魔法か何かで撤退したのだろう。
「ヘヒッ……こ、こんなん、まるで破壊神じゃ、ない……ヘヒヒッ」
「ま、創造の前に破壊ありって言うからな」
「まあ、それは……うん。と、とにかく、消し飛ばされる前の状態を呼び出して……ああ、それもだけど、他のエリアの被害も見なきゃ……」
のぞみはボーゾの言葉に苦笑しつつ、英雄の残した破壊の爪痕を埋め立てるために動き出す。
「その前にねんねよ。おころりよ」
が、それをスムネムが許さない。
ワープしてきた銀髪褐色肌の睡眠欲が、のぞみの後ろ頭にしがみつき、手下である敷きと掛けのお布団二枚で主人をサンドイッチにする。
「ヘヒィ!? ちょ、ま! 待って! せめてガオンされたトコを埋めさせて……あ、危ない!」
「待った無し。そうやってズルズル修理を続けるつもりだから」
「ヘヒィ!? モロバレ!? いや、ちゃんとひどく壊されたとこだけ! そこだけだから!?」
聞く耳持たずと睡眠欲を解放させにかかるスムネムに、のぞみは身もだえ懇願する。
「そうよ。ちょっと待ちなさいなスムネム」
そこへスムネムに待ったをかける声がある。
「ざ、ザリシャーレ!? ベルノも!?」
のぞみに名前を呼ばれた二人は、布団の中でもがく主人に手を振り応える。
普段からのぞみを休ませようと同盟を組んでいるこの両名からのストップに、スムネムは眠たげな目を向ける。
「……どうして? のぞみーはすごく疲れてるのに? 一回ちゃんと寝た方が絶対いいのに」
唇を尖らせたスムネムの疑問に、ザリシャーレとベルノは堂々と大きな胸を突き出して答える。
「寝る前にはちゃんと汗を流してさっぱりしてからのがいいんじゃないか・し・ら!? だから先にお風呂よ!」
「それに眠る先でも後でも栄養もね!」
堂々と順番があると言い放つ飾と食のコンビに、スムネムは感嘆の声を上げてうなづく。
結局は自分の意見を、欲望を通しに来ただけ。
実に「らしい」両者の動きに、のぞみは力無くうなだれる。
そうしてのぞみがおとなしくなるや、魔神たちは布団ごとにダンジョンマスターを担ぎ上げる。
「さぁさ! それじゃのぞみ様の疲労回復とリフレッシュのフルコースといくわよ! まずはお湯とマッサージでほぐしにほぐしてあげちゃうわよー!」
「その後は睡眠。睡眠の重要性……」
「大事だって言うならご飯だって負けないんだからねー! たっぷり寝た後には体と舌が欲しがるのでお腹一杯にしてあげちゃうんだからー!」
そうしてザリシャーレたちは浴場へ向けてワッショイワッショイと、のぞみを運び出していく。
「ヘヒィエェエエエ……あ、でも、今度作るなら温泉のありそうなエリアもあり、かも? 火山、とか……ヘヒヒッ」
しかし担ぎ出されながらもアイディアに浸れる辺り、のぞみも完全にいつものことと馴れきってしまっていると言って良い。