正義の無力
正義などありはしない
正義はいつも無力だ
沢渡はそう呟いた。
**
11月某日、激しく雨の降る日だった。
所轄の刑事沢渡の元に女性の遺体が発見されたと連絡が入ったのは。
「どうも、コロシらしいな」
遺体を確認した刑事の一人が言う。
「ああ、」
沢渡はエリートでもキャリアでもないただの刑事だ。
犯人を追いつめることに異常なほどに固執し、それにしか興味を持っていない、寡黙な男だった。
喜怒哀楽がないのかと思われるほど暗く冷たい瞳。
その唇からは、犯人や、犯人につながる情報しか出てこない。
愛や情熱を紡ぐことは一切なかった。
このような性格なので、独身である。
「それはもう検死官が明らかにしてる」
沢渡はそう言うとその場を立ち去ろうとした。
「おい、どこに行く?現場検証はもう終わっただろう」
「少し気になることがある」
沢渡は女が発見された現場にもう一度向かった。沢渡にはそういう癖があった。現場検証はもう終わっているというのに、沢渡は何度も何度も確認したがるのだ。
「何もこんな雨の中をいかんでも」
「止めても無駄ですよー」
一人の女刑事が笑いながら言った。刑事課では全員、沢渡が犯人に異常な執着をもつ性格だと知っている。刑事という職業柄そうなってしまうのもわからないことはない。
沢渡は、「コロシ」という単語を聞いた時点で、すでに犯人捜査を自分の頭の中で始めているのだ。
「沢渡さんは人一倍正義感が強いからなぁ」
しかし、刑事課の面々はひとつ勘違いをしていた。
沢渡のこの性分が、「正義感からきている」のだと。
沢渡は決して警察としての義務を果たすとか、そういう正義の心などで動いているわけではない。
これは沢渡の趣味なのだ。
この世の中に正義などはないということを、沢渡は知っていた。
「正義?そんなものあるわけない」
刑事課の面々を冷たい瞳で一瞥すると、その場をあとにした。
キッとブレーキをかけ、車を止める。
現場はブルーシートに覆われて、立ち入り禁止のロープが貼られていた。
雨の中傘もささずに、沢渡はじっとその現場を見ていた。
雨の中沢渡は考えを巡らせる。
この現場で女は発見された。
どんな目的で、どんな凶器で、どのように殺したのか。
普通の刑事であれば、このようなことを考えるであろう。
だが沢渡は、全く別のことを考えていた。
犯人のことだ。
ここで、犯人がしたこと。
目を閉じると、悪魔のような顔をした男が女を襲っている。
、、いや....
悪魔というより、あれは獣だ。
被害者は、レイプされた後に殺されたことがわかっている。
被害者の絶望に満ちた叫び、獣のような男の血走った目、そして殺人を犯したあとの、恐怖に満ちた表情。慌てて逃走する犯人....
もちろんそれらは、すべて沢渡の想像にすぎない。
沢渡は閉じていた目をそっと開けた。その暗い瞳には一体何が映っただろう?
卑劣な犯行を犯した犯人を、憎む気持ちや被害者への同情?
だがその瞳からは、何の感情も読み取れない。
そもそも、沢渡はそのような感情を持ってはいなかった。
余計な感情や私情は、沢渡はとうに捨ててしまっていた。
「もしかすると犯人は....」
そこまで言って沢渡は口を噤んだ。
**
「お前みたいなのはな、生きていても仕方ないんだ!」
同時刻、別の場所で、佐伯はある男を殺そうとしていた。
「助けてくれ、許してくれ」
必死の様子で命ごいをする男をよそに、佐伯は悪魔のような笑みを浮かべて言った。
「助けてだと?許してだと?」
ドササッ
銃を突きつけられ、男は腰を抜かして尻もちをついた。
「お前は許しを乞う声に、助けてと叫ぶ声に、一度でも耳を傾けたことがあるのか?ないだろう?性格が歪んでるからな」
佐伯は銃口を男に向ける。
「そうだ、お前を殺す前にあわせたい奴がいる」
そこに現れたのは、男の母親だった。
「お前がしたことは、伝えてある。許しがたい行為、最低で最悪な罪の一部始終を」
「か、母さん....」
「.......!」
男は一人息子で、異常なマザコンだった。
男は母親を見ると、笑ったような泣いたような変な顔をして、
母親の元に行こうとした。
ガツッ
「どこに行く気だよ、愛しの母様に会えて嬉しくって狂気乱舞する気持ちはわかるがお前の死に場所はそこだ!」
そこ....
男は佐伯の指の先を見た。
野犬の糞やら雑草が鬱蒼と茂る草むら。
ここが男の死に場所。
恐怖でガタガタ震えだした男に、佐伯はさして興味なさげに一瞥してこう言った。
「この銃さぁ、どこで手に入れたと思う?」
佐伯は男が震えているのを確認しながら、
「まぁどこでもいいんじゃん?今からお前、殺されるんだから」
と吐き捨てるように言った。
その途端、男は弾かれたように大声を出した。
「母さん!母さん!助けてくれよ!」
「.......」
「なんで!なんで何も答えないの!?こ、こいつ、俺を殺そうとしてるんだよ!?」
「.......」
佐伯はしばらくそのやりとりを見ていた。
佐伯には全く興味はなかったが、目の前で繰り広げられる茶番を無表情で見ていた。その顔からは何の感情も読み取れない。
「さて、お話は済んだか?」
「母さん!なんで何も答えないの!」
男が半泣きで訴える。
佐伯もこれは不思議に思っていた。
てっきり「大丈夫よ」とか「母さんがついてるから」とか言いそうなものなのに。
しばらくして母が佐伯に向かって、おもむろに口を開いた。
「....銃を、貸してくれませんか?」
「は?」
「私が」
母親から出た言葉は意外なものだった。
「私が息子を殺します」
「!」
「か、母さん、なにを言って....」
「義雄...お前は、とんでもないことをしてしまったんだよ、取り返しのつかないことを」
へえ、面白い....
母親がどうするのか、佐伯は少し興味が湧いた。もしかしたらこれは母親の芝居で、銃を渡した途端に佐伯に向かって撃つかもしれない。
だが、佐伯は考えた。
自分は武道を嗜んでいたので、老いぼれの打った弾などいざとなったら避ければいい。
もちろん普段ならあり得ない考え方だが、今佐伯は極限状態にいて、軽くトリップしていた。
今の自分なら何でもできそうな気がする。
この老いぼれの言うことがたとえ嘘でも、銃を奪って親子共々葬ってやればいい。
ただそれだけのこと。
「いいぜ、やってみろよババア」
驚いたことに、佐伯は母親に銃を渡してしまった!
男は歓喜に狂ったように叫び始めた。
「今だ!そいつを撃て!母さん!そいつは、もう人間じゃない!」
「ハッ....」
人間じゃないのはお前の方だろ。
俺の嫁をレイプした挙句、殺すなんて、獣でもしねえ。
「俺が人間じゃないなら」
「....お前は、獣以下のことをしてしまったんだよ、だから償わなければならない!ここでお前を殺して、私もあとを、おう、追う、追う」
母親は佐伯の言葉を遮って言い放つ。
恐怖からか寒さからか歯が噛み合っておらず、吃り気味で言った。
「は?」
母親の目からは、涙が溢れていた。銃口は、男に向けられたままだ。
その時ふと、佐伯は自分の母親のことを思い出していた。
いつも貧乏で、夫に先立たれ、家計も苦しいだろうに、馬鹿みたいに安い給料の仕事にウキウキとして行き、部屋は散らかり放題。
長男にも嫌われ、その嫁にも呆れられ、自分とも半絶縁状態の、不幸の代名詞みたいな自分の母親のことを。
それでも、いつも笑っていた母親の顔を。
(俺は何を....?)
「待っ....」
佐伯は無意識に、制止の声をあげていた。
パン、パン
二発ほど、発砲音が辺りに響いた。
「が、ぐ...」
男は意味不明なうめき声をあげたあと、その場に倒れ、動かなくなった。
「、......ッ!」
「....義雄...お前、お前...」
(お、俺は、なんてことを)
佐伯は一瞬後悔した。
自分のしたことを。男の母親にさせたことを。
こんなことをして、嫁が帰ってくるのか?
その瞬間、佐伯の眼前に、まぼろしの佐伯の嫁が立っていた。
嫁は笑っていた。
「ああ、そうだよな....亜希子、お前のためにやったんだな、俺は間違ってないよな?」
亜希子は笑っている。
まぼろしの中の亜希子は、目を閉じても、どこにいても笑っている。
(いちちゃん!)
亜希子が呼んでいる気がした。
佐伯一也(嫁からはいちちゃんと呼ばれていた)。佐伯の留守中、嫁、亜希子は男にレイプされ、殺された。近所でも仲が良いと評判だった夫婦に突然降りかかった悲劇。
佐伯は泣き叫び、怒りに任せて壁を殴った。
「許さねえ....!」
佐伯はその復讐心、その執念で、犯人を突き止め、その男「義雄」を自分の手で殺そうと決意した。
母親を連れてきたのは、目の前で愛する息子が殺される様を、ただ見せたかっただけだった。
それがまさか、こんな展開になるなんて。
「ハハハハハ、ほんとにやっちまいやがった」
母親は次に、銃口を自らの口に入れ、迷うことなく引き金を引いた。吹き出る血液。内側から飛び散る脳。わけのわからない黄色の液体を噴射させて、母親は銃で自らの命を絶った。あっというまの出来事だった。
「ギャハハ、ざ、ざまぁねえ!親子水入らずで死んじまった!」
佐伯は言いながら、自分の頬を濡らす水に気付いた。
佐伯は泣いていた。
滝のように流れる涙は、止まることを知らないかのように次々に溢れでる。
「ウァアアアアア!!」
亜希子、亜希子....
(いちちゃん!今度あのお店一緒に行こ!)
まぼろしの亜希子が佐伯に話しかける。
「そうだったな、亜希子....連れてってやるからな...」
亜希子に手を伸ばした。
カシャ
「よう、「アキコ」じゃなくて悪いな。2、3質問がある。そこのホトケ二人に関することだ」
てっきり亜希子の手を掴んだかと思っていた佐伯の手は、手錠に繋がれていた。
銃声を聞いた住民が、警察に連絡したのだ。
(もしかすると犯人は....)
沢渡は、先刻呟いた己の独り言を思い出していた。
犯人は、すでに殺されているかもしれない
(そうか、お前が...)
それは、ほとんど沢渡の勘だった。
沢渡は無表情のまま佐伯を連行した。
**
「どうですか?佐伯の調子は、何か話せるようにはなりましたか?」
コーヒーを運んできた女が沢渡に聞く。
「....いや、変わってない」
「そうですか」
逮捕された佐伯は、ほぼショック状態だった。殺し現場を生で見たうえ、自殺する現場と、血が吹き出るのを間近で見たことで、一瞬で頭がおかしくなったのだ。
だがその顔は、笑っていた。
まるで何かから解き放たれたような清々しさを感じさせる笑みだった。
「ガイシャ(亜希子)が望んだ結末だったのかもしれないな」
「?何か言いましたか?」
「いや、何も....」
**
辺鄙な場所に建てられた病院は各部屋が頑丈な鉄格子に覆われ、外にはバリケードが貼られていて、一般の人は入れないようになっていた。
その病院に佐伯はいた。
まぼろしの亜希子と一緒に。
(亜希子、これでずっと一緒だ。)
(いちちゃん!ずっと一緒だよ!)
佐伯だけにしか見えない亜希子が笑っている。
病室のベットの上、佐伯は幸せそうに笑った。
「正義などありはしない....」
沢渡は病院の方を眺めながらそう呟いた。
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ここまで読んでくださってありがとうございます!リハビリ的に書いた物なので色々変なところがあるかもしれません。