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紅葉に揺蕩う

作者: 新熾イブ




 人の一生は短いものだと、病床の老紳士は老いた口許を緩めた。


 身体のあちこちにガタがきて満足に動けなくなるまで、あっという間だった。今の自分では、自由に歩くことすら困難で。燕尾服に白手袋で屋敷の一切を任されていた日々が懐かしい。


 扉横にプレートに『片桐様』と書かれた個室の病室には、当然ながら老紳士ひとりしかいない。今自分が息を引き取れば、誰にも気づかれずに朽ちていけるのだろうか。そんな馬鹿らしい考えが浮かぶほど、この空間は酷く静かで寂しかった。


 彼はゆっくりと上半身を起こし万年筆を手にとって、何の変哲もない白の便箋に流暢な文字を綴っていく。万年筆は、大切な人から賜った彼の宝物だった。


 丁寧に手紙をしたため、ふっと息を吐く。万年筆を置いてふと窓の先へと目をやると、鮮烈な赤が風に散っていた。


「紅葉、か……」


 花も紅葉も喩えにならぬ程に美しいあの人が、美しいと告げた紅葉。25年前の秋には、あの人と共に見ることの出来た紅葉。



 ――木は冬に無駄なエネルギーや水分を浪費することを防ぐため、落葉の準備を始める。そして葉では、光合成に適さない冬のために、老化反応が起こるのだ。


 その反応で葉の葉緑体の機能が低下し、クロロフィルが分解されて消失する。合成されたアントシアニンで、葉は紅く染まっていく。


 老化の過程で葉が美しく染まるというのは、何とも皮肉なものだ。



「小倉山峰の紅葉ば心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ……」


 薫り立つ色鮮やかな紅葉に、無意識に古人の詠んだ歌を口遊んだ。


 ――ああ、紅葉よ、お前に人間の情が分かる心があるのなら、どうかあの人にもう一度会えるまで、散らずに待っていてくれまいか。

 私の命が散る前に、あの人に見せたいのだ。もう一度、あの人の隣で共に紅葉を見たいのだ。



 叶わぬと知りながらも愛してしまった、春の月のように笑う最愛のひと。


 ――ああ、お嬢様。


 私の淹れた紅茶を“美味しい”と言ってくださることが、私の何よりの誇りでした。その紅茶を飲み、屋敷の紅葉を眺める横顔を眺められることが幸せでした。


 あなたが眺めないのであれば、この紅葉には何の意味もないのです。

 あなたは今も、何処かで紅葉を眺めているのでしょうか。私の憧れた、月の燐光にも似た微笑みを浮かべて、私以外の誰かが淹れた紅茶をお飲みになっているのでしょうか。


 私はもう、長くない。あなたと別れたあの日から、今日(こんにち)まで。死すればお会いできるかと、何度思ったことでしょう。

 それでもこうして年老いるまで生きたのは、この身が枯れ果てるまで生き抜かなければ、たとえ邂逅が叶おうとも、あなたの隣に立つことなど出来ないと心の内で分かっていたからなのでしょうか。


 お嬢様。私はあなたの幸せを、心の底より願っています。私の傍でなくて良い。本当は、もう一度だけ、あなたの隣で紅葉を見たかった。ですがあなたが幸せに生きていけるのならば、私はそれで良いのです。


 けれど、ひとつだけ。ひとつだけ願いを告げても良いのなら。



 決して誰にも言えなかった、言うつもりもなかった想いを、最期に聞いてくれますか。




――――――




 色鮮やかな紅葉を見る度、あの人を思い出す。


 父から理不尽な勘当を受けるまで、私を支え続けてくれていた人。彼が私を冷遇しているなどという悪意に満ちた噂が父の耳に入り、怒った父は屋敷に20年以上仕えた彼を簡単に追放してしまった。

 ――蔑ろになどされていなかった。彼は私が生まれたその日から私の傍で尽くし、こんな私に忠誠を誓ってくれていたのに。


 ベージュをベースに上品に設えた部屋に、ノックの音が響いた。重たい腰をあげて出迎えると、今年で25年連れ添った人が微笑を浮かべて立っていた。


「今年の紅葉は見事なものだね。僕たちの銀婚式を祝福しているようだ」


「……そうですね」


 開けたカーテンから私が紅葉を見ていたことを察したのか、ひどく穏やかな笑みでそんなことを言われて、悪いと思いながらも微苦笑が漏れた。


 ――ああ、あなた。どんなに美しい紅葉であろうと、あの人の隣で見たものに比べれば、私にとっては何の意味もないのです。


 私にとっての美しい紅葉は、あの人の淹れてくれた紅茶を飲みながら眺めたかの日の紅葉だけ。それ以外に、私は価値を見いだせない。



 雅、と私の名前を呼んで、けれど彼は言葉を続けず、視線をさ迷わせた。25年も連れ添ったのだ、何かを言おうとして躊躇っているのだとすぐに分かる。急かすことはせずに彼の黒い瞳をまっすぐに見つめると、彼は躊躇いながらもゆっくりと口を開いた。


「……雅。先ほど片桐さんが亡くなったと、連絡があった。家族葬で、最期の別れは出来ないと」


「……そう、ですか」


 端的に答えた私に彼は痛ましそうな顔をしたけれど、いつかこんな日が来るのだと覚悟はしていた。お別れが出来ないことは酷くつらいけれど、彼を理不尽に勘当した男の娘に連絡をくれたのだから、恨むのではなく感謝しなければ。


「それと、お前に手紙が届いていたよ」


 差し出された封筒を受けとりながら震える声で礼を言うと、気を遣ったのか彼は部屋から出ていった。彼はとても優しい人だ。私の心が自分に向いていないことに気づいていながら、ずっと良くしてくれていた。



 再び室内に戻って、落ち着いたベージュ色のソファに倒れるように腰掛ける。そして虚ろな瞳で、何の気なしに封筒に綴られた差出人を見て――


「……っ、」


 世界から音が消える。頭が真っ白になって、うまく息が出来なくなる。


 早く、早く読まなければ。急く心を抑えてペーパーナイフで封を切ると、震える指先で便箋を取り出した。彼らしい流暢な文字をブラウンの双眸で追い――その視界が、涙で滲んだ。


「……何よ。ずっと連絡してこなかったのに、今になって、どうして」



『決して誰にも言えなかった、言うつもりもなかった想いを、最期に聞いてくれますか。


 私は、あなたのことが――』



 ――今さらだわ。今さら、そんなことを言われたって。


 風に吹かれた紅葉が舞い込む。濃い赤に染まった紅葉が一葉、白い便箋に映える。その赤に、溢れる涙が止まらなかった。


 ――ああ、紅葉よ、お前に人の情が分かる心があるなら、どうかあの人に、私の心を届けて頂戴。


 離れていても想っていたわ。15も離れていたけれど、きっと私も、あなたのことが好きだった。


 あなたが傍に居てくれないのであれば、私には何の価値もありません。あなたは私を月のようだと言ったけれど、それはあなたが居てくれたからだわ。あなたが居なければ、私は輝くことなど出来なかったはずだもの。


 もっと早く、気づいていれば良かった。どれだけ想いを重ねても、あの人はもうこの世にいない。


 私だって、隣で生きていたかった。けれどそれが叶わないというのであれば、せめて。


 もう一度、もう一度だけ、あなたに会いたかったわ。


 無造作にテーブルに置いたペーパーナイフが視界に映る。鈍く光るその銀色に、誘われているような気さえした。あの人はそんなことを望んでいないと分かっているのに、過った考えが、どうしても頭から離れなかった。



 ――死すれば、もう一度、あなたにお会いすることができるでしょうか。




【Fin】





百人一首アンソロジー『さくやこのはな』( http://sakuyakonohana.nomaki.jp/ ) に参加させて頂きました!

二六「小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」を担当させて頂きました。非常に楽しかったです。ありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 思いある両人の物語をそれぞれ入れることで、物語を多面的に見ることができ、気持ちのすれ違いなどを見事に表現できていたと思います。 [気になる点] 最後、彼女は彼にあの世で会いたい一心で、自害…
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