ジュリア
「ねぇ、マリア。どう? おかしくない? 可愛く映ってる?」
出産に命の危険が伴うと分かっていたジュリアが、妊娠中のある日、まだ見ぬ我が子へ、ビデオレターを残すことになった。
胎児だけが死亡する可能性も、二人とも死んでしまう可能性もあったが、ジュリアはどうあっても我が子だけは無事に産み出すつもりであった。
もし自分が死んでしまえば、一度も母親の顔を見ずに、声も聞けずに育つことになる。それは悲しいことだし、自分のことを覚えていてほしかったのだ。
「大丈夫、いつも通り可愛いわ。いつでもOKよ」
ジュリアが頷いたのに合わせて、マリアは録画を開始した。
「マサハルー! お母さんだよー! 元気に育ってるかなー?
今、お母さんのお腹の中にはマサハルがいます。日に日にお腹の中で大きくなって、元気に動いているのが分かります。
マサハル、ケンジとお母さんのところに来てくれてありがとう。私をお母さんにしてくれてありがとう。あっ、これは早すぎるかな? まっ、いっか。
知ってると思うけど、お母さんは病気です。もう死んでしまうかもしれません。
あなたが、これを観ているとき、私はもうこの世にいないのでしょう。
私はいつまで、生きれましたか? いつまで、頑張れましたか? いつまで、あなたのお母さんでいられましたか?
私は無事にあなたを産んであげることが、できたでしょうか。
私はあなたを抱いてあげられましたか?
おっぱいをあげることが、できましたか?
あなたにしてあげたいことが沢山あります。お母さん、頑張るからねっ!
そして、できることなら、あなたにもしてほしいことが沢山あります。
あなたに、抱きついてほしい。おっぱいを飲んでほしい。笑ってほしい。泣いてほしい。
あなたは、どんな顔で笑うの? どんなことで涙するの? どんな声で話すの? 生まれて初めての言葉は何?
笑った顔も、怒った顔も、泣き顔も見てみたいです。
一度でいいから、お母さんって言ってほしいです。
あなたが、『お母さん!』って呼んだら、私が『なあに?』って応えるんです。それだけで、それだけで、いいんです。どうか、神様、お願いします。どうか、それまで…」
ついにジュリアは、泣き崩れた。
マリアは自分の泣き声が入らないように、必死で声を殺して涙した。
「ごめん、やり直し! 最後のお母さんが、泣いてちゃダメだもんね。綺麗で可愛いお母さん! いつもニコニコ笑顔のお母さん! じゃないと!」
ジュリアは涙を拭いて、笑った。
マリアは声にならず、ただ頷くことしかできなかった。
「じゃあ、もう一度!
マサハル、お母さんだよっ!
一緒に居られなくてごめんね。マサハルが淋しくて泣いてなければいいんだけど。お母さん、心配です。
淋しくなったら、マリアお姉ちゃんに甘えてください。いつも、お母さんも甘えさせてもらってます。
その代わり、母の日にはマリアお姉ちゃんに感謝の気持ちを伝えてね。その時、私のことも思い出してくれると嬉しいんだけど。
お母さんとマリアお姉ちゃんは、とても仲良しでいつも一緒でした。だから、私のことを知りたくなったら、マリアお姉ちゃんにお話してもらってください。お父さんだと、惚気話しかしないからね。
お母さんはね。マサハルのことが大好きです。これからあなたに会える日が待ち遠しいです。
お母さんは、毎日歌っています。お腹の中にいるあなたに、愛を込めて子守唄を歌っています。
気持ち良く微睡んでいるかな?
生まれた後も、毎日歌っているでしょう。たぶん、もう私にしてあげられることは、それくらいしかないの。
お誕生日祝ってあげられなくてごめんね。
入学式行けなくてごめんね。
結婚式も行けなくてごめんなさい。あなたの愛する人に一度会ってみたかったけれど、きっと素敵な人なのでしょうね。
マサハル、元気に育ってね。
最後に歌を贈ります。マサハルがどんな歌か忘れちゃったら、悲しいから。それに、私が歌うところ、見たことないかもしれないしね」
ジュリアはお腹をさすりながら、静かに歌い始めた。
カメラのモニターに、ベッドの上で上体を起こした、酷く青白く血の気を無くしたジュリアが映っていた。
RECが赤く点灯した。
「マサハル、お母さんだよっ!
無事出産できましたー! 褒めて褒めてー!
お母さん、皆に無理だって言われてたけど、頑張って産みました!
マサハル、元気に生まれてくれて、ありがとう。お母さんにしてくれて、ありがとう。
あまり長く一緒に居られないかも知れないけど、お母さん頑張るねっ!
早く目を開けてくれないかなぁ。まだ、お母さんマサハルの目見れてないんだ。楽しみにしてるからねー」
突然、ジュリアは倒れ、冷たい汗をかきだした。
「ジュ、ジュリアっ!」
カメラが倒れるのも気にせず、マリアは駆け寄った。ジュリアは撮影中、元気な姿を残そうと、相当な無理をしていたようだった。
ナースコールが押され、バタバタと足音が響いてきた。
「ジュリア! 大丈夫、ジュリア! 今、先生が来てくれるからね!」
「え、えへへ、ちょっと…頑張り…過ぎたかな…」
ドクターやナースが駆けつけ、酸素マスクが付けられ、テキパキとバイタルチェックがなされていった。
「大丈夫ですよ、疲れただけです。ゆっくり休んでください」
ドクターは、そう言って去っていったが、マリアの目にはもうジュリアがいつその命を終えてもおかしくないように見えた。
「ジュリア、ジュリア、嫌だよぅ。私を置いていかないでよぅ…」
ジュリアにすがりつき、子供の頃に戻ったように泣きじゃくるマリアの頭を、冷たい白い手が優しく撫でた。
「だ、いじょ、うぶ、まだ、わたし、は、だいじょう、ぶよ…」
酸素マスクや点滴に繋がれ、なんとか生を繋いでいるジュリアに、逆に慰められて、申し訳なさと不甲斐なさ、悲しさと淋しさ、様々な感情に翻弄され、マリアは声を上げて泣いた。
もう、ジュリアがいなくなるの日が近いと、ハッキリ分かるほど彼女は日に日に憔悴していった。
もうビデオレターを残せるのも最後かもしれなかった。
「ねぇ、マリア。歌って… あなたの…、好きな…、楽しい…歌…」
「無理だよっ、楽しくなんてないものっ! 私、ジュリアがいないと歌えない! ジュリアが笑ってないと歌えないよ! ジュリアがこんな状態で、楽しい歌なんて、歌えないよっ!」
ジュリアは悲しそうに目を細め、マリアの髪を撫で、意識を失った。
ジュリアの意識は何日も戻らなかった。ケンジは毎日病院を訪れ、マリアは病室に泊まり込む日々を送っていた。
マリアは後悔していた。あの時無理にでも歌えば良かった。それで意識が保たれたとは思えないが、万が一このまま意識が戻らなかったら、ジュリアの最後の頼みになる、それを自分勝手な泣き事で叶えかった自分が許せそうになかった。
「ジュリア、目を覚まして! いくらでも、どんな歌でも歌うから、お願い目を開けて…」
後悔と不安で眠れない日々が続いたある日、ジュリアは目を開けた。
「大丈夫。なんだか体が軽いの。飛んで行けそうなくらい。泣かないで、マリア。
もう大丈夫、とは言えないけど、泣かなくていいのよ。
私のために泣いてくれるのは嬉しいけど、あなたの綺麗な瞳が真っ赤よ?
さあ、涙を拭いて、笑って?」
「ごめん、ごめんね、ジュリア。ごめんね、姉さん」
マリアは何度も何度も謝って泣いていた。
「あなたが泣いていたら、安心して天国に行けないじゃない。
あなたに悔いを残してもらいたくないの。
だから、ねぇ、マリア。歌って?」
「う、うん」
さすがに病室で歌うのは迷惑だろうと、主治医の許可を得てジュリアを車椅子に乗せ、マサハルも連れて中庭へと移動した。
幸い雨は降っていなかったが、生憎の曇天で、少し肌寒かった。
「大丈夫、ジュリア? 寒くない?」
「大丈夫。寒くも暑くもないわ」
念のためジュリアにストールを掛け、彼女の正面に立った。
「う、歌うけど、なんだか恥ずかしいわ」
「そう? 私たち以外、誰も居ないわよ? 私に歌うのが気恥ずかしいなら、マサハルに歌ってあげて?」
「そ、そうね。目を見て歌うの、ちょっと恥ずかしいから。じゃあ、いくよ」
すっと息を吸うと、マリアは口ずさみ始めた。天気の良い日にジュリアが良く歌ってくれた、楽しい歌を。
「素敵ね。マリアは笑っていてね。私はこんなに幸せなんだから、泣く必要なんてないんだよ?」
マリアの歌が終わると、ジュリアの腕の中のマサハルがぐずりだした。
ジュリアはマサハルの頭をなでると、言った。
「マサハルに子守唄を歌ってあげたいの。でも、もうあまり声が出そうにないから、マリアも一緒に歌ってくれない?」
「うん、分かったわ」
ジュリアの声はけして大きくはなかったが、小さくても澄んだ声は良く通った。マリアは彼女の歌声に寄り添うように、支えるようにともに子守唄を歌った。
ぐずっていたマサハルは、静かな寝息を立て始めた。
「あらあら、可愛いわ。見てマリア。あっ、ケンジいつからそこに?」
ジュリアが顔を上げると、マリアの後ろにケンジが立っていた。
「ああ、意識が戻ったと聞いて、急いで来たんだ。
さっきの歌も聴かせてもらった。とても優しい良い歌だったよ。思わず録音してしまった。
でも、とても幸せそうな空間で、ちょっと妬けちゃったよ」
ケンジは携帯を取り出して二人に見せた。
「眠れないときに聴かせてもらうよ」
そう言うケンジの言葉に、マリアは恥ずかしそうに顔を赤らめ、ジュリアは二人を優しい笑みで見詰めた。
「そう。
ねぇ、ケンジ、マリア、それにマサハルも。私、幸せだよ。ちゃんと、幸せになれたよ。
マリアのお姉ちゃんで、ケンジのお嫁さんで、マサハルのお母さんで、こんなに幸せで大丈夫?っていうくらい、今、幸せ。
だから、もしもの時も泣かないで。笑って送り出してね」
「え、縁起でもないこと言わないで! それに私、泣くわ。きっと声を上げて泣くわ。だってたった一人の姉さんだもの!」
「そうだよ。もしもの時、なんて言わないでくれ。私もさすがに笑うのは無理だと思う」
「そっかぁ。まぁ、それはそれで嬉しいんだけどね。心配だよ。私がいなくなった後…」
「やめてっ! そんな話しないでっ! どこにも行かないでよぅ…」
マリアはジュリアにすがりついて、泣き始めた。
ジュリアはマリア髪をなで、優しい声で歌った。
やがて、マリアが顔を上げると、ジュリアは言った。
「さあ、泣かないで。マサハルが起きてしまうわ。
今日はそろそろ戻りましょうか。あっ、でも、最後に一曲だけ歌ってくれないかな。
こんな曇りの日には、神聖な歌を」
離れがたい様子のマリアを促し、優しく微笑んだ。
マリアはジュリアを見詰め、跪いたまま歌い始めた。
聖なる歌を。
神に捧げる賛歌を。
祈りを込めて。
やがて、薄暗い曇天を裂いて、一条の光が辺りに射し込んだ。
「ああ、綺麗… 天使の…かい、だん…ね…」
暖かな光の中、ジュリアはゆっくり瞳を閉じ、もう開くことはなかった。
第一章はいかがでしたでしょうか。
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