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ALICE  作者: 焼きプリン
マリア
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3717-α

 マサハルを抱きかかえケンジは、タンクを満たす鮮やかな蒼い液体を見詰めていた。


 照明に照らされキラキラと煌めく水面は神秘的な海を思わせた。


 今までこのような色の変化を見たことはなかった。


 そもそもタンクに入っていた液体は、人工生命の誕生に必要となるであろう炭素や窒素、リン、塩素、ナトリウム、カリウム、カルシウムその他様々な元素を溶かし込んだもので、そこに様々な触媒が入ってピンク色になっていたはずである。


 マリアが何かしらの調整を行っていたのは間違いなかった。


 そこに彼女は掛け替えのない生命を捧げた。


 開示の必要性がある公式のメールからはその生命は人ではないように書かれていたが、いくら鈍くなったケンジの頭でも、それが彼の立場を守るために送られた虚実であることは分かっていた。


 責任感の強い彼女が、ライフワークとしていた研究、ましてやケンジやマサハルをおいて姿を消すことなど考えられなかった。


 彼女は自らの、たった一つの命をケンジのために捧げたのだ。


 彼女は全てを捨てて、あの時の誓いを果たしたのだった。


 今まで頭に霞が掛かっていたように、ジュリアへの思いがケンジ本来の知性を曇らせていた。


 しかし、この衝撃が彼の全てをたたき起こした。そして、マリアが残したペンダントが彼の記憶を呼び覚ました。


 ジュリアの墓前で彼女とマリアに思いを告白した時、マリアはそのペンダントを身に着けていた。


 そしてそこで、彼の願いを聞き入れ、命をかけてケンジが本懐を遂げることを助けると誓ってくれたのだった。


 そんなことすらケンジは残されたペンダントを見るまで忘れていた。


 今までの彼は周りを見ることをせず、ジュリアへ思いを馳せ、現実から研究にただ逃げていただけだった。


 マリアの魂をそのまま映し出したかのように鮮やかで美しい、尊い命の水に誓った。


 もうどんなことがあっても現実から逃げたりはしないと、そして、必ず為すべき事を成し遂げると。マリアの遺志、命を決して無駄にはしない。


 照明を映して淡く蒼い光が優しくケンジとマサハルを包んでいた。


 ケンジは実験に文字通り命をかけて打ち込んでいた。成果が出なければ、これを最後に研究が打ち切りになることが決まっているこの状況では、たった一つのミスすらも許されなかった。


 何故なら、それはマリアの命と魂を無駄にしてしまうことだからだ。


 しかし、マリアが最後に行った調整も解析できていなかった。


 人体が丸ごと溶け込んでいる今となっては、それ以前の多少の変化など洗い出すことは不可能だった。


 彼女は独自の仮説に基づいた研究で調整を決めたのだろうが、そのデータは残されておらず、もうひとつ同じ物を作ることはできなかった。


 ケンジはまさしく崖っぷちに追い込まれていた。生命体の生成には大量の培養液が必要で、これを半分残しておくことも不可能だった。


 もうこのタンクで培養を始めて結果を出すしかなかった。


 以前から、ナノマシンを投入することで、細胞の形を作り出すことや、それを組み立てて、一見動物に見えるものは作ることができていた。


 活動もしない細胞が、ただ積み木のように組み上げられていただけ、いわば死体を作り上げただけだった。


 本来小さな生命も生み出せていないのだから、それこそ複雑でない小さな生き物を試みるべきではあった。


 しかし、マリアの魂をそんなものに捧げる気はケンジにはなかった。


 彼は人体を生成するつもりだった。


 ナノマシンのプログラムを変えることで、人体の形を作り上げることは不可能ではなかった。


 倫理上の問題で試されたことはなかったが。


 マリアが溶けた生命の水を使う、ただ一度きりのチャンス。


 不可能だと分かっていても、できることならマリアを蘇らせたかった。


 ケンジは決断した。そして、マリアの残した魂の源基をもとに、プラント3717-αはスタートした。


 ケンジはマリアの遺品を整理する際に落ちていた髪の毛を採取し、マリアのDNAを元にナノマシンのプログラムを組み上げた。


 問題はそこに命が生まれるかどうかだった。


 マリアを元にした肉体を組み上げることはケンジには躊躇われた。


 命を捧げたマリアを冒涜しているような気がしたのだ。


 バラバラになったマリアをそのまま組み立てられるとは思えないが、出来たとしても、人工生命を産み出したことにもならないし、ケンジの研究に身を捧げたマリアの意志に反するのは分かっていた。


 分かっていても、それでもマリアに帰ってきてほしかった。今までのことを謝りたかったし、何よりどれほど感謝しているか伝えたかった。


 それらの思いの間で苛まれ、マリアが許してくれるであろう妥協案として、マリアの娘と言える存在を産み出すことにした。


 これは、マリアのDNAをベースに、保存してあったジュリアのDNAを僅かながら組み合わせ、それをナノマシンで組み上げた細胞核に封入することで成し遂げられた。


 姉妹のDNAを使うよりも、男性のケンジのDNAを使った方が、生命として自然だとは思われたが、マリアを汚すような気がして、どうしてもそれはできなかった。


 まず生きた細胞を。受精卵と同様の細胞を。


 ナノマシンで積み木のように肉体を組み立てるのはやめた。


 "人工"生命という命題に反する気もしたが、マリアの娘をなるべく自然な形で産み出したかったのだ。


 人間を産み出すべくプログラムが組まれていることは、誰にも話さなかった。


 プログラム自体はマリアとケンジで以前に組んでいたものだと説明した。


 人間だと分かるのは、生きた細胞が成長してからだ。


 成長する前なら、人間を培養するのは問題だと倫理的理由で中止される可能性があるが、生きて人間と分かるほど成長すれば、中止することは殺すことなので、逆に倫理的に中止されることは無くなる。


 受精卵から成長し肉体を造り上げていけば、まさに人間の誕生過程そのものだ。


 マリアの娘を実験動物ではなく、人として産み出すには、それが一番良いと思われた。


 しかし気は急くものの、ケンジは夜になるとマサハルの世話をしなければならず、研究を劇的に進展させることは難しかった。


 マサハルはジュリアに続いてマリアをもなくし、しばらくは寂しがって泣いてばかりだった。


 言葉が遅れていたマサハルの初めての言葉が、『ママ』と居なくなったマリアを呼んだものだったのだから、それも致し方なかった。


 そんなときは、亡くなったジュリアの贈り物、子守唄を聴かせた。


 ジュリアがマリアにせがんで一緒に歌った歌、その歌声を死後も聴かせられるように作った蓄音機のオルゴールで。


 ジュリアが死ぬ前に、残した母の愛の歌。マリアもよく歌っていた歌。


 ジュリアとマリアが二人で歌う、愛する子のための歌。


 二人の歌声を聴いたときだけは、マサハルは安心したように眠ってくれた。


 そして再び会長から催促が入った頃、遂に胚細胞の生成に成功した。


 しかも今回の細胞は確実に生きていた。外界からの電気刺激や薬品の刺激に寄らず自己による分裂を行っていたのだ。


 それは受精卵と同じ物、まさしく生命の誕生。


 マリアとジュリアの娘が培養タンクという子宮に宿ったのだ。


 あとは、この小さな命が無事成長するのを見守るだけだった。


 ケンジは研究者としてよりも、我が子を見守る父親として、その命を大切に見守った。


 時にマサハルを連れ、誰にも聞こえないように、「ごらん、お前の妹だよ」と囁いた。


 研究員が全て帰った後、独り残ってジュリアとマリアの歌声を聴かせることもあった。


 なるべく人として扱いたかった。


 人として産まれるなら、注がれるであろう母の愛を与えることが出来ないのが申し訳なかった。


 だから、母の愛の代わりに、胎教の代わりに、母達が歌う愛の歌を贈った。


 胚細胞が桑実杯になった頃、この生命はプラントコード3717-αから通称アルファと呼ばれるようになっていた。


 この時点ではアルファが人間だと思っているのはケンジだけだった。


 ついに、このアルファの細胞を一部採取しDNA解析が行われた。


 ケンジは、この生命が純粋にマリアのクローンなのではないかという疑念を持っていた。


 組み合わせたジュリアの遺伝子は妹のマリアと近過ぎたのが気になっていた。


 ジュリア由来の遺伝子が、元々マリアも持っていたものなら、結果的にマリアの遺伝子そのものと同じになる可能性があったのだ。


 幸いと言っていいのか、残念ながらと言っていいのか、この解析によってマリアのDNAとの相違が確認された。


 それが分かったとき、マリア達の娘と思っていても、マリアが帰ってくるのを心の奥で期待していた自分に気が付いた。


 振り返ってみれば、あえて姉のDNA情報を使ったことも、偶然マリアのDNAそのものになってしまえば不可抗力としてマリアも許してくれるのではないかと、どこかで考えていたのかもしれない。


 それほど、マリアに会いたかったのだ。


 解析が進んだ結果、アルファと人間のDNAとは若干の相違があることがわかった。


 それは、MHC(主要組織適合遺伝子複合体:major histocompatibility complex)といわれる遺伝子領域で、人ではこれによりHLA(ヒト白血球抗原:human leukocyte antigens)を発現している。


 これは免疫にとても重要な部分であり、自己と他を区別し免疫反応を生じるのに必要不可欠な部分である。そのため移植を行う際には、このHLAをある程度合わせないと拒絶反応が生じるのである。


 遺伝子の変異領域はさほど大きくはなかったが、この変異がどのような影響を生じるかまだわかなかった。


 免疫不全を起こしてすぐに死んでしまうのではないかという不安をよそに、アルファは順調に成長し、ついにはヒトの胎児と見まごう程になっていた。


 この成功はケンジの首を繋ぎ研究の継続を確定したが、未だ肝心の培養液の調整方法が不明であったため、学会への報告は為されないまま、公然の秘密として扱われていた。


「アルファ。君は間違いなくマリアとジュリアの子供だ。

 二人ににして貰ったこと、そして彼女達にしてあげられなかったことを、君にさせておくれ」


 ケンジは大きくなり、一人で歩けるようになったマサハルの手を引いてプラントの前に立っていた。


 タンクの中で、蒼く輝く母なる命の海に揺られ、子宮の中で羊水につかるように赤子が眠っていた。


「パパ、この子は?。」


 マサハルはアルファとケンジを見比べ、好奇心に目を輝かせていた。


「この子はアルファ。お前の従姉妹、いや妹みたいなもんだ」


「えっ、本当!?。僕に妹ができるの!」


 マサハルは喜びを全身で表すように、ケンジに抱きついた。ケンジはマサハルに微笑みかけると、彼を優しく抱き上げた。


「そうだよ、ごらん。もうすぐこの子は生まれる。私達の世界にやってくるんだ」


「そっかぁ、僕ね、アルファのお世話ちゃんとするよ! 一緒にいっぱい遊ぶんだ!」


 マサハルはケンジに抱かれたまま、タンクにへばりつくようにしてアルファを見詰めていた。ケンジはゆっくりマサハルの頭を撫でた。


「そうか、よろしくな」


「うん。早く出ておいで、アルファ!」


 マサハルがそう声を掛けると、その声が届いたかのようにアルファはうっすらと目を開け、欠伸のようなしぐさをした。


「そう、早くおいで。待ってるからね」


 マサハルは嬉しそうにアルファに手を振った。



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