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ALICE  作者: 焼きプリン
マリア
2/10

子守唄

 マリアはケンジがこの研究にこれほどのめり込んでいる理由を知っていた。いつか、彼が妻の墓前で聞かせてくれたのだ。


 白血病で妻を亡くした彼はこの研究で生命の源基を掴むことで、どんなウイルスにもどんな病気にも打ち勝ち、どれほど深い損傷であろうと修復できる細胞を開発するつもりだった。


『馬鹿げてるだろう?』


 ケンジはマサハルを抱きながらマリアに向かって微笑んだ。


『そんなこと…』


『いいんだ。夢みたいな話さ。無理は承知だ。それでも私はやる』


 そう言った彼の目には強い意志が宿っていた。マリアは軽く首をかしげ、風に吹かれた髪をかき上げながら尋ねた。


『奥様を生き返らせる研究じゃなくてですか?』


 ケンジは静かに頭を振った。そして墓石に刻まれた妻の名を見つめて言った。


『死んだものは、もう帰らない。それが自然の摂理だ。仮にそれが可能だとしても、望みはしないよ。

 使い古された言い方だが、人生は一度きり。

 だから、命は尊く美しいんだ。ジュリアもそんなこと望みはしないさ。』


『ごめんなさい…』


 目を伏せ自分の愚かな問いを恥じていたマリアに、ケンジは優しく微笑みかけた。


『謝ることはない。それに近い理由だから』


『えっ?』


 思わず顔を上げたマリアに頷き、言葉を繋いだ。


『敵を討ちたいんだ。彼女の』


『敵?』


『そう。病で死んだ彼女の敵を。そして私やマサハルのように愛する者を病で亡くす人を救いたい』


『・・・・』


 いつしか真剣な目でマリアの瞳を真っ直ぐに見つめていたケンジは、彼女の緊張を解くためか笑いながら冗談ぽく続けた。


『まあ、結局自分のためさ。自己満足のため』


『自分のため?』


『私は、病気の人を救いたいんじゃない。

 そんな高尚な人間じゃないんだ。

 私はただ、愛する者を失おうとしている人達を、救いたい。

 そこに自己投影しているんだよ、きっと。

 愚かだろう?』


 マリアは首を横に振り、身振り手振りを交えてで必死にそれを否定した。


『そんなことない! あっ、いや、そんなことありませんよ! 博士はご立派です。私なんかじゃとてもそんなこと…』


『ははは、そうか? じゃあ、君にはこの極秘の野望の片棒を担いでもらおうかな。私の右腕として』


 マリアは涙が零れそうになるのをこらえて頷いた。


『ええ、一命に変えて』




 その時のことを思い出すとマリアの胸は張り裂けそうになった。


「やっぱりジュリアのようには、なれなかったか」


 マリアはケンジの妻で、自らの実の姉であるジュリアのことを思った。


 彼女の姉は聡明で優しく、彼女の憧れであり自慢でもあった。


 そんなジュリアの結婚をマリアは心から祝福していた。そしてその夫もマリアに優しくしてくれた。


 マリアはそこに理想の夫婦を見ていた。


 そして憧れがやがて淡い恋心に変わっていったのに、自分でも気付いていなかった。


 それに気付いたのはジュリアが亡くなり、ケンジの目にマリアが映らなくなったからだった。


 マリアは保育所で眠ったままのマサハルを抱きかかえた。すると目を覚ましたのか、マサハルはむずがり始めた。


 愛おしそうに小さな甥っ子を撫で、亡くなる前の僅かな期間、愛する息子のためにジュリアが歌っていた歌を口ずさんだ。



『可愛い可愛い、愛しい坊や

 ゆっくりおやすみ


 可愛い寝顔の、愛しい坊や

 明日もきっと、優しい光があなたを包む


 淋しいことなど、なにもない


 あなたの未来に光が射し込む


 いつか、離れてしまっても

 いつか、会えなくなったとしても


 いつもあなたを思っているわ


 可愛い可愛い、愛しい坊や


 いつか、あなたを愛する人と

 いつか、あなたの愛する人と


 巡り会うのを祈っています


 いつか、離れてしまっても

 いつか、会えなくなったとしても


 いつもあなたを思っているわ


 明日もきっと、あなたを包む

 優しい世界が、包んでくれる


 ゆっくりおやすみ』



 死期を悟ったジュリアが、まだ目も開けていなかったマサハルに、万感の思いを込めて歌った、最初で最後の母からの贈り物。


 マリアには姉がどんな思いで、どれほどの想いを込めて、歌ったのか、それが今、よく分かった気がした。


 愛する我が子の瞳に映ることも叶わず、思い出に残ることもできない哀しみ。


 しかし、それを上回る大きな喜び。


 命を懸けて産んだ愛の結晶。


 生まれてきてくれて、ありがとう。


 母にしてくれて、ありがとう。


 ただそれだけで、だだそこにいてくれるだけで、充分だった。


 その証拠に、彼女が最期に残した言葉は、


『マサハル、ケンジ、マリア、私、幸せだよ。ちゃんと幸せになれたよ』


 『幸せだった』ではなく、命の火を消そうとする、その時でもなお、『幸せだ』と。


 幸せにしてくれて、ありがとう。


 私が幸せなんだから、泣く必要なんてない。


 笑って送り出してね。


 そう言って、いつも優しく微笑んでいた姉のことを思った。


 ジュリアが唯一愛息に贈った歌を、マリアは忘れなかった。


 マサハルにも忘れてほしくなかった。


 だから歌う。愛を込めて。


 眠ったマサハルを抱いてケンジの部屋へと戻ると、ケンジは部屋を出たときと同じ格好で鼾をかいて寝ていた。マリアはマサハルを静かに横たえると、二人に優しく口づけし、一人自室に戻った。


 彼女はそこで少しの間パソコンをいじった後、身支度を整え再び部屋を後にした。


 彼女が向かったのは最後の実験となる培養タンクのある部屋だった。


 その高さ三メートル程もある大きなタンクには淡いピンクの液体が詰められていた。マリアは端末を操作し上方のハッチを開けた。


 そして、タンクのそばに設置されたステップを上がりタンクの上にたどり着いた。眼下に照明を受けて淡くきらめく培養液が見えた。


 そこで彼女は服を脱ぎ一糸まとわぬ姿になると、目を閉じピンクの海に踏み出した。彼女の体は小さな水音をたてて煌めきの中に吸い込まれていった。

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