1章の1 「目覚める」
ここはどこだろう?
私はいつからここにいたんだろう?
気がつくと光も音もすべて遮断された場所に立っていた。
その闇は深く、どちらに向かえばいいのかも、ここが歩ける場所なのかも解らない。一歩進めば永久に落ちて行く穴なのか、それとも目の前に壁がたちはだかるのか、そもそも出口なんてものが存在するのだろうか。
「っ……!!」
酷い頭痛を覚え頭をおさえた。
体も重たく息をする事さえ苦しい。
「醜くてごめんね」
ふいに誰かに声をかけられ振り向くと、長い黒髪で自分の顔を覆い隠している女性が私を見ていた。
「あなたは誰?」
黒髪の女性はぎこちない笑顔を見せる。
「さようなら……」
ただそれだけ言い、彼女は背中を向けどこかへ歩いて行ってしまう。
「待って!!」
追いかけようとしたが、体が鉛のように重く思うように動いてくれない。
早く……早く彼女に追いつかなくちゃ! 彼女がどこかに行ってしまう!!
「お願い待って! どこにも行かないで! 私を一人にしないで!!」
彼女のいる方に手を伸ばし、彼女の元に行きたいと願った。
しかし黒髪の女性は闇に吸い込まれるようにすっと消えてしまう。
「待ってよ……待ってって言ったじゃない。どうして私を一人ぼっちにするの? どうして置いて行くの? あなたにまで見捨てられたら」
崩れ落ちるように膝をつき、
「寂しいでしょう?」
そう呟いた。
再び辺りは暗闇と静寂に包まれる。
何かとても大切なものを無くした気持ちだ。
私はあの人に会った事がある?
思い出せない――大事な事の筈なのに思い出せない……。
私はただ彼女が消えた方向を見つめながら、しばらく呆然としていた。
そして時間が経ち私はようやく気づく事ができた。
「ここは……私の夢なんだ」
そう思ったらなんだか少しほっとした、そして早く夢から目覚めたいと思った。
ここはなんて寂しい夢なのだろう、なんて悲しい夢なのだろう。
――なんて残酷な夢なのだろう。
私の知らない大切な人を無くす夢なんて、もう見たくない。
早く目覚めなければ、一刻も早くこんな寂しい場所から抜け出さなければ。
「…………」
私は目を閉じ、一度だけ深呼吸をした。
そしてゆっくりと目を開ける。
「目が覚めましたか?」
「!!」
突然自分の視界が真っ白になり、激しい眩しさを感じた。
不思議な表現なのだけども、何だか久しぶりに光を見たような感覚だ。
なかなか視界が定まらない。
「聞こえますか? 私の姿が見えますか?」
自分に向かって知らない声の男性が話しかけているのは気づいていたが、それどころじゃなかった。
上半身を起こし一度目を瞑り、少しずつゆっくりと光に慣れるまで瞬きを繰り返す。
「…………」
次第に眩しいという感覚が薄れ、視界がはっきりとしてくる。
「目が痛いのですか? 喋れますか?」
相変わらず私に質問ばかり繰り返す男。
私はようやくその人を見る事ができた。
とても品のある美しい顔立ちをしている男性だった。年齢は二十五・六歳だろうか? 色白で髪色は青の長髪、その色よりも少し濃い青色をした瞳、白いゆったりとしたローブを着ていて、胸元には銀縁のついた透明色のネックレスをつけていた。
そして自分が今、ベッドの上にいる事に気付く。
どうやら私はここで眠っていたようだ。
彼はもしかして医者でここは病院なのだろうか?
「ここは……どこ? あなたは、誰?」
そう聞いて違和感を感じた。
自分が発した言葉なのに、何だか自分の声ではないような気がしたからだ。
私はこんなに高い声だったろうか?
なぜ自分の事なのに思い出せないのだろう?
男性は私の問いかけに対して、ほっとしたように笑った。
「よかった……私の事が見えるのですね。喋れるのですね」
見える事も喋れる事もあたり前の事なのに、彼は本当に嬉しそうにそう言った。
「すみません、こんな事を言うとあなたが混乱してしまいますよね。何から話せば……ああそうでした。まずはあなたの質問にお答えしなければいけませんね。ここはミルフォード城にある特別医務室です。そして私の名前はレオン・マクファーレンと申します」
「レオン……」
レオンと名乗った男の名前を繰り返しただけで、また彼は嬉しそうな表情をする。
「はい! クラウス王の命により、リア様担当医師に任命されました。と言いましても私は研究者でもありまして医師と断言していいのか解りませんが……ああ違います。こんな事をいきなり説明するのはおかしな事ですよね、何しろ私も混乱していまして申し訳ございません」
彼は非常に舞い上がっているようだった。
何か凄い宝物を見つけ、その瞳を輝かせるように。
しかし彼の言っている事が私には理解できなかった。私の事をリアと言っていたし、レオンは私を他の誰かと勘違いしている訳でもなさそうだ……。
私はまず最初に一番解らないと思った事を彼に聞いてみた。
「クラウス王とは誰ですか?」
「!!」
私の質問にレオンは驚きの表情を見せた。
今までの笑顔が消え一気に深刻な表情に変わっていく。
私は彼に何かおかしな事を聞いてしまったのだろうか?
「もしや……」
彼はしばし考え、こう聞いた。
「リア様、私の質問にいくつかお答えしていただいてもよろしいですか?」
私は黙って頷いた。
「この大地の名前は解りますか?」
「……解りません」
「ではこの大地に存在する湖の名前は解りますか?」
「……解りません」
「ではさきほど私はミルフォード城と言いましたが、その名前はご存知ですか?」
「……知りません」
「ではあなたのご両親の名前は解りますか?」
「解りません」
「……ではあなたは自分が誰なのか知っていますか?」
その質問に考えた。
知っているといえば知っている、知らないといえば知らない気がする。
「少しだけ知っています」
「それはどんな事ですか?」
それはという問いに私は再び考えた。
記憶がぼんやりとしていて、もう少しで思い出せそうで思い出せない事がたくさんある。彼にたくさんの質問をされて、ようやく自分が今どのような状況にあるかを把握した。
私はどうやら自分の様々な事を忘れているようだ……。
住んでいる場所も親も、自分の事すらほんの少ししか思い出せない。
私はとりあえず今解る事だけを彼に伝えた。
「私の名前はリア、私はとても醜いです」
それだけは覚えていた。
私はリアであり、そして誰よりも醜い者。
嫌な記憶だ。
自分がどんな顔だったのか思い浮かべる事が出来ないというのに、自分が醜かったという漠然とした記憶がある。
どうせなら、そんな嫌な記憶も一緒に忘れてしまえばいいのに……。
ああそうか、忘れてしまっても自分の姿なんて鏡を見てしまえばすぐに解ってしまう。忘れてから再び自分の醜さを知ったらきっと私は傷つくだろう。
「…………」
私の唯一覚えていた記憶に、レオンは酷く困惑しているようだった。
そして彼は次に、今までの質問とは少し違った質問をする。
「あなたの心は今、何を感じていますか?」
とても難しい質問のような気がした。
私は今何を感じている?
そのまま解らないと返せばいいのだろうけど、何かそうではないような気がした。もっと心の奥底で疑問や困惑とは違う何かを感じる。
この感覚を言葉で表現するのならば……。
「寂しい」
その答えにレオンはとても驚いた表情を見せ、それと同時に悲しみの色も見せる。
「そうですか……」
そう小さな声で言い、彼は黙る……。
そしてはっとしたようにレオンは悲しみの色を振り払った。
「そうですよね、今のあなたはほとんどの記憶を忘れているようです。自分の事が何も解らないなんて、それはとても寂しい事なのでしょう」
何か彼の思う本心とは違う事を言っているような気がしたが、それは聞いてはならないような気がしたのでただ頷いた。
「ご安心ください、自分の名前をはっきりと覚えているようなので恐らく一時的な記憶障害が起きたのだと思われます。時間が経てば、きっとすべての事を思い出せるでしょう」
彼は私の醜いという記憶には触れなかった。
まぁ、当然と言えば当然の配慮なのかもしれない。
自分の名前と私が醜いという記憶が思い出せたのならば、と言ってしまえばレオンが私を醜いと言っている事になってしまう。
そのような言葉を、美しくとても優しそうなレオンには言える訳がないだろう。
「私が責任を持ってリア様の記憶が回復されるよう、全力を尽くします」
そうレオンは力強い言葉を言ったが、彼はすぐに困った表情を見せた。
「ですが……記憶が回復していない状況で、どうやってリア様の今の状況を説明すればよいものか――私にとってもリア様にとっても難しい事なのですが、これは今すぐ理解してもらわなければならない事なのです」
「……?」
「すみません、あまり時間がないのです。このお城に住む王はあまり気の長い方ではないので……」
そこまで言い、レオンは何か思いついたようだ。
「ああそうでした! 肝心な事を聞くのを忘れていました。もう一つだけお聞きしてもよろしいですか?」
「はい」
「女神リア姫という名前に、何か思い出せる事はないでしょうか?」
女神リア姫……。
私はその名前を知っているような気がした。
ただ自分と同じ名前だからそんな気がするだけだろうか?
違う、何か根本的にその名前の人物と私は違っていたような気がする。
ぼんやりとした記憶を一生懸命思い出してみる。
「絵を見たことが……」
「それはどんな絵でしたか?」
一冊の本、その中に挟まれていた一枚の絵。
その中に描かれていた人物は……。
「女性でした。金髪で青い瞳をしていて、とても美しい人でした」
ほとんどの記憶が思い出せないのに、はっきりと絵の中の女性を思い浮かべる事ができた。私はその絵をよっぽど気に入っていたのだろうか?
「そうですか。女神リア姫の絵をあなたは覚えていてくれたのですね」
レオンは少しほっとした表情を見せた。
「少しだけあなたに今起こっているを状況を、説明する糸口が見えてきました」
そう言いながら彼は近くの棚に置いてあった手鏡を持ち、私にそれを向ける。
「その女性の絵は、このような顔をしていましたか?」
「!!」
鏡に映る姿を見て、私は自分の目を疑った。
なぜなら、鏡に写った自分の顔が……。
私の記憶の中にある美しい絵の女性と、同じ顔をしていたからだ。