ねぇ、マリア
「ねぇ、マリア。歌って」
そう言って彼女は愛らしく小首を傾げた。
彼女はよく歌っていた。
「ねぇ、マリア。雨の日の朝って、空気が澄んだ感じで気持ちいいね。
なんだか歌いたくなってくるわ」
「ねぇ、マリア。マリアは雨は嫌い? 私は好きよ。
雨が音を包んで世界が少し静かになるの。
世界が少し小声になるのよ。
そんな日は、シトシト雨音を聞きながら、本を読むのもいいし、静かな曲を口ずさむのもいいわ。雨って喉にも優しいんだから」
「ねぇ、マリア。とても綺麗な青空ね。あなたの瞳のよう。
草原に寝転がって空を見上げたら、気持ちいいでしょうね。
そしたらきっとあなたの瞳を思い出すわ。
一緒に行きましょう。そして歌うの、楽しい歌を。
声がよく通って、きっといい気分よ」
「ねぇ、マリア。曇りの日って、陽射しが柔らかで優しい感じね。
雲間から射し込む光って、神聖な雰囲気で素敵。天使の階段って言うのよ。
いつか私も昇れるのかしら。
その時は、私きっと聖歌を歌うのね」
「ねぇ、マリア。ケンジって可愛いのよ。子供みたいな人なの。
私がいないと、食事もちゃんとできないんだから」
「ねぇ、マリア。私、ケンジと結婚するわ。きっと、死ぬまで一緒にいるの。
結婚式では一緒に歌ってくれる?」
「ねぇ、マリア。私がいなくなったら、時々ケンジと一緒に食事してあげてね。放っておいたら、きっと淋しくて死んじゃうもの」
「ねぇ、マリア。私、この子を産むわ。
それで私の命は消えてしまうかもしれないけれど、ケンジと私の子供を産んであげたい、ううん、産みたいの。
…ごめん、マリア」
「ねぇ、マリア。見て、ちっちゃいわ。おさるさんみたいね。
我が子って、凄く愛しいものなのね。
この子に会えて本当に良かった」
「ねぇ、マリア。お願いがあるの。
私ができなかったことを、この子にしてあげてほしいの。
大したことではないのだけれど、いつか二人で行った草原に、この子と寝転んで、空見ながら歌ってほしいの。あなたの好きな、楽しい歌を」
「ねぇ、マリア。この子は私を見てくれるかな。生きてる間に目を開けてくれるかな。
お母さんだよって、言いたいよ」
「ねぇ、マリア。この子に教えてあげてほしいの。
晴れの日の空の蒼さ、雨の日の静かな時間、雲間から射し込む天使の階段。
きっと、私そこから歌うわ。この子を思って」
「ねぇ、マリア。歌ってほしいの。この子に贈る、この歌を」
「ねぇ、マリア…私、死にたくないよ!
この子の初めて話す言葉も聞けない、お母さんって言葉も聞けない。
笑ったところも見てみたい。泣いている時はそばにいてあげたい。悩んだ時は支えてあげたい。
学校に行くところも、働くところも、結婚するところだって見てみたいんだよっ!
でも、できないんだ… 私にはもう、できないんだ…
ねぇ、マリア、私、死にたくないよ…」
「ねぇ、マリア。昨日はごめんね。泣き言、言っちゃって。
もう、私泣かないよ。この子と一緒にいれる、残り僅かな時間を泣いて過ごすなんて勿体ないもの。
私、どれだけ幸せなのか、気付いたんだ。
大好きなマリアがいて、愛する夫と可愛い我が子まで。
ねぇ、マリア。…ありがとう」
私は彼女のことが大好きだった。
優しく、そして強い彼女は、私の誇りであり、憧れだった。
彼女の言葉は、いつも私の心を揺さぶった。
彼女の繊細な感性に驚き、優しさに救われ、歌声に癒された。
ともに笑い、ともに泣き、ともに歩んできた。
そんな彼女がいなくなることが、信じられなかった。
楽しいときはもちろん、辛いときも、哀しいときも、彼女は歌ってくれた。
ありがとう。
ありがとう、姉さん。
これからは、私があなたの代わりに、歌います、あなたの愛する子に。
きっと、あなたの感性を、優しさを、そして強さを伝えます。
この子に、あなたの歌を、愛を届けます。
深い愛と沢山の幸せが、この子に訪れますように。