テレーゼ・リト覇ルトという脳筋令嬢
「テレーゼ! どこにいるの、テレーゼ!」
そう言って娘の名を呼ぶのは、中年の女性。普段から勇ましい奥様がまたか、と使用人たちがやれやれと見守る中、ア喰らうド公国の侯爵夫人という身分にしては質素すぎるワインレッドの格闘着を羽織った彼女はズカズカと廊下を歩いていく。
「テレーゼ! お客様よ! ……ああ、エリオスね。テレーゼはどこ!?」
「姉様はさっき、『新しい技を思いついた!』って言って鍛錬部屋に向かってらっしゃいました」
そう答えるのは、テレーゼの弟エリオス。姉に渡されたのか、ボロボロに朽ちたダンベルを持っている。
「母様がバザーで買われた中古の筋トレ道具を抱えてらっしゃったから、訓練でもしているのかと……」
「……何事ですか、お母様」
エリオスが話している間に、廊下の奥からひょっこりと小柄だが筋肉の付いた少女が顔を出す。
髪は、母親と同じ桃色がかった金髪。目は春の小川に咲くスミレ色。妖精のような愛らしい美貌に、ムッチリカッリチと蓄えられたしなやかな筋肉。
鍛錬中だったのだろう、彼女はフンフンとダンベルを上下に持ち上げながら母親の顔を見ている。
「鍛錬部屋までお母様の悲鳴が聞こえてきました。組み手でも致しますか?」
「あなたに負けるほど落ちぶれてはいません! そうではなくて……あああっ! こんな日に限って一張羅の胴着を洗っているなんて……運の悪いこと!」
「随分興奮なさってますね、お母様。何か急用でも?」
「来客です! テレーゼ、あなたに用事があると、お城から使者が来たのです!」
ひっくり返ったような母の言葉に、さしものテレーゼも事態を察してダンベルを取り落とす。ドムッ、と鈍い音がした。
「お城って……大攻様の使いってこと!? えええ、どうして私に!?」
「知りません! 騎士の方がお越しで、テレーゼ・リト覇ルト侯爵令嬢を出すようにとまおっしゃってるの!」
「私、何も悪いことしてませんからね! あっ、この前ちょっとお城の騎士様と組み手して、一本背負いしちゃったけど!」
「分かってます! それくらいわたくしだってよくしました! ……ああ、時間があればわたくしのお古の戦闘着を着せるのに。仕方ありません、すぐさま応接間へ!」
「え、もうですか?」
「へぇ……姉様、ついに城から呼び出しですか」
「滅多なことを言わないで、エリオス! と、とにかく行ってきます!」
テレーゼたちが暮らすア喰らうド公国は、「女性は戦えてナンボ」の中規模国家である。ア喰らうド公国に生まれた女児は、物心が付く前から格闘技や関節技を仕込まれる。女の戦いに、武器など不要。騎士剣を持ち、甲冑を身に纏うのは男性だけ。女はそんなちゃちな物がなくても己の拳と脚のみで敵を制圧するのだ。鎧? 籠手? なにそれおいしいの?
現在公国を治めるのは、昨年末に父親の跡を継いで即位した十九歳の若き大攻レオン。だが、特に重要な人物でもないので説明は省略する。
テレーゼは、リト覇ルト侯爵家という名前と家と鍛錬部屋だけは立派な侯爵家の長女として生まれた。数代前は素手で巌を砕くほどの女傑を輩出したと言われているが、流れゆく時代と格闘文明に付いていけず、リト覇ルトの名は見る見る間に廃れていった。幸い代々の当主は浪費癖がなく、テレーゼの父も母の尻に敷かれて大人しくしているため、こうして家族全員で暮らしていけていた。
リト覇ルト家の武術は、型が古い。そして先祖代々良くも悪くも戦闘馬鹿の脳筋一族だったため、新しい技を編み出すとか、小細工を使うとか、そういう頭を使う技能はこれっぽっちも発展しなかった。
侯爵家令嬢でありながら武闘会に行く時間も金も格闘着も余裕もないテレーゼは、城で暮らす大攻と一切の縁がない。今年十七歳になったテレーゼは通常なら武闘会デビューしても良い年頃だがそんなゆとりもないので、城に上がることもなかったのだ。
そして毎日のように屋敷に籠もって筋トレをして、今に至るのである。
やはり、街のど真ん中で騎士を背負い投げしたのがまずかったのだろうか。
そう考えながら応接間に向かったテレーゼ。そんな彼女を出迎えたのは、なんだかメンタルが強そうなおっとり系男子の騎士だったが、それほど重要な人物でもないので説明は省略する。
いろいろ会話を挟んだが、それらの会話はテレーゼの筋肉たっぷり脳みそにインプットされなかったので、省略する。
会話をほとんど理解してもらえなかったおっとり男子は気にした様子もなく、続けた。
「テレーゼ嬢は、我が国の大攻がどのようにして妻を選ぶのかは、ご存じですか?」
「はい。大攻家に伝わるリングで死闘を繰り広げ、最後まで立っていた女性が大攻妃となるのですよね」
テレーゼは滑らかに応える。これも、公都では有名な話だ。
ア喰らうド公国の大攻は代々、立派な格闘用リングを受け継ぐ。そう、四方に縄が張られた格闘の場だ。一見すればただのリングなのだが、じつはこれには太古の強力な魔術が掛かっている。
このリングで大攻妃候補たちが拳をぶつけ合い、最後まで立っていた者が大攻妃となる。
これが公国に伝わる、「リングの儀式」だった。一人の大攻にふさわしい妻は一人だけ。大攻にとって最高の鬼嫁もといパートナーとなる女性をリングが選ぶのだ。
もしこのリングによって結ばれた大攻夫妻が不仲にでもなればリングの魔力は疑われただろうが、なんと公国始まって以来、「リングの儀式」によって結ばれた大攻夫妻は例外なく、死んでもなお妻の尻に大攻が敷かれる平和な夫婦だったという。
「そういうことでレオン大攻は花嫁を見つけるために、公国内で年頃の娘を持つ伯爵家以上の家柄の屋敷へ我々を派遣なさいました。あなたも、大攻妃候補に選ばれたのですよ」
「わたくしが……」
テレーゼは言葉を失う。まさか、自分のような筋肉だけしか取り柄のない侯爵家の娘が、女帝と名高い大攻妃の候補となるなんて。
だがしかし、テレーゼは侯爵家令嬢という肩書きばかりで何も、誇れるようなものはない。大攻妃とは公国内の女性の最高位。そんなすばらしい女傑に自分がなれるはずもない。
だが迷っていたテレーゼに、おっとり系男子の声が重なる。
「ちなみに、大攻妃に選ばれなかった令嬢の中から、大攻妃専属の女漢に登用することができます」
「なにっ……!?」
ぐぐっ、とソファの肘掛けに置いていた手に力がこもる。テレーゼの握力に耐えられなかった肘掛けが四散し、ぱらぱらと木の屑が舞う。
(女漢ですって……!? そ、それは何とも素敵な響き!)
女漢というのは、大攻妃の側に控えて武勲を立てる女傑のことである。大攻妃のサポート役であり、妃の新技開発や組み手の相手になり、共に腕相撲大会を主催するなどの役目がある。
身分上城に留まらなければならないことの多い大攻妃と違い、女漢であれば己の鍛錬のためにあちこちに出向くことができる。それは側近としてどうなのかと言われそうだが、まあ、通常女漢よりもさらに強いのが大攻妃なので、気にしてはいけない。
わなわなと感動で震えるテレーゼを新種の動物でも見るかのような目で眺めた後、思いだしたようにおっとり男子がとどめの一撃を放つ。
「さらに、候補として上がられた場合には頭金として、フィットネスクラブ・筋トレジムの割引券十年分を」
「乗った!」
ということで、テレーゼは大攻妃候補として――しかし本来の目的は大攻妃の専属女漢として――城に上がることになったのであーる。