002 抗える少年たち #2
黒髪黒瞳の人間はときたまいるが、ユステスの丁寧に濾したようなクリーム色の肌との組み合わせは珍しい。たいていは肌色も濃い褐色で、南方に多いその民族は陽気な太陽を思わせる。けれど彼女の場合は、まるで真逆のものを感じる。赤を煮詰めていった黒ではなく、幾度も青を塗り重ねて作られる黒。瞳は滾る熱ではなく、静けさと緊張を同時に孕む丸く張った水面だ。
彼女の小作りな顔立ちに可愛らしいとか美しいとか、そういう風には思わないが、見る者によって見出すものは違うのではないかとミラルドは漠然と考えていた。
つまらないと評するには、なにか一つ違和感のように引かれるものを持っている。
今の彼にとっては、抜けない棘のようなもの。
「夏が来るのに涼しいですね。ブランケットを肌蹴て眠ったら、うっかり風邪をひきそう」
ただ確認のためだけに、こだわりのない目線を掲示板にさっと走らせたユステスは、挨拶もそこそこにそんなどうでもいい話をし出す。
万年首位の余裕とも違う。優越感すら微塵も感じられないのは、どうしてなのか。
気にせずにはおれない己との差異をまた見せつけられた気になって、ミラルドは苛立ちを通り越して疲労の息を吐いた。
適度な距離を保って立っているのに、ユステスの小柄さはたいていの男子生徒に目線をわずか下方へ向けさせる。もともと伏せがちな瞳を縁どる、化粧っ気がないためにカールしていない彼女の睫毛の長さをぼんやりとミラルドは眺めた。
睫毛も黒い。当然だが。
「うっかりって。ユステスは寝相が悪いの?」
くつくつと可笑しげに笑ったハイガに、ユステスは困った顔をする。
「うーん……さすがにお腹を出してることはないんですけど」
「悪いんだ?」
「う、はい……。足元が暑いのか、上半身が蓑虫みたいになってます。朝起きると簡単には身動き取れないんです」
ブランケットに幾重にも巻かれたユステスが、寝台の上でもぞもぞと地味な奮闘をしている姿をミラルドは想像してしまった。ひどく馬鹿馬鹿しい光景なのだが、この少しとぼけたような口調の少女の日常のように思えてしまう。
「まだ涼しいうちはいいんですよ。暑くなると耐え切れなくなるのか、寝ているうちに部屋を霜で埋め尽くしちゃいますから」
「……霜? 夏に?」
「冬に火を付けないだけマシなんですかねー」
マシかもしれない。いや、違うだろう、そうじゃない。
せめてミラルドは自分が女子生徒じゃないことを感謝した。これが同じ女子寮内で生活していたら発狂する。
「同室の子は大変だ」
ハイガの苦笑いにはっとさせられる。そうだ、寮が同じくらいならまだいい。同じ室内で寝起きし、朝の寒さに震えてみれば真夏に霜が降りているなど悪夢だ。
「あはは。四人部屋が埋まったことないなあ、そういえば。ネビュラネはよく四年も平気ですよね」
「それは平気なんじゃなくて、」
ああまた、口が勝手に開く。
「我慢というんだ」
「……」
そんな苦言をどう捉えたのか。彼の常識の範囲外で生きていると認定しているユステスはともかく、ハイガも特段口を挟んでいなかったギュリウスでさえ微妙な顔でいる。
「……なんだよ」
「いやいや。んー、なんてぇかさ。きみってば本人ですら隠してることをずばーっと、な?」
何が「な?」なのかがわからない。
「ナイン。今ここにネビュラネ・コアがいなくて助かったな」
「まったくだよ。世間話にまで突っ込んだらキリないって」
口々に「鋭いんだか鈍いんだかわからんな」「本当に困っちゃいますねえ」と応酬する二人を見れば、なにかまずいことを口走ったようだとは知れるのだが。
かといってなにをどうと説明する気もなさそうな二人を前に、無意識の内に彷徨った視線が黒いそれとかち合った。
反射的に息を飲んだミラルドとは対照的に、何故かふふと笑みをこぼす。
「案外あなたは折れなさそうだと」
「はあ?」
「前から思っていたんですけどね」
「……頼むからわかる言葉を話してくれ」
頭痛が襲ってきそうである。
「普通は嫌いな人がいても、相手にさえ出来るだけその感情を隠そうとする。誰かを嫌える人間だってことを、周囲に知られるのはいやだから。―――― だからね、嫌われてるってわかっている側も、特別どうにかしたりはしない。労力を使ってでも理解し合いたい相手じゃないんだって、言われてるのも同然だから。それで……」
「それで?」
「うん……それで、あなたのことだけど。こんな朝にわたしを見ると、なんていうか、すごい顔をするんです」
「すごい顔」
「気に入らないっていう感情を発酵させたような」
今度こそミラルドは絶句した。何もかもがダダ漏れな自分にも、彼女の表現そのものにも。
「続きがあるんですけど」
「あるのか!」
「はい。で、その後に中年のおじさんめいた哀愁漂う疲労感満載な顔になって、ほんの一瞬だけわたしに申し訳ないって顔をして、最後に未知の生物を前に格闘するような顔になります。あ、基本は全部しかめ面です。その薄皮一枚の下でそういう変化が繰り広げられているという。すごい顔」
その基本であるところのしかめ面が、さらに深まるのをミラルド自身が感じた。常からハイガなどには年中仏頂面とからかわれることはあっても、そんな薄皮一枚の下なんぞを評されたことなどない。
「してるかそんなの」
「してますよ、そういうの」
一人はその多彩な顰め面のうちのどれかで、もう一人は微苦笑のまま。側にいるハイガやギュリウスを視界の外に置いているかのように、しばらく睨み合いにもならない時間が続いた。
「……そうか」
「はい」
「確かに気に入らないんだが、」
「あはは。うん」
「別におまえが悪いんじゃない、から、困る」
「そういうこと言っちゃうあたり、意外と柔軟だっていう話です」
元々の話の着地点までに被ったものが大きすぎるなと目を向ければ、ほらねといった調子で見返される。
「おまえが悪いって言われれば良くわからなくても謝っちゃうし、平気ですからお構いなくって顔をされれば謝らないです。わたし、小心者だけど優しくないから」
優しくないという言葉を吐く、その一瞬の苦さをミラルドは目にしてしまう。
見るんじゃなかったかもしれない。彼女を注視し過ぎる部分が自分にあると、いい加減に気づくべきだ。
けれど気付いたからにはそのままに出来ないのも彼の性分で。
一体どこが柔軟だというのか。彼女の勘違いなのではないだろうか。
「自分を嫌っている相手のことは、たいてい同じように嫌うものだと、おれは思う」
好意と違って、悪感情は双方向に働きやすい。好物はいつまででも食べたいが、嫌っているものなら目にも入れたくはない。出来ることなら突っ返す。
「……わたし、あなたのこと嫌いじゃないですけど」
きょとんと目を丸くしてそんなことを言うのは、辻褄が合わないと指摘しているわけだが。嫌われているなら嫌いになるんでしょうと。
それに関してはミラルドにも言い分がある。
「おれだっておまえが嫌いじゃない。―――― 苦手なだけだ」
「あっ、そういう……ええ?」
わかっている。子供の屁理屈のようだが事実としてそうなのだ。仕方があるまいとミラルドは開き直った。
それこそ優越感に浸った顔で、彼女が自分を見下す表情をしたり言葉を吐くならすぐさまに嫌えただろう。煮え立った湯の中で生活するような四年間になったかもしれない。姿を見かけるたびに、顔を合わせる間もなく踵を翻しただろう。こうして会話をするなんて考えられない。
けれど彼女自身に悪いところがあるわけではなく、だからこそ困っているのだと言った通り、嫌うべきところがないのに嫌えない。それこそ彼女からそうならない限りは。
とはいえ何ともない同級生の一人と見るには、この十四度に渡る静かな敗北が彼の心の中で大きいのだ。もしもこの感情がそれなりの好意に変わることがあるならば、敗北を上回るなにかを得たときだろう。
「喜ぶべきですか……」
「いや、そこまでは」
―――― さすがにそこまで押し付けがましくはない。
「とにかく、嫌われている相手に優しくするのは難しいっていう話だ」
彼女の締めくくり方を真似たそれにお互いが気付いて、片方は憮然としてもう片方は瞳を弓形に細める。
なるほどなあと吐息を漏らしたユステスは、伏せた瞳をやわらかく閉じる。
「優しくしないなら、されないですね」
世の中には無償の愛とてあるだろうが、小さなことに日々悩まされては余裕を失う身分には、少し遠いものではないかとミラルドは思う。
だからどんなに跳ね付けても注がれる優しさや善意があるならば、その人はまあ奇跡のようなものだ。
薄い瞼をおろした彼女の姿が、寄る辺のない子供のようにどこか頼りなげに思えて、ミラルドは今日何度目かの意識の外がそうさせる言葉を紡いでしまう。
「ずっと言わなかったが。首位、おめでとう」
ぱっと見開かれた黒瞳が訝しげにミラルドを観察する光を宿したのは一瞬のこと。彼女が懸念したなにかがミラルドから見つからなかったのか、呆然とした顔になる。
「あれ、え?」
「満点はすごいな」
あまりにも簡単そうに連続させるけれど、すごいことに変わりはない。認めていても口に出す必要は感じなかったし、今だって悔しさがどうでもよくなったわけではない。次の定期試験にも同じように、順位表を見上げて彼女の名を探す自分が想像できる。
でも嫌っていないなら言葉を交わせない理由はない。勝手に苦手だと思っているそれは、程度としては彼女自身に強く作用するものじゃない。別に少しだけ顔を見る距離が縮まったって、抗う気概がなくなるわけもない。
早い話、少しだけユステスという少女に成績以外の興味が湧いた。
「えと……ありがと」
だから笑顔が平常の彼女が初めて浮かべる照れ笑いというものが、まるで花のようだと目にした周囲が思ったのは、想定外のこと。
ミラルドはといえば、自分の顰め面がいろいろあるのならば、笑みというのもいろいろだなと感心していたところだった。
「鈍いんだか鈍いんだか、それとも鈍いんだか」
「同じだぞ、ラフマン」
「寝ても覚めても桃色な夢を見る年頃として、どーかと思います」
「おまえと分け合ったら丁度いいんじゃないか?」
自称親友と四年生担当教師は、嬉しくもない溜息を重ねた。