マーマ
アラームのけたたましい騒音によって、ケンジは心地よい微睡みからたたき起こされた。
ジュリアが死んで以来、浅く短い眠りしか訪れなかった彼は、その日は何か懐かしい匂いに包まれ、久しぶりに深い眠りに落ちていた。誰かに抱きしめてもらっていたような心地よさだった。
しかし、次の瞬間には彼の気分は最悪になっていた。
強い頭痛と吐き気が襲い、それにマサハルの泣き声が追い打ちを掛けていた。ケンジは急いでトイレに駆け込み嘔吐すると、少し落ち着きを取り戻すことができた。
どうやら飲めない酒を飲んだようだ。何故か。
研究打ち切りの最後通告が来たからだ。
意識がはっきりするにつれ、気分はさらに落ち込んでいった。
ケンジはふらふらとしながらマサハルに瓶詰めの食事を与えると、気分をすっきりするためシャワーを浴びた。
そして浴室を出ると先ほどは気付かなかったディスプレイのサインが目に入った。それはメールの受信を知らせるものだった。
ケンジは頭を拭きながらメールを開けた。
読み進むにつれ驚愕に目を見開き、いてもたってもいられなくなったケンジはそのまま部屋を飛び出した。しかし、しばらくしてまた駆け戻ってくると急いでマサハルを抱きかかえ、再びバスローブのまま部屋を飛び出した。
飛び込んだ実験室には人影はなかった。まだスタッフは誰も来てはいないようだった。そのままケンジはタンクへと走った。
そこには鮮やかなマリンブルーの液体が満たされ、中には何も入っていなかった。しかし、それを見た彼の顔には更に焦燥の色が濃くなっていた。
ケンジは傍らのステップを恐る恐る上がっていった。
上りきったところには予想通り見覚えのある衣類が、綺麗にたたんで置かれ、その上にシルバーのペンダントが乗っていた。
それはケンジがマリアの誕生日に送ったものだった。
ケンジの頬を涙が伝い、彼はその服を抱きしめて嗚咽を漏らした。
一緒に抱きしめられたマサハルは苦しそうに暴れていたが、意に介さず嗚咽するケンジを不思議そうに見つめると彼の頭を叩いて元気づけるかのようにうーうーと声を上げた。
やっとケンジが顔を上げると、そこに抱えられた服にマサハルは顔を輝かせた。マサハルはマリアの服を左手に握りしめ、右手をケンジの持つペンダントへと必死に伸ばし声を上げた。
「まーまー、マーマ!」
再び堪えきれなくなったケンジは、嬉しそうにはしゃぐマサハルと、マリアの残した服を強く抱きしめ涙をこぼした。
ケンジは失って初めてマリアの存在の大きさを知り、自分自身の愚かさを思い知った。
妻の死後、どこかおかしくなっていた彼には、マリアの自分に対する気持ちも、マサハルがマリアを母親として慕っていたことも気づけなかった。
そして、彼自身がマリアを深く愛していたことすら自覚してはいなかった。その愛は妻に対する愛とは少し違っていたが、それは深く確かな物だった。
マリアは姉のジュリアに劣らぬ愛で、ケンジとマサハルを支えてくれていた。ケンジはそれに甘え、彼女に頼り切っていたことを改めて自覚した。
彼女は妻が存命中は義理の妹として、そして亡くなった後は助手として妻代わりとして、またマサハルの母親代わりとして残された二人を支え、大きな愛で包んでいた。
マリアは決してジュリアの代わりになろうとしたのではなかった。
ケンジの妻やマサハルの母になろうとしたのではなかった。彼女の清廉な心はそんな発想を生むことはなく、ケンジの妻、そしてマサハルの母親はどんなことがあっても姉のジュリアしかいないと信じていた。
ケンジの妻やマサハルの母に成り代わることは、ジュリア汚すことだとすら思っていた。
マリアは、ジュリアの役を演じるのではなく、彼女に取って代わるのでもなく、マリアはただマリアとして、傍でそっと二人を支えることを選んだのだった。
それでも彼女はジュリアに成り代わってその役目を果たさなければならなかった。そうしなければ、ケンジ達はどうなっていたか分からない。
ケンジはマリアの中にジュリアを求めはしなかった。それはマリアにとっても望ましいことではあったが、研究と思い出にしか目を向けようとしないケンジと接するたびに切なさが募った。
幼いマサハルはそうはいかず、当然母を求めた。
マリアはジュリアに劣らぬ深い愛で彼を包み、母親の代役を担っていたが、無理とは分かっていてもやはり、彼の中でジュリアとの繋がりや思い出が希薄になっていかないことを祈っていた。
そのためマリアはマサハルが自分を慕うことを嬉しく思う反面、恐れてもいた。
それも彼女の決意に影響していたのかもしれない。
彼女のメールはいわば遺書であった。
しかし、そこには彼女の葛藤は綴られていなかった。ケンジの重荷になることを無意識に恐れていたからかもしれない。