ケンジとマリア
薄暗い部屋の中、人が入れるほどの大きな透明のタンクが並んでいた。
二人の人物が、そのタンクの前に設置されたモニターを見つめていた。
「また失敗か…」
「博士…」
青白く照らし出された培養タンクの前で、ケンジ博士は項垂れた。彼の研究テーマは人工生命の創造であったが、なかなか成果を得られずにいたのだ。
「マリアか。なかなかうまくいかないな」
「もう今日はお休みになられた方が…」
「そうだな、ありがとう」
そう言うとケンジ博士はマリアの肩を叩き、培養タンクをもう一度見てため息をつくと部屋を出て行った。タンクの中には見た目だけは完全な猿が一体漂っていた。
それは死んでいるわけではなかったが、猿としての命は持っていなかった。実際、猿と呼べる物ですらなかった。単細胞生物が集まって猿のようなものを形作っているだけで、ちょっとした刺激でそれは崩れ去る、群体でしかなかった。
二人はこの研究機関の統括リーダーとサブリーダーで、この施設の中にある住居棟に住んでいた。以前そこでケンジは妻と、まだ生後間もない息子の三人で暮らしていた。
しかし、その妻を急性白血病でなくしたケンジは、しばらく惚けたようになっていた。そしていつからか、妻を亡くした悲しみをぶつけるように、以前にも増して研究に打ち込むようになっていた。
そして亡き妻の妹でケンジの部下だったマリアは、ケンジとその息子マサハルの世話をし、公私ともに彼を支えていた。彼女は自室に戻り着替えをすませるとケンジの部屋へと向かった。
愛妻家だったケンジは妻を亡くしてからは、研究以外の時間はいつも心ここにあらずといった風体で、自分のことはもちろん小さな息子の世話もせずにぼーっとしていることが多かった。
「博士。マサハルにちゃんと食べさせましたか?」
「ん?。いや、何だっけ?」
「昨日作って置いていったでしょう。博士も何かお口になさってください。お体壊しますよ」
「ああ…」
そう返事をしたもののケンジは腰掛け、妻の写真を見つめたまま動こうとしなかった。マリアはため息をついて冷蔵庫を開け、マサハル用の食事を取りだしそれを温めるとベビー柵の中のマサハルに近づいた。
マサハルは彼女を見て嬉しそうに声を上げるとハイハイしながら柵まで寄ってきた。彼女はにっこり微笑みかけるとマサハルを抱き上げ、ケンジの横に腰掛け食事を食べさせ始めた。
「博士も部屋に戻るまではちゃんとしてるのに… 保育所のお迎えは忘れないのにね」
ケンジを横目にマリアはマサハルに語りかけた。マサハルはぼろぼろと食べかすを零しながら顔を上げ、スプーンを突き出してうーっとうなった。
「あ、同意してくれるんだ。ねー、マサハル。パパ元気だしてーって言ってあげて」
「うー、うー!」
しかしマサハルは唸りながら皿を叩きだした。マリアは笑いながらスプーンを取り上げると、食事の続きを食べさせ始めた。
「はいはい、あなたはパパと違って食欲旺盛ね」
そんな騒ぎにもケンジはぼうっとしたまま、写真立ての中で微笑む妻を見つめていた。
食事の終わったマサハルを寝かしつけると、マリアはケンジの前に簡単な料理を並べた。
「博士、奥様の料理ほど美味しくはないでしょうけど、ちゃんと食べてくださいね。博士がそんなんじゃ、奥様も悲しみますよ」
「…ああ、ありがとう」
そういいながら料理に手をつけようとしないケンジを、マリアは悲しげな目で見つめていたがやがて目を伏せると部屋を出て行った。
「やっぱり、私じゃ駄目なのかな…」
翌朝、マリアが研究室に到着したときには、既にケンジは白衣をまといモニターの前でキーボードを叩いていた。
「おはようございます。マサハルは?」
「ああ、おはよう。ちゃんと保育所に預けてきたよ。寝たままだったが」
「よかった」
毎朝この会話が二人の一日の始まりだった。保育所に連れて行きさえすれば、食事も用意してくれるので心配はない。いつもケンジがマサハルを連れて行くことを忘れるのではないかと気が気ではなかった。
マリアが取りあえずコーヒーを入れようかと思っていると、突然内線の呼び出しが鳴った。
「所長、会長からのコールです」
「分かった、つないでくれ」
ケンジは忌々しげな表情でそう言うと、モニターを切り替えた。
そこに壮年の男性が現れた。
「所長。成果はあまり上がっていないようだな」
「上がっていないわけではない。ゆっくりなだけだ」
いきなりの会長の言葉にケンジはムスッとして答えた。
「あのサンプルも駄目だったそうだな」
「・・・・」
「もう見直しの時期だ。次、結果が出なければ人工生命は一旦白紙に戻す」
予想していなかった会長の言葉に二人は咄嗟に反論もできなかった。
「分かったな」
「待ってくれ。そんな急に…」
ケンジの言葉に聞く耳を持たず、回線は無情にも遮断された。ケンジはまだそこに会長がいるかのように何も映っていないモニターを睨み付けていた。そんな彼にマリアは声を掛けることができなかった。
実際、彼らの研究はその熱意にもかかわらず、一進一退を繰り返し確かな成果をあげることができていなかった。研究の成果は一朝一夕で出るものではないため、打ち切りはほぼ確定的だった。
「博士…」
「…すまん。少し一人にしてくれないか」
ケンジは振り返りもせずそれだけを告げると再び押し黙ったまま、ディスプレイを見つめ続けた。マリアは悲しげに目を伏せると静かに部屋を出て行った。
ジュリアの死後、ケンジがどれほど研究に打ち込んできたか、助手として家事手伝いとして公私に渡って支えてきたマリアはよく知っていた。
成功すればジュリアが帰ってくるとでも思っているのではないのかと、思わないではいられないほど、ほとんど全てを掛けてきたのだ。
研究以外、彼の心に残されたものは、ジュリアの思い出と、そのジュリアが残したマサハルだけだった。
そこに自分が含まれていないことを、マリアは痛いほど知っていた。
私のことを見てほしいと願ったこともあった。
どうして自分はジュリアの代わりになれないのかと、涙をこぼしたこともあった。
それでも姉ジュリアを恨むことも、妬むこともなく、マサハルを邪魔に思ったり煩わしく思ったことすらなかった。
マリア自身もジュリアとの思い出を大事にしていたし、ジュリアとケンジの子供であるマサハルが愛おしくて仕方ないほどだった。
ケンジがジュリアを思う心にも劣らぬ愛情を、ケンジとマサハルに注いでいたのだった。
いつものようにその夜も、ケンジの部屋に行って良いものか悩んでいたが、ケンジのことはもちろんマサハルのことも気掛かりで、自室でくつろぐこともできず気が付けば彼の部屋の前に立っていた。
彼女はしばらく逡巡した後、呼び鈴を鳴らした。しかし、彼女の不安通り返答はなく、彼女は恐る恐る戸を開けた。
部屋の中は明かりも点いておらず、薄暗かった。不在かと思ったとき、ゴトリと部屋の中から物音がしてマリアは思わず身を竦めた。
暗い部屋の中で、ケンジはどこから持って来たのか、飲み慣れない酒を一人であおっていた。
「博士…!」
マリアはケンジを見つけると明かりを点け、ゆっくりと彼に近寄っていった。
「博士、そんなにお飲みになっては、お体に障りますよ」
彼の持っていたウイスキーは既にボトルの半分まで減っていた。マリアはケンジが気付かないように、そっとボトルを彼から遠ざけた。
「いいんだ、ほっといてくれ!」
ケンジは言葉を荒げ、グラスをあおった。
マリアは怯えたように身を縮め、悲しげに目を伏せた。
ケンジが空いたグラスをテーブルに叩き付けるように置き、その音で思わず顔を上げたマリアは、そこにマサハルがいないことに気が付いた。
「博士、マサハルは?」
ケンジは淀んだ目を彼女に向けるとその名を復唱した。
「マサハル?」
その名が彼を呼び戻したかのように、まだ弱々しいながらも目に意志の光が戻ると、ハッとして部屋を見渡した。
「マサハル、マサハル! どこだ?、お前も俺を置いていくのか!?」
酒でふらつきながらも、落ち着きをなくして部屋を這いずり回るケンジを、マリアは優しく抱きしめた。
「大丈夫です。マサハルはどこにも行きませんよ。あなたを置いてどこにも行きません」
「マサハル… ジュリア…」
彼はマリアの胸に抱かれ、震えながら嗚咽を漏らし、愛する息子と今は亡き妻の名を呼んだ。そしてその名がマリアの胸を突き刺した。
どれほど想っても、どれほど近くにいようと、追い込まれた哀れな彼の口からマリアの名は零れなかった。
「俺を独りにしないでくれ…」
マリアは自分を呼んで欲しかった。もし自分の名を呼んでくれるなら、いつでも駆けつける。ケンジが辛いときに自分が支えてあげたかった。
しかし、彼が求めたのはマリアではなかった。彼女の目から涙がこぼれ落ち、ケンジの髪を濡らした。それでも彼女はそばにいたいと思う反面、この場から逃げ出したい気持ちに駆られた。
いつもそばにいても、この胸に押し抱いても、ケンジの心を救えないことが、悲しかった。
自分がそばにいても、ケンジはいつも孤独感に苛まれていることは知っていた。
それでも、マリアがまるで存在していないかのような言葉は、強く抱きしめれば抱き締めるほど、逆に冷たいナイフのように彼女の心に深く突き刺さった。
マリアは優しくケンジの髪を撫でると、静かに、そして深い愛を込めて囁いた。
「大丈夫。マサハルもジュリアもあなたのそばにいるわ… だから、大丈夫、ね?」
その言葉に安堵したのか、酒のせいでマリアをジュリアを混同したのか、いつしかケンジは嗚咽をやめ、安らかな寝息を立て始めた。
マリアは彼を横たえ毛布を掛けると、その額に口付けした。そしてしばらく彼を見つめた後、部屋を後にした。