少女とスライム
冷蔵庫から卵を四つ取り出す。それを熱したフライパンの上で割ると、弾力のある新鮮な中身がこぼれ落ちてあたしの手にはざらついた殻だけが残る。ジュウジュウと音をたてて少しずつ白く固まっていくタマゴから美味しそうな匂いがたちのぼる。その様子を横目で見ながら、残された殻を床に向けて落とすと、あたしの足元で気ままに蠢いていた粘液の塊がそれを受け止めて、その半透明のきれいな青色の体に取り込んだ。
「スラらん、おいしい?」
どんなものでも食べちゃうスラらんに何かをあげる時、あたしは毎回そうやって訊いてみる。スラらんは魔物の中でも考える頭がないって言われているスライムだから、多分言葉の意味はわかってない。それどころか声が聴こえているのかもわからないけど、卵の殻を消化しているスラらんはどこか嬉しそうだ。そんなことを言うと、学校の同級生にそれは気のせいだって笑われちゃうけど。
少しずつ小さくなっていく殻を体内で転がしながらぶよぶよと弾むスラらんに笑いかけて、あたしは朝ごはん作りに戻った。残りの卵も順番に割っていき、殻はその都度スラらんに食べてもらう。それから薄く切り分けたパンをお皿に盛って、色違いの三つのカップに届けられたばかりの牛乳を注ぐ。それが終わる頃にはタマゴがちょうどいい具合に焼けていて、オレンジ色の柔らかい黄身がこれ以上硬くならないようにフライパンを火から下ろした。
「お兄ちゃーん、ミール、ご飯だよー!」
小さな家だから大きな声を出さなくても聞こえるだろうけど、朝から元気だよってことを伝えたくて明るく家族を呼ぶ。
目玉焼きの黄身を破かないように気を付けて、お皿の上のパンに盛り付ける。ふたりは卵ひとつ分、もうひとつのお皿は卵ふたつ分でパンも二人前だ。
決まった席にそれぞれのカップとお皿を並べると、ゆっくりと何かを引きずるような不自然な足音と、ギシギシと床を鳴らす重そうな足音が聞こえてくる。聞き慣れたその音は、出し忘れたフォークを食卓に並べ終わると同時に台所の入り口へ辿り着いた。
「おはよ! お兄ちゃん、ミール!」
「おはよう、リタ。今日も朝ごはんを作ってくれてありがとう」
「ぶも」
あたしの席の向かい側の椅子を引くと、脚の悪いお兄ちゃんがうまく動かない左足を庇いながらそこに座る。左足がただの棒きれみたいになってからもう二年が経つけど、一向によくなる気配はない。お医者さんは一生治らないって言っていた。それを聞いたときはやっぱり悲しかった。でも、一番つらいはずのお兄ちゃんがあまり気にしていなかったから、あたしもお兄ちゃんの左足のことで悲しくなるのはやめることにしてる。
家の中でも歩くのに杖が必要なお兄ちゃんは、椅子に座るまで体を支えてくれた友魔(外の国では従魔って言うんだって。変なの)のミールにもお礼を言った。ミノタウロスのミールはとっても大きい。縦にも横にも大きい。だから、背が高いお兄ちゃんがしがみついてもビクともしない。あたしも小さい頃はよく抱っこしてもらっていたけど、本当に力持ちなんだ。牧場にいる牛と同じ顔(いや、やっぱりミールのほうがちょっぴり怖いかも)をしているミールの体は筋肉の塊って感じで、見るからに頼りがいがある。でも、昔から可愛いものが好きなミールは、いつも左のツノと尻尾の先にきれいなリボンを結んでる。今日もあたしがあげた、白地にオレンジやグリーンの花が咲いているカラフルなリボンを結っている。
「ミール、今日も可愛いね!」
「もー」
頭の辺りを指差して褒めると、ミールは嬉しそうに鳴いてはにかんだ。言葉はわからないけど、ミールは賢いから言いたいことは大体伝わる。
大きくゆったりと結んだリボンが曲がってないか確かめると、ミールも自分の椅子に座った。あたしも急いで自分の席に座ったら、みんなが食卓につくのを待っていたお兄ちゃんが両手を合わせて毎日繰り返しているお決まりのセリフを言う。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
「ぶもも」
あたしたちは朝ごはんと晩ごはんをみんな一緒に食べる。スラらんは普通の食べ物よりも卵の殻とかそのへんの石とかのほうが好きみたいだし、朝はゴミになるはずの卵の殻をあげるだけで満足そうだけど、お兄ちゃんとミールは同じ食卓でごはんを食べる。お兄ちゃんが怪我をして前のお仕事を辞めるまでは、忙しくてあたしひとりで食事を済ますことも多かったけど、二年前からは毎日一緒だ。お兄ちゃんは普段からまったく怒らない人だけど、ごはんを一緒に食べるようになってからもっと穏やかになったかもしれない。あたしはあまり料理が得意じゃないから、簡単なものしか作れないけど、お兄ちゃんとミールが美味しいって言ってくれると嬉しくなる。だから、料理は苦手だけど、嫌じゃない。
目玉焼きに塩を振ってかじりつくと、つやつやした黄身がぷつっと破けて中身がどろりと流れ出る。昔は目玉焼きすらうまく作れなくて、フライパンの上でボソボソのスクランブルエッグになっちゃってたっけ。何の変哲もない朝ごはんからなんとなく自分の成長を感じていると、お兄ちゃんが口を開いた。
「リタ、今日は何時ごろに帰ってくるつもりかな」
「んーとね、学校が終わったら図書館に本を返しに行きたいから、夕方には帰ってくるよ」
「そしたら今日の夕飯はミートパイにしようか。焼きたてを食べたいから、早く帰っておいで」
「やった! 頑張って早く帰ってくるね!」
あたしと違って料理上手なお兄ちゃんのミートパイは絶品だ。今日は絶対に早く帰ってこよう。そう決意して残りの朝ごはんを食べきった。
学生の朝はのんびりとはしていられない。食べ終わったお皿を洗い場まで運んで、朝ごはんを作る前に用意しておいたお弁当(今日はジャムを挟んだサンドイッチと小さい林檎をひとつ)を紙袋に詰めて、いつも通学用に使ってる肩掛け鞄をひったくるように掴んだ。
「スラらん、行くよ!」
声をかけてからテーブルの下で気ままにグニャグニャしていたスラらんを引っ張り出して、片腕で抱える。プルプルとした感触の体はヒンヤリと冷たい。毎日何処でも一緒に連れていくスラらんは慣れたもので、あたしの腕でおとなしくしてる。
ガサガサと音をたてる紙袋をなんとか片手で鞄の隙間にしまいこむ。スラらんを抱っこする前にしまえばよかったなとか考えながら、あたしは元気よく家に残るお兄ちゃんとミールに挨拶する。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「ぶもー」
まだ朝ごはんを食べているお兄ちゃんとミールに見送られながら、あたしとスラらんは学校へ向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おはよ!」
「おはよー、リタ。それからスラらんも」
先に学校に着いていた友達と挨拶を交わす。それから友達の友魔である、犬頭の小人コボルトや羽の生えた小さくて可愛いピクシーにもニッコリと笑いかける。この国で友魔は家族とか友人みたいなものだ。みんなお互いの大切な魔物を蔑ろになんかしない。
でも、人間同士でも親しみからちょっと小馬鹿にするような軽口を言っちゃうことがある。今日もそんな軽い気持ちから、同じ教室で勉強する男子が野次を飛ばしてきた。
「お前、バッカだなー。スライムに挨拶してもわかるわけねーじゃん」
「ちょっと男子うるさい! いいの! こういうのは気持ちが大事なんだから!」
庇ってくれた友達に、あたしはアハハって笑いながらありがとーって言う。スラらんはあたしの机の上で、話をわかっているのか、それともわかってないのか、青い体の中で何処を見ているのかいまいちわからない眼球をグルリとまわした。
学校は嫌いじゃない。むしろ、好きなほうだと思う。あたしはあまり頭がよくないから勉強はわからないところも多いけど、友達は好きだし、絡んできた男子も明るくて兄弟想いのいいやつだ。
だけど、スラらんを悪く言われると喉に何かが詰まるような感じがする。いや、悪く言ってるつもりはないのかもしれない。スライムが魔物の中で一番弱くて頭もよくないってことは辞典にも載ってる。みんなの中ではそれが当たり前なんだ。それにスラらんが言葉に反応したことが一度もないのも事実だから、あたしは何も言えない。
……ううん。違う。
あたしは怖いんだ。そんなことない!って怒って空気を壊して、みんなに何、あいつって目で見られるのが怖いだけなんだ。だから、明るく笑って何とも思ってないふうに見せる。自分の友魔のことなのに、何も言えない。嫌な臆病者だ。
笑顔を貼りつけたまま、目の前にいるスラらんを見る。やっぱり周りのことなんかひとつもわかってないと言うように、目玉が明後日の方向を向いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
学校はいつも通り終わった。返された小テストの点数がパッとしなかったのもいつものことだし、授業中に当てられてちょっと間違った答えを言っちゃったのもいつもと同じだった。気持ちがちょっぴり重たい感じなのも、いつも通りだ。
みんなの言葉を否定する強さもなければ、笑って本心から許すこともできない自分のことが嫌になるのはいつものこと。毎日、心の中でスラらんにごめんねと呟くのはもはや日課になってる。
でも、今日は何かが違った。いつもは自分の気持ちを見ないふりできるのに、今日は何をやっていても暗いものが心についてまわった。自分の友魔を庇えない罪みたいなものがずっと頭の何処かにくっついているんだ。
そのせいでいつもと同じはずのお弁当もやけに味気なかったし、図書館に本を返しに行ったら顔馴染みの受付のお姉さんにも心配されちゃった。人が見てわかるくらい顔に気持ちが出ちゃうなんて、あたしらしくない。あたしはいつでもニコニコしてて、学校では元気でおしゃべりなリタ、家ではお兄ちゃんの明るい妹なんだ。だから、悲しかったり怒ったり、そういう顔は人の前ではしない。
だけど、今日はそんないつものことができずにいた。トレードマークの笑顔は引きつっちゃうし、笑えば笑うほど無性に泣きたくなってくる。
お兄ちゃんが晩ごはんはあたしが好きなミートパイだよって言ってたから、図書館に寄ったら真っ直ぐに帰るはずだったのに、あたしの脚は帰り道の途中にある公園で止まった。ちょっと前に此処よりももっと広くてきれいな公園ができたせいか、子どもはみんなそっちに遊びに行っちゃって、狭くて古い遊具しかないこの公園は寂しげだ。
あたしはちょっとだけ休んでいくつもりで、公園のベンチに腰かけた。西の空に沈んでいく夕日が眩しい。滅多に使われなくなったブランコや滑り台がオレンジ色の夕焼けに照らされて、虚しく佇んでいる。膝の上に乗せたスラらんも夕焼けの光を取り込んで、キラキラしている。
「ごめんね、スラらん」
思わずポツリと呟いた。
いつもは声に出して言うことなんてなかったのに、公園の寂しげな雰囲気がそうさせるのか、それとも今まで塵積もっていたものが自然と口からこぼれ出たのか、あたしは気がついたらスラらんに謝っていた。スラらんはやっぱりわかっていないのか、膝の上でぼんやりと蠢いている。だけど、一度、言葉を口に出してみるとそれまで燻っていた感情が溢れ返るように心を乱した。
「ごめん、ごめんね……」
次々にこぼれ落ちる言葉と一緒に、視界もどんどん滲んでくる。いつもと同じことしかなかったのに、どうして今日はこんなにも気持ちを抑えられないのだろう。今年で十四歳になったのに、これじゃまるで赤ちゃんだ。
止める方法もわからないまま、涙がポロポロと目から落ちていく。スラらんを守れない不甲斐なさとか罪悪感が水になってるみたい。そのしょっぱい水はボタボタとスラらんの体めがけて降っていき、ほとんどが水分でできているというゼリー状の体に吸収されていく。
あたしは慌てて目を瞬かせて、生まれたばかりの涙を弾いた。スライムのスラらんは水が大好きだけど、塩水は苦手だ。きっともともと海(見たことないけど、塩水でできた大きな湖みたいなものらしい)じゃなくて川とか湖がある野山に多く生息しているせいかもしれないねって図書館のお姉さんが教えてくれたんだった。そんな苦手な塩水を取り込んだら具合が悪くなるかもしれない。あたしはどうにかして泣き止もうとするけど、やっぱりそう簡単には止まってくれなくて、焦る一方だ。
だけど、そんなあたしの心配を他所にスラらんは膝の上から体の一部を触手みたいに伸ばして、あたしの顔に近寄ってきた。
「スラらん……?」
涙に濡れた頬っぺたに、スラらんの冷たい体がピタっと吸い付く。それから少しずつ肌の上を這って、下睫毛に触れるくらいの距離までよじ登ってきた。今までにないスラらんの行動にキョトンとしたあたしの眼から、溜まっていた涙が滑り落ちる。すると、涙はそのまま落下することなくスラらんの体内に吸い込まれて、青くて柔らかいゼリーに溶けて、混ざって、消えた。
学校の友達はこんなスラらんを見ても、水分に反応しただけだって言うかもしれない。でも、あたしはそれだけじゃないって信じたかった。あたしがスラらんを友魔だって思ってるのと同じように、スラらんにも心があるんだって思いたい。ううん、きっとある。
他の魔物みたいにお話したり、一緒に遊んだりはできないけど、スラらんはずっと一緒にいるあたしの友魔だから。日照りの年に干からびそうだったスラらんにお水を分けてあげて家までついてきたあの日から、ずっと一緒にいる大事な友魔だから。きっと、一方通行なだけの気持ちなんかじゃない。
「……ありがとう。スラらんはやさしーね」
最後の涙が何処までも柔らかくて果てしないあたしの海に吸い込まれていった。本物の海は見たことがないけど、本の中に出てくる無限に続く大海原はあたしにとってスラらんそのものだった。あたしの片腕で抱けるくらいの大きさしかないけど、スラらんは誰よりも大きくて深い、優しい水たまりなんだ。
泣き止んだあたしは膝の上で目玉をグルグルと泳がせているスラらんに笑いかけた。悲しい気持ちはもう何処にもない。相変わらずスラらんは言葉をわかっていないのか、あたしの声に反応することなくボンヤリとしている。でも、もうそれでいいんだって思えたから。あたしは笑ってベンチから立ち上がった。
「よし、帰ろっか。お兄ちゃんたちが待ってるもんね」
スラらんを抱きかかえて肩からずり落ちた鞄を背負い直して、公園を飛び出した。早く帰らないとお兄ちゃんとミールが心配するし、せっかくのミートパイだって冷めちゃう。
薄っすら暗くなってきた道を走りながら、あたしはちょっとした決意を自分に誓った。
また誰かがスラらんのことをよくないふうに言ったとき。臆病なあたしはきっと怒ることはできない。でも、ちゃんと言うんだ。たとえわかってくれなくても、笑われちゃってもいい。
スラらんは優しくて自慢のあたしの友魔なんだって。だって、あたしはスラらんとずっとずっと一緒にいたいから。だから、それだけはちゃんと言うんだ。
そう誓って、スッキリとした気持ちで走るあたしの腕の中で、スラらんが嬉しそうにグルリと目玉をまわした気がした。