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隠者とミノタウロス

「いってきまーす!」

「いってらっしゃい」


 学校に行く妹を送り出すと、途端に家の中が静かになる。そのままのんびりと朝食を食べ終えて、僕がお皿を洗い、友魔のミールが洗ったお皿を僕の隣で拭く。豊かなこげ茶色の短毛の下に、はち切れんばかりの筋肉の鎧を身に纏ったミノタウロスのミールは、見かけに反して繊細な力加減でお皿を一枚も割ることなく器用に拭いていく。

 ミールはいつも左のツノと尻尾の先にリボンを結んでいる。心優しい彼は自分の恐ろしく見える外見をよく理解していて、いつからか幼い子どもを怖がらせないために可愛らしいものを身につけるようになった。そのせいで妹はいまだにミールのことを女の子だと思っている。ミールもそれを否定することなく、妹にリボンの柄を選んでもらったりすると、本当に優しい瞳で妹への愛情を示すんだ。

今日もピンク色のタータンチェックのリボンを揺らしている彼を横目で見て、僕は最後のカップを洗い終えた。ミールがそれを拭き終わるのを待ちながら、時計を見る。まだ時間があるようだ。僕は少し仕事を進めようと考えて、傍らに立てかけておいた杖を手に取った。

 二年前、前職の勤務中に負った傷が原因で、僕の左足はただの棒きれも同然になってしまった。雨の日に疼くことはあるけど、痛みはもうほとんど感じない。家の中でも歩くのに杖が必要だし、それでも歩行に膨大な時間がかかるけど、僕はあまり気にならない。前の仕事ではがむしゃらに頑張っていたけれど、今の仕事も好きだから、後悔もない。何より家でできる仕事だから、いつでも妹の近くにいられるので、そのへんは前の仕事よりもいいかなとすら思っていたりする。

 仕事場にもなっている自室へ戻ろうと杖をついて歩き出そうとすると、ミールがすぐさま反応して押しつけがましくない控えめさで僕の体を支えた。十年以上一緒にいるからか、すっかり阿吽の呼吸って感じだ。僕はそっと微笑みをミールへ向けて感謝の気持ちを表し、一歩を踏み出そうと杖を動かした。


――――コンコンコンコンコン


 扉を叩く音。どうやら来客のようだ。

 僕は動かした杖をもとに戻すと、ミールにお客さんを迎え入れるようにお願いした。僕のこの脚だと玄関まで辿りつくのに時間がかかり過ぎる。お客さんを待たせてはいけない。

 ミールは僕がきちんと無事な右足と杖で立っていられることを確かめて、大股に玄関へ近付くと、台所の洗い場の前に立っている僕にも来客の姿が見えるように扉を大きく開いた。すると、よく知る生真面目な顔が現れて、僕を見るなり実直な性格をよく表すような所作でお辞儀をした。


「おはようございます、先輩。朝早くから申し訳ありません」

「おはよう、ハインリヒ。いいんだ。来てくれて嬉しいよ。さあ、あがって」


 そう言うと、前の職場の後輩ハインリヒはホッとしたように表情を弛ませて、扉を押さえているミールへお礼を言って家に入ってきた。体格がいい彼がその場を退くと、その後ろから大きな金色の鷹の頭が覗いて、上目にこっちを見てきた。彼はハインリヒの友魔であるグリフォンだ。ハインリヒを乗せて空を飛んでもビクともしない、強靭な体を誇る彼はこの小さな家に自分が入ったら邪魔になってしまうのではないかと悩んでいるようだった。

 その様子が何処か愛らしくて、僕はちょっと笑うと彼を安心させるように手招きした。


「アドルフもおいで。ひとりで待つのは寂しいでしょう」

「すみません、ありがとうございます。アドルフ、お行儀よくするんだぞ」


 ハインリヒに言いつけられたアドルフは嬉しそうにひと鳴きして、鷹の上半身から続く獅子の身体を家の中に滑り込ませた。頭から前脚までは鷹の姿をしているためか、鳴き声もやっぱり鷹のものだった。

 僕はハインリヒに椅子を勧めて、自分も戻ってきたミールに助けてもらいながら席に着く。ハインリヒは僕が座るのを待ってから椅子に腰を下ろし、その足元にアドルフが寝そべった。ミールはそのまま来客用のお茶を淹れにいそいそと台所へ向かい、僕らはひと息ついた。


「……お仕事のほうはいかがですか」


 笑うのが下手なハインリヒがぎこちない笑みをつくって、世間話を振ってくる。そんな彼の様子には慣れっこな僕は不器用に投げられた会話のボールをちゃんと受け止めた。


「順調かなぁ。新聞のコラムもそれなりの評判だし、短編の小説もいくつか書いているから、今度、一冊の本にまとめようかって話もあってさ」

「本当ですか。おめでとうございます。本が出たら、俺、買います」


 切れ長の眼を細めて笑う彼はお世辞というものが苦手だから、本心から喜んでくれている。相変わらず表裏のない誠実さに居心地のよさを感じながら、僕は話の舵を切った。

 真面目な彼がまだ朝とも言える時間帯から顔を出すということの意味を、僕はそれなりに長い付き合いから知っていた。


「それで、ハインリヒはどうなの? 仕事は順調?」


 そう訊くと、彼は思っていた通りに笑顔を引っ込ませ、職場で見せる勇猛果敢な姿からは想像できないようなオドオドとした表情を見せた。やっぱり仕事で何かあったみたいだ。新入りの頃から思い悩むことがあると、僕のもとへやってきていた後輩は咄嗟に言葉が出てこないのか、中途半端に口を開いたまま黙りこくってしまった。

 僕はそんな彼を急かすことなく待ち続ける。ゆっくりとした時間が流れていき、ミールがお茶の入ったカップを運んでくる頃になって、ハインリヒはようやく開けっ放しの唇から言葉を紡ぎ出した。


「ええと……実は、ふたりほど軍を辞めてしまって……あの、覚えていますか? 雑用ばかりやっていた、スモランス大佐の……」

「ああ、ユッサくんだね。覚えているよ。大佐にはよくしてもらったしね。彼自身も明るくて面白い子だったから、よく覚えてる」


 ハインリヒの話を聞いて、仕事上では年齢の差から一緒に働くことはなかったけれど、幼い頃に親なし子だった僕と妹を心配して何かにつけて声をかけてくれた人が養子にしていた少年を思い出す。友魔のゴーレムが戦闘を嫌がるからと言って、万事屋のように複数の部署を駆けまわって雑用を買って出ていた彼も、もう青年と言っていい年齢だろう。


「あいつはついに料理人になりましたよ。今は軍の食堂でご婦人方と一緒に鍋を振るっています」

「そう、なんだか彼らしいね。相変わらず面白い子だ」


 そういえば僕が辞職する頃には、彼は食堂で芋の皮むきなんかを始めていたような気がする。軍人としては異色な彼にちょっぴりおかしくなりながら、僕はミールが淹れてくれたお茶を飲み、話を進める。ハインリヒが僕を訪ねた理由が彼のことではないのは明白だった。


「それで、もうひとりっていうのは?」


 やっぱり僕の予想は当たっていたようで、ハインリヒはすぐさま顔色を変えた。言葉にせずともこんなに心の中がわかりやすいというのは、僕が彼と親しいこともあるだろうけど、軍人としては少し心配になる。そんな真面目という言葉に足を生やしたような存在の彼は、彼にしては珍しいことに、煮え切らない態度で曖昧なことを言った。


「……それが、ちょっとバタバタしていて俺もあまりよく知らないのですが、軍を辞めて別の職種に転職したとか……」


 言いよどむようなハインリヒの様子に、僕はすぐにそれが守秘義務に関わるような案件なのだとわかった。本当にわかりやすい男だ。


「そう。僕も既に軍の関係者ではないから、詳しくは訊かないけど、ふたりも辞めてしまうと大変だろうね」


 国を守る軍人である以上、守秘義務を破らせるわけにもいかないから、僕はどうしても的外れのようなことを言うしかない。せっかく後輩が頼ってきてきれたのに力になれないのは歯痒いけど、こればかりはどうしようもない。本人が解決するしかないんだ。

 ちょっと心苦しくなりながらも敢えて突き放すと、ハインリヒは少し迷うような素振りを見せてから遠慮がちに口を開いた。


「あの、そのことなんですけど」

「うん?」


 やっぱり何かが引っかかるのか、そう言いかけながらも一旦言葉を切ったハインリヒが視線を足元で寝そべっているアドルフへ向ける。それから勇気を分けてもらうようにその鷹の頭を撫でた。森の中を自在に駆けて敵を打ち破っていくあの勇猛さは、一体、何処へ行ってしまったのだろうか。

 仕事中は鬼気迫る勢いを見せる彼は、少し引っ込み思案な普通の青年といった顔をちょっとだけ引き締めると、意を決し慎重に言葉を選んでいった。


「その……先輩は、もう一度、軍に戻るつもりはありませんか」

「……僕が?」


 彼の口から出てくるとは思ってもみなかった言葉に、僕は首を傾げて無意識に不自由な左足に指先で触れた。気にしていないとはいえ、日常生活を送るのにもそれなりの苦労が残ったこの脚の僕にそんな話が持ち出されること自体が不思議だ。そんな僕の疑問をすぐに察した後輩は言いにくそうに説明を付け足した。


「もちろん現場に出るわけではなくて、その、指導者として俺たちを教えるとか……」

「ハインリヒ」


 僕が静かに名前を呼ぶと、ハインリヒは口をつぐんだ。その眼は気まずそうに僕の顔を映している。

 どうして彼がらしくもないことを言ったのか、僕はすぐに理解した。小さく溜息をついて、僕はできるだけ穏やかに言った。


「上層部から僕にそう言えって言われたんだね」

「いえ、俺はその……はい」


 どうやっても嘘をつけない性質の彼は取り繕うことすらできず、白状した。そんなハインリヒを見て、僕は大きく溜息をつきそうになって寸でのところでそれを飲みこんだ。

 僕に軍へ戻ってきてほしいなんて、ハインリヒに限って言うはずがなかった。この左脚の傷の原因が自分にあるのだと誰よりも苦悩した彼に限って、今さら戻ってこいなんて言えるはずがないんだ。

 真面目すぎるこの男にそれを命じた軍の上層部の無神経さに苛立ちながら、僕はあくまで穏やかに微笑むと、平静を繕って彼がまだ新人だった頃のように言って聞かせる。


「僕が教えることなんて、何ひとつないよ。ずっと前線だったからそれほど特別な知識も持ち合わせていないし、こんな体じゃ戦闘技術を教えることも難しいだろうしね。それに後輩への指導だったら君にもできるでしょう。君とアドルフの活躍は聞いているよ。だから、今さら僕に頼らなくても……」

「そ……そんなことないです!」

「ハインリヒ?」


 話を途中で遮って勢いよく立ち上がった彼に驚く。その勢いに床でおとなしくしていたアドルフも、自分のお茶を飲んでいたミールも、驚いたように彼へ視線を向けた。けれど、ハインリヒは止まることなく、堰を切ったかのように、それまで抑えつけていた暗い感情を流出させた。


「俺、レヴィさんみたいにうまく先輩できないです。辞めたあいつだって、何も言わなかったけど、きっとたくさん悩んでいて……なのに、俺、何も知らずに……宿舎で隣の部屋だったのに……」

「ハインリヒ。君も軍人なら守秘義務と感情のコントロールを忘れちゃいけないよ」


 自制心というものをすっかりなくしてしまっているハインリヒに、僕は無情にも現実を突きつけ、無理やり話を終わらせた。僕だってちゃんと彼の話を聞いてやって、その苦しみを和らげてやりたいと思う。だけど、ハインリヒは軍人だ。だからこそ、越えてはいけないものはしっかりと指摘してやらなきゃいけない。それがかつて彼の先輩だった僕のするべきことなんだ。

 下手をすれば個人を特定できそうなきわどい発言を聞かなかったことにして、僕は制止されて心もとなく突っ立っている彼へ昔そうしたように優しくたしなめた。


「あまり焦っちゃいけないよ。最初から何でもできる人なんていないんだから。僕も君と関わっていくうちに先輩として成長した部分は大いにあるし、それは君だって同じだと思う。今、自分に足りないものばかりを見つめて嘆くのは早計じゃないかな」

「そう、でしょうか……」

「そうだとも。それに僕は君がいるから、安心してきれいさっぱり諦めることができたんだから。ハインリヒがいるなら、僕がいなくても大丈夫だろうってね。ちょっと無責任かもしれないけど」

「そんなことないです……」


 肩を竦めてちょっとした自虐をすると、ハインリヒはすぐに首を緩く振ってそれを否定した。彼は何処までも真っ直ぐに僕を信頼してくれている。それが嬉しくないわけではないけれど、その過度の憧れと今も何処かに残っている罪悪の意識が鎖となって彼を縛りつけているようにも思える。僕はそれが気の毒でならない。

 ハインリヒはそんな僕の気持ちに気付くことなく、ポツリと呟く。


「……俺も、いつか先輩みたいになれるでしょうか」

「僕みたいになる必要はないんだよ。ハインリヒらしく後輩たちを導いてやればいい」


 僕は心から思っていることを、そのまま言葉にして伝えた。この気持ちが何処まで届くのかはわからない。僕が言ったところで彼を救うことはできないのかもしれない。だけど、少しでも伝わってほしい。そんな想いで僕はそう言った。

 その言葉がきちんと心に伝わったのかはわからないけど、当初の勢いを失って冷静さをいくらか取り戻したハインリヒは、急に恥ずかしくなってしまったようで耳を赤くして立ったまま恐縮してしまった。


「……すみません。朝からこんな見苦しい……」

「何を言っているの。そんなの今さらじゃないか。むしろあんなに泣き虫だった新入りがちゃんと先輩の自覚を持つようになって、人間の成長というものを感じたよ」

「先輩……昔の話はご勘弁を……」


 謝るハインリヒに軽口を叩くと、ますます赤くなって俯いてしまった。その様子にひとまず大丈夫そうだと秘かに安堵する。真面目すぎる彼は時々こうしてひとりで思い悩んでしまうことがある。僕が脚を怪我した時も、このままでは自責の念に押しつぶされて自決してしまうのではないかと囁かれるほどだった。

 そういえばこんなふうに説教をするのはその時以来だということに気付きながら、僕は椅子から立ち上がった。テーブルに負荷をかけて左脚を庇いながらも、できるだけ自分の力だけを使い、自然な動作で立つ。ハインリヒにこんな傷なんてたいしたことないんだというところを見せたかった。どうせすぐに歩くために杖が必要になるのだけれど。


「さて、そろそろお開きにしようか。若者が非番の日にこんな狭い家に居座るものじゃないよ。僕もそろそろ出かけようと思っていたところだし、見送りをさせてくれるかい?」

「あっ……長々とすみません。あの、お詫びにお送りしましょうか」


 ハインリヒがそう言うと、それまで伏せていたアドルフも立ち上がって僕を見上げて答えを待った。ハインリヒに従順な彼は意外と気位が高く、自分が気に入った相手しかその背に乗せない。どうやら僕は彼のお眼鏡に適っているらしく、今も乗るか?と訊いてくるような眼を向けてきている。アドルフが心を許してくれているのは嬉しいけど、僕はその親切な申し出を断った。


「いや、いいよ。ちょっとは歩かないとね。右脚まで鈍ったら大変だ」

「そうですか……。……あ」


 ミールに促されて玄関の扉を潜ったところでハインリヒが何か思い出したらしく、声をあげた。どうしたのだろうと思ったら、彼は少し恥ずかしそうな顔をして僕のほうを振り返った。


「先ほど、守秘義務って言いましたけど……先輩に黙っていてもあまり意味がなかったかもしれません」

「え?」


 それがどういう意味なのかわからなくて聞き返したけど、彼の耳には届かなかったようだ。颯爽とアドルフに跨ると、ハインリヒはペコリと頭を下げた。


「では、失礼します」

「あっ……ハインリヒ!」


 飛び立とうとアドルフが翼を広げたところで、慌てて声をかける。止まってくれた彼らに微笑みかけると、僕はかつて一緒に戦った友へかける言葉を一瞬、思案した。

 二年前、外部の敵の攻撃からハインリヒを庇って負った傷を、彼がまだ気にしているのはわかっている。けれど、僕は以前のように彼と仲良くしたかった。だから、軍を辞める時に泣いて詫びるハインリヒにお願いした。これからもいい友人であってほしいと。傷のことは何も気にせず、今まで通り仲良くしてほしいと。だからこそ、僕は彼の奥底に根付く罪悪感に気付かないふりをして、明るく平凡な言葉を選んだ。


「また、いつでもおいで。今度はリタのいる時にでも食事をしよう。僕だけ君に会ったなんて言ったら、ずるいって言われちゃいそうだしね」

「……はい、もちろん。また来ます。では」


 最後に柔らかな笑みを見せ、ハインリヒは頷いてくれた。会話を終えたことを察したアドルフが地を蹴り、その大きな翼を羽ばたく。あっという間に空高くへ舞い上がり、どんどん遠ざかっていく彼らの姿が見えなくなるまで、僕とミールは眩しげな眼差しで見送ったのだった。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 ハインリヒを見送ったあと、いつもより少し遅くなったけど、僕はミールに支えられながら教会に辿りついた。教会へ向かう道の途中にある図書館の受付のお嬢さんが心配そうに、僕が日頃から通る道をチラチラ見ていたけど、僕の姿を見つけるとホッとしたような顔をしていた。きっといつもより三十分ほど出るのが遅かったから、心配してくれたのだろう。そんな彼女に軽く会釈して、僕とミールは教会までゆっくりゆっくり歩いてきた。

 通い慣れた小さな教会は、神に関わる場所にしては極めて簡素な造りをしている。三十人も入ればいっぱいになってしまいそうな小部屋は、天井も壁も床も真っ白だ。その白い空間には古いカーペットと長椅子が何脚か設けられているだけで、ほかには何もない。神を象る像や絵すらも置かれていない。その理由のひとつはケーストースが移民の国であることだろう。あらゆる地域から集った者たちから成るこの国では、家ごとに異なる神を信じていると言っても過言ではない。だから、どの神にも祈れるように、教会自体には何も置いていないのだ。

 僕の家は特に決まって信仰する神様っていうものはいないけど、僕も妹もその存在自体は信じている。昔から暇があったら此処に来ていた僕は、軍を辞めてからは毎日の日課として二年前からずっと通い続けている。

 朝が過ぎて昼前あたりに来ると、大抵ほかの人はいなくて白い部屋の中はガランとしている。僕とミールは擦り切れつつあるカーペットの上を歩いて、一脚の長椅子に腰かけた。ほかに誰もいないのに、なんとなくいつも一番後ろの左端に置かれた椅子を選んでしまう。ミールが隣に座ると椅子がギシギシと不安げに鳴いたけど、それもいつものこと。僕らは小さな教会の片隅に腰を落ち着かせると、自己流に両手を組んでお祈りの態勢を整えた。それから瞼を閉じて、僕はいつものように神様へお願いするために、誰にも話したことのない自身の過去を静かに振り返り始めた――。




 僕は根っからのケーストース人じゃない。十四年ほど前に、まだ乳飲み子だった妹を連れてこの地に流れ着いた移民だ。これは誰にも話したことがないのだけど、この国に迎え入れてもらうまで、僕は人間じゃなかった。




◆  ◆  ◆  ◆  ◆




 物心ついた頃から僕は檻の中にいた。たくさんの人の形をした家畜たちと一緒に狭い檻に閉じ込められて育ち、外の世界を知らないまま育った。やがて僕をそこから出してくれた人はいたけど、そこでも僕は人間ではなく家畜だった。救い出してくれたと思った人は救世主なんかじゃなく、ただ労働力として家畜を買った飼い主に過ぎなかった。

 僕を買った新しい飼い主は大きな農園を持っていて、昼間はそこで重たい荷物を延々と運び続けて失敗すると殴られた。だから、僕は一生懸命働いたけれど、ほかの大きな家畜たちに比べたらどうしても拙い働きになってしまう。


「おい、さっさと運ばねぇか!」

「ご、ごめんなさい」


 一日に何度も謝って、重たいものを背負って何往復もする。強い日差しの下でそんなことを繰り返していると、何処が痛いのかもわからないくらい全身が疲労でもっと重たくなるんだ。

 でも、仕事が終わっても満足に休むことは許されない。夜も狭い豚小屋のような掘っ立て小屋にほかの家畜と一緒に放り込まれて、少しでも身動きすると年上の家畜によく殴られる。そんな生傷が絶えない日々は確かにつらかったけど、僕にとっては日常だった。


「おい、ご主人様がいらっしゃったぞ」


 歯を食いしばって荷物の重さに耐えていると、不意に聴こえてきたほかの家畜の言葉に、僕は地面に向けていた視線を上げた。

 するとちょうど少し離れたところで、よく手入れされた、この辺りでは珍しい自家用車からひとりの男が降りたのが見えた。

 あれが僕らの飼い主。広大な農園の主だった。


「今日は坊ちゃまも一緒だ」


 続けて聴こえてきた誰かの呟きに眼を凝らすと、ご主人様の影に隠れるようにして、僕と同じくらいの年の男の子が寄り添っているのがわかった。彼はご主人様の息子で、たまに農園にもやってきた。話したことはない。家畜はご主人様たちに声をかけてはいけないんだ。


「×××」


 彼はいつもきれいな洋服を着てニコニコ笑っている。今日も父親に名を呼ばれて、はにかみながら笑っていた。僕とそんなに変わらない年であるはずなのに、彼はまるで別の生き物のようだった。いや、僕は実際にそう思っていたんだ。だから、時々遠くから彼を眺めるだけで近付こうなんて気は起きなかった。目が合ったことすらもない。だけど、愛しげに両親から呼ばれる彼の名だけは僕の頭にこびりついた。

 きっと自分にはない、当たり前のことが羨ましかったのかもしれない。いつもは僕らを汚物のように扱う男が彼を見るときだけは優しげな顔になって、彼だけの名前(もの)を呼び、その庇護のもとで何ひとつ不自由な生活を送る。そんな彼の生活は家畜として生まれた僕にはひどく眩しく見えた。


「おい、ぼさっとしてないで働け!」


 突然の怒鳴り声に僕はハッとして、ご主人様たちの登場にすっかり止まっていた体をまた動かし始めた。さっさとしないと殴られてしまう。

 僕は背中の大きすぎる荷物を背負い直すふりをして、もう一度、横目で彼を見た。彼は僕らに目をくれることもなく、やっぱりニコニコと笑っていた。それは別段珍しくもない見慣れた光景。でも、そんな光景にもやがて終わりがやってくる。

 そんなことがあるなんて露にも思っていない僕はほんの小さな息を吐いて、歯を食いしばりながら泥だらけの足を踏み出した。この日常がこれからもずっと続いていくのだと、疑うこともなく愚直にその日を生き延びようと身を粉にして働いたのだった。




 その日の夜、ふと目が覚めると、灯りもなく真っ暗なはずの小屋が妙に明るいことに気がついた。動くと殴られるから体は寝かせたまま、眼だけで辺りを見渡して、聞き耳を立てた。すると、遠くから怒鳴り声や物を壊すような音が聴こえてきて、これはただごとではないとすぐに理解した。そこで殴られるのも覚悟で思い切って起き上がってみると、小屋の中が妙に広い。いつもそこにいるはずのおとなたちが、いなくなっていた。残されている子どもたちは泥のように眠っている。僕はもう眠れなかった。

 こっそりと音を立てないように忍び足で小屋を脱出した。こんなところが見つかったら起き上がれなくなるまで折檻されるけど、周囲には誰もいなかった。農園の主の一家が住むお屋敷の方向が騒がしい。視線を向けてみると、そっちの空が夜だというのにやけに明るくて、そこだけ昼のようだった。風に乗って何かを焼いた臭いが運ばれてきている。

 明らかな異常事態に一瞬、呆然とした。でも、すぐに慌ただしく殺気めいた足音がいくつも聴こえて、僕は咄嗟にお屋敷とは反対の方向へ走りだした。

 今でも僕はどうして自分がこのとき走ったのかわからない。逃げるなんて発想はなかった。だけど、何かに惹かれるようにして僕は走り続けた。脚も肺も限界を超えて痛くなった。それでも走り続けた。

 農園の敷地を越え、未開の森に入っても僕はただひたすらに走り続けた。そして、やがて大きな壁が行き止まりとなって、僕は足を止めた。

 体のあちこちががくがくと震えていたけど、何とか顔を上げてその大きな壁を見上げた。それは山とも言えないような小さな丘だった。もう体がとっくに限界を超えていた僕は何処かで休もうと思い、重たい体を引きずって、辺りを散策した。そして、大きな岩を見つけてその陰で休もうと、岩の反対側にまわった時、僕は今でも鮮明に思い出す光景を見た。

 人が、死んでいた。小綺麗な格好の女性と僕と同じくらいの男の子が、もはやただの肉塊となってそこに転がっていた。死体となった男の子は間違いなくあの子だった。数時間前まで笑顔だったその子は物言わぬ骸となってそこにあった。きれいなはずの服が血でどす黒く染まっていた。

 人が死んでいるところはそれまでに何度も見てきていた。でも、なぜだかその子の亡骸はいつになっても忘れることができずにいる。今でもまるであの日に戻ったかのように、ハッキリとその姿を見ることができた。その時も、僕は見慣れているはずの死体を前に強いショックを受け、動けずにいた。だけど、女性の死体の胸の辺りで何かがもぞもぞと微かに動いているのが見えて、僕はハッとした。

 まるで何かに導かれるようにして、僕は横を向いて倒れている死体が守るように抱きかかえている布の塊を暴いた。すると、本当に小さな、少し力を込めたら壊れてしまいそうな、赤ん坊の白い顔が現れた。

 まだ生まれて数か月も経っていないようなその赤ん坊は生きていた。少し血が染みてはいたけど清潔な布で何重にも巻かれた赤ん坊は、すぐそばで人が死んでいるというのに泣くこともなく、静かに眠っていた。恐る恐る抱き上げてみると、ふにゃふにゃと柔らかくて不安になったけど、その子はそれでも泣くことはなくて眠ったままだった。

 しばらく赤ちゃんを抱いたまま、ジッと見つめていたけど、また物騒な足音が近付いてきていることに僕の耳が気付いた。このままでは僕もこの子も危ない。そう思って咄嗟に何処かへ隠れようとしたその時、僕はあるものを見つけた。

 それは岩陰にひっそりと隠された割れ目だった。丘の根元のあたりに空いたその穴は、小さな子どもなら何とか潜り込めそうなほどの隙間しかなくて、その向こうは夜よりも暗い闇が待ち受けているようだった。もう考えている時間はなかった。僕は急いで赤ん坊を抱えたまま、割れ目の中に滑り込んだ。そして、すぐに姿を現したらしい男たちが何やら興奮するように大声をあげて、その足音が過ぎ去るまで、僕は息を殺して赤ん坊を抱き締めた。


 どれほど時間が経っただろう。耳を澄ましても何も聴こえてこなくなった。恐る恐る立ち上がってみると、割れ目の中が思っていたよりもずっと広いことに気がついた。しかも今いるところも道の途中になっているらしく、前にも後ろにも果てしなく感じるような暗闇の道が続いている。

 僕は少し迷ってから、壁伝いに歩いて行ってみることにした。外に出ることもできたけど、まだ何処かにあの子たちを殺した者がいるかもしれないと思うと、出ていく勇気はなかった。

 赤ちゃんはまだ眠っていた。僕は起こさないように気をつけながらその子を抱え直すと、一歩一歩慎重に歩き始めた。進むごとに闇は一層深くなっていくようだったけど、戻ることは考えなかった。左肘を壁にくっつけて引きずるようにして、今度はひたすら歩き続けた。

 そして、やがて曲がり角に辿りついて、慎重にそこを左に曲がると、もはや僕の脚は言うことを聞かなくなった。いつもの労働による疲れなんて可愛く感じるほどに、僕は疲労困憊していた。もう一歩だって歩けそうになかった。壁に背をつけて、そのままズルズルとしゃがみこむ。両腕に抱えた赤ちゃんもまるで鉛のように感じる。僕は最後の気力を振り絞って赤ん坊を潰さないようにその場へ座り直すと、気絶するように眠りについた。


 夢も見ずにただ昏々と眠って、何かの気配をそばに感じて僕は目を覚ました。ぼやける視界に闇の中で相変わらず布に包まっている赤ちゃんの姿がなんとなく見える。さすがにもう起きたのか、手を握ったり開いたりしているみたいだ。眠っている間に赤ん坊を拾ったことを忘れていた僕は、起きる寸前に感じた気配はこの子だったのだと思ったけど、それはどうやら間違いだったらしい。

 すぐそばから感じる大きな動物の息遣いに気付いて、僕の頭は急速に覚醒した。何かがいる。心臓がドクドクと激しく脈打った。

 辺りは月のない夜の日よりも真っ暗で、何も見えない。目の前にいる赤ちゃんすらもその輪郭がぼんやりと見えるくらいだ。獣の姿は確認できない。でも、そばにいるのは間違いない。強大な見えない威圧感がそこにあった。

 僕は隠れることも逃げることもできずに、赤ん坊を抱き締めて震えることしかできなかった。食べられちゃうかもしれないという恐怖に動けなかった。そして、ついに獣が動く気配を感じて、もう駄目だと僕は瞼をギュッと瞑った。

 だけど、赤ん坊ごと僕の体を持ち上げたのは、たくましい腕の感触だった。少し毛深いけど人間のもののように思えるその腕に、僕は少なくとも食べられることはないかもしれないと思った。抱き寄せられた胸元もやっぱり毛深くて、やけに大きかったけど、人間の体そのものだった。そのことに少し安心しながらも、これから何をされるのかわからない不安は残ったまま、ジッと固まっていると、僕を抱き上げた人は気にすることなく歩き始めた。

 真っ暗闇の中を迷うことなく進む足どりはしっかりしていて、僕たちは揺れで落とされる心配もなく、ただ運ばれるだけだった。その間にも心地いい揺れがゆりかごのように感じるのか、赤ん坊はやっぱり泣くことはなかった。

 そうして、誰もが声をあげることなく、ただ身を任せて進んでいくと、突然、光が目に入った。あまりの眩しさに僕は目が痛いくらいくらんで涙を流したほどだった。でも、だんだんと眼が慣れてくると、その光はそこまで強いものではなく、真っ暗な場所を頼りなくほんのりと照らす程度のものであることがわかった。

 壁に取り付けられたその松明の灯りは、薄っすらとではあるけど、此処まで僕らを運んできた人の全貌を映し出してくれていた。僕を抱いている腕はやっぱりたくましく、服を着ていない体も男らしい筋肉で盛り上がっている。だけど、そのすべてがおよそ人間ではありえないほど豊かな毛に包まれて、炎の光に当たって光沢を放っている。

 僕は恐る恐る視線を上に向けて、彼の顔を見上げてみた。すると、その太く短い首の上には人ではなく牛の頭が乗っかっていた。人間の体に牛の頭。まさしく化け物だった。

 その姿を目にした時、僕は当然びっくりして息の吸い方を忘れるほどだった。でも、彼の瞳が今まで見てきた誰よりも優しいものに思えたせいか、さっきまでの恐ろしさは不思議と消え去っていった。その予感は当たっていたようで、牛頭の彼はそっと壊れ物を扱うような仕草で僕を地面へ降ろすと、何もせずにふたたび暗がりの中に消えていった。

 一瞬、逃げようかとも考えたけど、一度得た灯りを手放すのが惜しくて、僕はその場に座って少し休むことにした。彼が帰ってくるかはわからなかったけど、動かずにいればまた会える気がした。僕はこの時すでに彼を信用し始めていた。


 その考えもやっぱり当たっていたらしく、僕がまたうとうととし始めた頃、彼はその大きな両手に何かを抱えてようやく帰ってきた。一体何を持ち帰ってきたのだろうと思って少し離れたところから覗き込むと、それは金でできた小さな杯と匙、それからいくつかのプラムだった。

 彼は僕の隣に座ると、金の杯の中に並々と注がれている乳を金の匙ですくって、僕の腕の中でパッチリとした瞳をパチパチとさせていた赤ん坊の口元に運んだ。すると、それまで指をしゃぶっていたその子は唇にちょっぴり垂らされたミルクの味に気付いたのか、かなり一生懸命になって運ばれてくる食物を舐めとっていった。

 しばらくそうしているうちにお腹がいっぱいになったのか、まだミルクが残っているのに赤ちゃんはまた眠ってしまった。その様子に安心して布を巻き直してやろうと、そっと地べたにその子を寝かせると、横から大きな手がずいっと目の前に差し出された。その手には僕の拳ほどの大きさのプラムが三つ乗せてあった。牛頭の優しい瞳が頷くように僕を促している。そこで僕はようやく自分がすさまじい空腹に襲われていることを自覚して、気がつくとお礼を言うことも忘れて大きなプラムにむしゃぶりついていた。

 何処から持ってきたものなのかはわからないけど、プラムは本当においしかった。それまでも何度か運よく僕のもとへ流れてきたプラムを食べたことがあったけど、そんなものとは比べ物にならなかった。記憶にある虫に食われて酸っぱいだけのプラムは別の食べ物だったんじゃないかってくらいに甘くて、僕は夢中になって食べた。それから余ったミルクも差し出されて、それも飲み干すと、牛頭の暖かな視線と目が合った。その瞳に映っている僕は家畜ではなく、あの死んだ男の子と同じ人間の子どもに見えた。

 それを見た瞬間、僕の胸の中が今までにないほど大きく波打った。その波は鼻の奥をツーンと刺激して、眼からこぼれ落ちていった。自分でも訳が分からないまま、その場に立ち尽くして泣きじゃくっていると、牛頭が少し迷いながらも抱き寄せてくれて、僕は一層激しく泣いた。それまでの苦しみが涙になって流れ出て、たまらない気持ちになって牛頭の首に腕をまわすと、ひたすらわあわあと泣き続けた。牛頭の見るからに硬そうな筋肉は存外柔らかくて、僕はその厚い体に埋もれるようにして縋りついた。


 そして、やがて涙も枯れて心地いい疲労感の中、僕は知らぬ間に眠っていたようで、次に目を覚ました時、僕はまた一寸先も見えない暗闇の中にいた。でも、僕を抱いてくれている腕は間違いなく牛頭のもので、僕は安心してその胸元に体を預けた。反対側の腕には赤ん坊が抱かれているようで、時々無邪気な言葉にならない声をあげている。牛頭は僕らを抱きかかえたまま、真っ直ぐに道を進んでいく。

 複雑な迷路を進んでいる間に、僕らが言葉を交わすことはなかった。だけど、片耳をくっつけている胸板からトクトクと聴こえてくる鼓動が、雄弁に僕へ語りかけてくれていた。

 きっとこの外の光が差し込まない闇の迷宮で、彼はずっとひとりぼっちだったんだ。寂しくて、悲しくて、こうやっていつもひとりで暗闇を彷徨っていたのかもしれない。僕もずっとひとりだったから、わかる。誰にも必要とされず、使われて当然の家畜だった僕。そして、家族を殺されてひとりだけ生き残った赤ん坊。僕らはみんなひとりぼっちだった。だけど、今は何も見えない闇の中で、お互いの体温を分かち合っている。

 僕は眼を閉じて、牛頭の心臓の音に耳を澄ませた。規則正しく静かに繰り返される、生きている者の音に、僕はすっかり安心しきって、身を委ねた。彼が何処へ向かっているかはわからなかったけれど、三人一緒なら何処へ行ってもいい気がしていた。


 次に目を覚ますと、満天の星が目に入った。どうやら外に出られたらしい。眼を開けたのが夜でよかった。太陽が昇っているうちだったら、眩しさのあまり眼が潰れていたかもしれない。

 牛頭は外に出ても相変わらず迷いのない足取りで何処かを目指していた。大股でゆっくりと歩いていく。赤ん坊も起きていたけれど、指を涎でベタベタにしておとなしくしている。僕は牛頭に身振りでお願いして、また自分の手で赤ん坊を抱かせてもらった。ミルクを飲んだ赤ちゃんはずっしりと重くて温かかった。牛頭の彼と小さな赤ん坊の温もりを感じながら、僕は黙って身を任せた。

 いつの間にか辺りは深い霧に包まれて、僕の眼ではもはや何も見えなくなっていた。でも、牛頭はしっかりと前を向いて歩き続けた。そして、どれだけ歩き続けたのだろう。

 真っ白な霧が途切れた時、僕らは頑丈そうな門の前に出ていた。見たことのない建物がたくさん並んでいる門の向こうから、人が駆け寄ってくる。僕は少し怖かったけど、牛頭がいるからきっと大丈夫だと思えた。そうして、石壁の囲いの中から人が出てきた時、それまで一回も泣かなかった赤ん坊が僕の腕の中で、火をつけたように大声で泣き始めてしまった。その小さな体にそれだけのエネルギーがあったことにびっくりして、何か言葉をかけようとしたけど、どうやら僕も知らないうちに限界を迎えていたらしい。心配そうに駆け寄ってくる人の姿を視界の端に捉えて、僕の意識はそこで途切れた。


 こうして僕はケーストースに迎え入れられた。

 最初に名前を尋ねられた時、僕は咄嗟に〈レヴィ〉と名乗った。殺された男の子、赤ん坊の兄の名前だったけど、それはしっくりと僕に馴染んだ。赤ん坊は彼女を包んでいた布の一枚に〈リタ〉と刺繍されていて、それが彼女の名だった。僕はこの瞬間からリタのお兄ちゃんになった。この小さな命を守っていくことが、僕の使命になったのだった。

 そして、僕らと一緒に牛頭もケーストースに受け入れられていた。この国では御伽噺に出てくるような魔物を友魔と呼んで、一緒に暮らすのだと教えてもらった時、彼はその意味を噛みしめるように瞼を閉じていた。僕は彼――ミノタウロスという魔物らしい――に〈ミール〉と名付けて、一緒に暮らし始めた。もしかしたらミールは僕の友魔になることを、出会ったときから決めていたのかもしれない。

 僕らはひとまず国の軍に預けられて、そこで色々なことを学んだ。僕はがむしゃらに勉強して、学校を卒業すると軍に入隊した。受け入れてくれたこの国に恩返しがしたいという気持ちもあったけど、何より妹を守りたいと思ったから、僕はミールと一緒にこの国を狙う敵と戦った。

 軍に入ると同時に僕は家を買った。僕らに親がいないことを知っている親切な大家さんは、お金は少しずつ払ってくれたらいいと言ってくれて軍でもらったお給料からちょっとずつ支払うことになった。その家で僕とリタとミールは三人で暮らし始めた。途中、ひどい日照りの年にリタが干からびかけたスライムを拾ってきて、家の中は一層、賑やかになった。

 軍でも後から入ってきた後輩たちに恵まれて、僕は自分がどんどん人間になっていくのを感じた。もう家畜だった僕は何処にもいない。いつだって周りには人がいて、ミールがいた。




 僕は間違いなく幸せだ。二年前、後輩のひとりを庇うようにして負った傷はもう治ることはないと言われ、軍も辞めるしかなかったけど、僕はそれでも幸せだと声を大にして言える。だから、僕は今日も神様にお願いする。

 これからもずっとみんなと一緒にいられますように、と。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 僕は閉じていた瞳を開けて、祈りを終わらせた。毎日繰り返していることだけど、終わりはいつも胸がいっぱいになる。その感情の昂りをそっと息と一緒に吐き出して、僕は隣に座っているミールを見た。彼も僕の日課が終わったことを察したのか、ひとつ頷くと長椅子から立ち上がって僕を立たせる手伝いをしてくれようとする。ミールのたくましい腕と杖にしがみつくようにして何とか立ち上がると、僕は教会の外に出ようと不自由な脚で次の一歩を踏み出す準備をした。

 すると、突然、後ろから僕らを呼び止める声が聞こえてきた。


「……レヴィさん、ですか」


 名を呼ばれて振り返ると、まだ少年と言ってもいいような、妹とたいして変わらない年頃の男が立っていた。男は教会の世話人、つまるところ聖職者が着る黒い制服姿で、ピッチリと撫でつけられた髪や分厚いレンズの眼鏡すらも真っ黒という出で立ちだった。今まで足しげく通ってきた僕が教会で見かけたことがないことから、彼がこの教会の新人だということはすぐにわかった。おそらくこの小部屋に面している仕事部屋から現れて、僕らがお祈りを終えるのを待っていたのだろう。

 けれど、初めて会った新人が僕の名前を知っていること、そして彼の風貌を何処かで見たような覚えに僕は首を傾げた。


「君は……」

「ペキ・シーと申します。所属部署が異なっていたので、あまり関わりはありませんでしたが、俺も元軍人です」


 そう言われて合点がいった。確かに軍にいた頃、何度か見かけたことがある。話したことがないのに記憶に残っていたのは、彼もまた移民だったからだ。そして、軍にいたはずの彼が此処にいることで、今朝のハインリヒの言っていたことにも納得がいった。僕のことをよく知っているあの後輩は、僕が毎日欠かさず教会に通っていることを知っていた。

 僕は事前にペキくんが軍を辞めたことに何か深いわけがありそうだと聞いていることをおくびにも出さないで、あくまでも軽い世間話をするような調子で言葉を返した。


「ああ、君のことは覚えているよ。僕と同じ移民だし、印象に残っているんだ。軍を辞めて聖職者になったんだね」

「はい。……俺は色んなものを裏切ってしまったので、これから罪を償っていこうと思いまして」


 詳しくは語らないけれど、面白くはない事情を抱えていることを匂わせる彼の言葉は重かった。こんな若い子がいったいどんな罪を犯したというのだろう。僕はそう思いながらも、深く聴き入ることはせずに小さく相槌を打った。


「そう。色々あったんだね」

「……この国に来て、多くのことが変わりました。俺はずっと此処で生きていきます」


 ポツリと呟くようにそう言ったペキくんの眼差しは暗く、まさしく罪人といった雰囲気だ。本当に悔やんでいるのがありありと伝わってきて、僕はなんだか胸が苦しくなってしまう。妹とふたつか三つほどしか変わらないような子がこんな顔をしていることが耐え難くて、僕はよせばいいのに彼の事情も知らないまま語りかけた。


「余計なお世話かもしれないけど……この国では誰しもが自由だ。少なくとも外からやってきた僕はそう思う。僕はこの国でやっと自由になれたから。だから、君も自由になっていいんじゃないかな」


 我ながらひどくお節介だとは思ったけど、それでも本心からそう言うと、彼は少し驚いたような顔をした。でも、すぐに平静を取り戻して、ゆるゆると首を振った。その口元には不器用な微笑みが浮かんでいる。


「俺は、自由ですよ。生まれて初めて自分で自分の道を選ぶことができましたから……だから、ほかの人には窮屈な生き方に見えるかもしれないけど、俺は今、自由なんです」


 彼の答えは何処か物悲しさを感じさせたけど、それでもその選択に後悔があるようには見えなかった。それはきっと彼自身が言うように、自分の意思で望んだことだからだろう。その道がどんなに険しいものでも、彼は己のために選んだのだ。僕が人間であるために大切な人を守りたいと思ったのと、同じように。

その答えを聞いて、やっぱり余計なお節介だったと、僕は改めて頭を下げた。


「そっか。余計なことを言ってしまったね。ごめんなさい」

「いえ、いいんです。……俺も本来は話を聞く側なのに、すみません」

「いや、僕は君と話せて嬉しかったよ。数少ない移民仲間だしね。また暇なときに話してくれるかい?」

「はい。もちろん。俺も軍の英雄とお話できて嬉しかっ……こら、パオ!」


 急に大声を出した彼に何事かと思ったら、どうにもそれまでおとなしく彼の背中に隠れていたらしいグレムリンが彼の体をよじ登って、僕の隣に寄り添っているミールのツノへ手を伸ばしていた。どうやら微かに揺れるリボンが気になったらしい。パオと呼ばれたその子は誤魔化すように眼をぐりぐりさせて笑った。ペキくんは友魔の急なおこないに、申し訳なさそうに謝った。


「すみません。こいつ悪戯好きで……」

「構わないさ。ねぇミール?」

「ぶも」


 僕に同意を求められたミールは、左のツノに結んであったリボンをほどきながら頷いた。そして、そのピンク色のタータンチェック柄のリボンを手にパオくんへ近付いた。


「もー」

「ぎゃう?」


 ミールは不思議そうに首を傾げるパオくんの後頭部にリボンをまわして、頭のてっぺんあたりでふんわりと結んだ。パオくんが確かめるように首を振ると、それと一緒にパオくんの頭と同じくらい大きなリボンも揺れる。どうやらミールは彼にリボンを譲るつもりらしい。


「ミールからのプレゼントだって。大事にしてね」

「んぎゃ!」

「……ありがとうございます。なんか、すみません……」


 嬉しそうなパオくんを頭にしがみつかせたまま、ペキくんは申し訳なさそうに恐縮してしまった。僕は気にしないでほしいという気持ちを込めて微笑みだけ返すと、話題を変えて彼にひとつ質問した。


「僕らはまた明日も来るけど、君もいるのかな」

「はい。平日の昼間は俺の担当ですから」

「そしたら、挨拶はまた明日、だね」

「……はい。また明日、お会いしましょう」


 厚いレンズの向こう側で眩しそうな目つきを僕らへ向けたペキくんに別れを告げ、ミールに支えてもらいながら教会を後にした。

 いつもよりも遅いとはいえ、まだ昼だ。あちこちの家から昼食のいい匂いが漂ってくる。何てことはない日常の風景。その中に自分が存在していることがどれだけ幸福か、僕は知っている。

 体を支えてくれているミールに視線を向けると、彼はあの日と変わらない優しい瞳をしていた。いつだって隣にいてくれたミール。彼は僕のよき友人であり、兄弟であり、相棒だ。僕にとってミールは特別な存在で、ミールにとっても僕は特別なんだ。

 もうこの日常を守るために戦うことはできなくなってしまったけれど、僕はこれからもずっとこの国で生きていく。いつか妹のリタは結婚してお嫁に行ってしまうだろう。彼女が僕のもとを離れていくのは寂しいけど、その日がきたら笑顔で見送りたいと思っている。それがレヴィとして、兄としての僕の役目だから。でも、彼女が帰りたいと思ったときにいつだって帰ってこられる場所でありたいとも思う。それはきっと家族として、リタを守ってきた僕だけの特権だから。

 だから、僕はあの家でずっと暮らしていく。いつだってミールと一緒に。


「じゃあ、帰ろうか。ミール」

「ぶも」


 僕はミールに支えてもらいながら、不自由な脚で一歩ずつゆっくりと歩き始めた。かつてひとりぼっちだった僕らが集う、暖かな我が家へと向かって。

 僕らはもうひとりぼっちなんかじゃない。僕らには帰るべき場所がある。そんな当たり前の幸せを噛みしめながら、僕と僕の友魔はゆっくりゆっくりと足を踏みしめていったのだった。

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