003 帰らない理由 #1
五枚花弁が開くような形と、建国にまつわる神話になぞらえて、ベルフィナは華翁国とも呼ばれている。真白の国花は王都にそびえるように立つ神木に咲き、春には夢現のように美しく流れ散る光景に誰もが目を奪われる。
一生に一度は、その建国神話の地に詣でてみたいものだというのが、ベルフィナ国民共通の口癖のようなものだった。
そんな王都から四方に伸ばされる線路の、最北端。幾度もの戦端が開かれ、そしてまた幾度もの休戦協定が結ばれている双帝国ラレーヌとの国境線間近の街ピデレに、国立学校北部校はあった。
王都にある中央校に次ぐ歴史の古さを持ち、同時に双帝国を睨みつけるように立つ砦との連携を考えられた、戦略的にも重要な施設である。
それも双帝国との休戦がかれこれ十九回を数えるとあっては、不定期に訪れる国境線の騒乱にも、軍事に関わらない国民たちは緊張感に欠けていた。
慣れとは恐ろしいものだ。休戦協定の度、珍しい北の異国の品々が取引される仮初めの平穏を楽しんでさえいた。
しかし、大陸暦一八七八年のこの初夏。
次第に怪しくなる雲行きに気付き始めた国民も、少なからずいた。
「この夏休暇は絶対に戻って来いってさ。毎年のことなのにうるさいくらい手紙に書いて寄越すの」
「双帝国と雷獣国がやりあってるんだっけ。それがなんでうちまで」
「雷獣国の王子様の結婚に、双帝国が文句言ったんでしょ」
「ああ―――― 界渡り」
二度目の定期試験後は夏休暇がある。
中央校ではなく東西南北の地方校に通うのはたいていその地に住まう者だが、事情あって本来通学するに適した距離を無視してここへ来る者も多い。そういった生徒にとっては夏と冬の長期休暇が、家族と会える大事な機会だった。
悲喜こもごもの試験結果を受け止めた後には、そんな風に休暇に向けてのお楽しみに話の花は咲く。
だがこの年、教室で交わされる会話の中には、どこか憂鬱な響きも混じっていた。
ミラルドがなにともなしに拾った話のうち、「界渡り」というそれに込められた響きはけして友好的なものではなかった。
「異界から人が来るなんて本当なのかな」
「さあ……見たことないしなあ。でも便利な知識をいっぱい持ってるんでしょ? 雷獣国では異界渡りは誰でも国賓扱いされるっていうじゃん」
「逆に双帝国では迫害されるっていうけどね」
隣り合う三国で、界渡りに対する評価はまったく違う。
文献によって確認される最も古い界渡りが現れたのが双帝国だ。かの国では始め、意味の分からないことを喚いては物騒な魔力を放出させる狂人として扱われた。
一方、界渡りを保護することで雷獣国は三国一の発展を遂げた。
近代に発展して安定した出力で魔法が容易に使えるようにした「術式」が発明される前、確固たる形のなかった魔法が扱われた時代には魔法士と呼ばれる力の持ち主は国に幾人もいなかったのだが、界渡りの人々は力を理解するよりも早く行使出来たらしい。
それが生まれた界を異なるからなのか、世界にあるはずの理から外れた、いささか反則的な能力だったことが問題だったのだろう。
相互理解よりもまず先に被害をこうむった双帝国は界渡りを迫害することで己を護ろうとし、当時最も勢力のあった双帝国に対抗する術を探していた雷獣国は界渡りを組み入れることを考えた。
結果として、前者は頑なに古きを重んじる国風を作り上げながらも、三国の中では衰退を見せ始めて王への求心力が離れつつある。後者は新しきを歓迎しながらも、界渡りを受け入れる国策を掲げて発展を促した王家の力が強いままだ。
界渡りは場所によって現れる人数に違いがあるらしい。双帝国が最も多く、次が雷獣国。花翁国ベルフィナにはほとんどいない。ここ百年でいえば開示されている情報では双帝国に約五百人、雷獣国に約九十人、ベルフィナに至ってはたった一人だという。
界渡りを歓迎している雷獣国からすれば、人材を損失させている双帝国に彼らを引き渡してくれるように申し入れた過去がある。だが自国で国民同様に扱う気がないとはいえ、これ以上隣国に発展されても困る双帝国はそれを跳ね除けた。
やや馴れ合いの色が強くなったベルフィナと双帝国の戦争とは違い、界渡りに端を発した二国の争いは泥沼だという。互いに秘密裏にちょっかいをかけては派手にやり合い、少しの休息を挟んでまたやり合う。そんなことが続けられていた。
だがここにきて雷獣国の王子―― 世継ぎの王太子が挙行した婚儀は、双帝国を挑発するのに充分な物だった。
「界渡りが王子様の妃になるなんて、そんなことあるんだね」
「昔の双帝国の王様を誑かしたっていうエリザベートみたいに美人とか?」
「ああ、金髪碧眼のものすごい美女だったんでしょ。重臣の反対にあって処刑されちゃったけど」
元々国賓として扱っていた雷獣国ならば、王太子妃とすることに大きな抵抗はないのだろう。だが血みどろの争いを繰り広げる隣国に対し、今度こそ根絶やしにしてやると宣戦布告したように取られるのも仕方のないことではないだろうか。
良くも悪くも貴人の選択とは、世を動かしてしまう。
ほとんどいない界渡りの恩恵を受けない代わりに、ゆるやかに発展して国民議会を受け入れた王家を持つベルフィナ。
そんな生粋のベルフィナ国民であるミラルドからすると、二国の過剰なまでの界渡りの扱いのどちらが正しいとも思わない。来たくて来たわけでもない界渡りの人々の意志など、そこにはないのことに違いもない。
ベルフィナ国民の多くがミラルドのようにいささか低い関心しか問題そのものには向けていないが、余波の大きさには戦々恐々している。
雷獣国との国境線に軍備を整えるのと同時に、このピデレの先、ベルフィナとの国境にも双帝国は厚い防衛を築いているらしい。この隙にとベルフィナが攻め込むことを警戒しているのか、それにしてもあまりに速い展開に一般人の知らぬ事情が絡んでいるのはないかと人々は疑う。
なににしてもぬるま湯のような休戦期間が破られるのも時間の問題であり、今度の戦火はそれこそ滅ぼし合うまで終わらないのではないかと不安が広まるのも無理はなかった。
わざわざ遠方から国境線間近の北部校に息子や娘を預けている親たちは、今すぐ子供を呼び寄せてしまうか、それとも女王の発表を待つかで揺れているのだろう。
せめて休暇の間くらいは、両腕に力いっぱい子供を抱きしめたいと思うのも当然のこと。
―――― 子供の方とて無意識にそう理解はしているのだ。
それでも従わない心情を、親が理解するかは別として。
「ミラルド、家に帰るの」
「……いや」
「ふうん」
「おまえは」
「あー、王都まで行って顔見たら戻って来る」
帰省を促す手紙は三月も前に届いていた。それが十数日に一度の割合で何通も続き、ミラルドの寮の机の中に溜まっている。
夏休暇の開始は十日後。帰省せずに寮に残りたい者が届け出を出す締め切りは今日までだ。書いたきり、ぎりぎりまで出さなかった親への返事とともに、ミラルドは成績を確認した後、教務部に提出してきた。
「顔見たら……?」
「チチオヤのね。でもさっさと姿消さないと、オニイチャンたちが怖いからさ」
机にだらしなく寄り掛かるハイガを見遣れば、薄い唇の片端だけを上げて、端整な顔に似つかわしくない表情が浮かんでいる。
由緒ある伯爵家の当主が、下町の酒場で給仕女に手を付けて生まれたのがハイガだ。
身籠った女にたっぷりの手切れ金を渡して終わったはずが、伯爵が病床に就いて気弱になってから、昔に数夜愛した女が生んだ子供への興味を沸かせたのだろう。その頃には後継である正妻が生んだ息子たちもすっかり成人し、良くも悪くも貴族らしい性質の人間になっていた。親子の情より大事なものが山ほどあるのだ。
伯爵家の使いが見つけた子供は、下町で底辺の生活を送っていた。手切れ金の額の大きさに酔った母親は早々にそれを使い切り、生まれたハイガに物心がつくかつかないかの年に男を作ってどこかに消えた。
以来、泥水を啜り残飯を漁るようにして、ハイガは生き延びたのだ。
病気に侵される父親と面会したのが十歳のときだと聞く。
泥と垢を皮膚がすりむけるほどに湯をかけて擦り落とせば、貴人である伯爵に瓜二つの甘やかな顔立ちに瑠璃色の瞳。正妻が生んだ息子たちはみな母方に似たこともあり、十年放っておいた庶子のハイガに伯爵は心を奪われたようなものらしい。
その場で遅い認知を決め込み、幾人もの家庭教師を付けて伯爵家の人間に相応しい教養を身につけさせようとした。その過程で判明した人より多い魔力の存在にも、父である伯爵は狂喜したらしい。さすがはわたしの息子よと褒め称え、溺愛といっていいさまは見事に正妻と嫡出の息子たちの機嫌を損ねた。
「ものすごい殺気を向けられるから、オニイチャンたちに接触する機会なんてつぶすのが一番なんだけど。金のなる木が枯れないうちは、ご機嫌伺いもしとかないと」
今のうちにたっぷり搾り取っとかないとなと笑うハイガの目は、一段暗い青に見えた。自身の内に巣食う、父方に由来する肉親に対する無関心を憎み、自分の未来のためには我が子でさえ切り捨てた母方との共通点を憎む目だった。
今でもハイガは文字を読むのが得意ではないし、書くのはもっと苦手だ。感覚的にでも術式を身に着けて行使出来るのは才と言っていいほどだが、十歳までまともに読み書き計算に触れることがなかった事実は、十六歳になる今になっても垣間見える。
毎回の筆記試験に全力を尽くしているとも思わないが、苦手としているのも確かだとミラルドは知っている。
「そうか。往復で十日はかかるな」
結局、彼はそう当たり障りのない言葉を紡ぐ。
ミラルドは両親を含む肉親には愛されている。複雑な血縁関係も、家庭環境のこじれもない。初級学校を年齢通りに入学し、年齢通りに卒業した。読み書き計算は他人より得意。憎むほどの過去も、自身の内面も持っていない。
どうしたって真に理解してやれないことを、互いに知っている。ときに無神経に傷に触れあっては、恨めしく思うことすらあるのかもしれない。
どこまで許容出来るか、そしていつかは痛みを打ち明けられるのか。そういうものを手探りで付き合っている。
ハイガが語る親友というのには物申さずにいられないミラルドだが、友人じゃないとは言わないのだ。
「同室が静かなのもたったそれだけか……おまえのことだから、どうせくだらない催しを今年も考えてるんだろう」
「ふっふっふー! それについてはお楽しみに。おれが帰ってくるまで寂しくて泣かないように! ってか、きみは本当に少しも帰らなくていいわけ?」
「いい」
「ほんとーに?」
「しつっこいな! いいったらいいんだ。―――― 下手に帰れば二度と戻って来れなくなる」
戦火の兆しを、みなが気付き始めているのだから。
何度も送られる手紙の中の「とりあえず帰っておいで」。その一文に込められた本当の願いを気付かないわけじゃない。
父は軍属の魔法士だった。双帝国との十九度目の休戦協定が結ばれる直前、奇しくもハイガが父親と会ったのと同じくミラルドが十歳を迎える頃までのことだ。
今現在、小さな町の役場で働く父は下半身不随だ。車椅子なしでは生活が出来ない。
母は戦争も軍も嫌いだし、父の手前いわないが魔法士も嫌いになった。
初級学校を卒業する少し前、家族にほとんど相談せずに故郷から遠いこの北部校魔法科を受験した。地元の範囲内といえる地方都市の上級学校への進学を望まれていたのを、合格通知と奨学金の申請書を見せることで裏切った。
生まれて初めて母に本気で詰られたことは忘れられない。何も言わない父があんなに小さく見えたことも。甥や姪たちまでいる兄姉たちの厳しい目も、服の端を握る弟妹達の手も。ついさっきあったことのように、ふとした瞬間に思い出す。
四年前の旅立ちの朝、見送りの中に母はいなかった。
夏も冬も、ミラルドは一度も帰っていない。
それが、すべて。