第四章 赤と黒のスティグマータ
第四章 赤と黒のスティグマータ
保健室の引き戸を勢い良く開けるなり、すぐ様駆け込む。
すると、ギョッとした顔をして、眼鏡の養護教諭がこちらを振り向いた。
彼女は霧吹を手にしていた。それで窓際に置いている観葉植物に水を吹きかけている最中であった様だ。
今はホームルームの時間のはずで、本来であればそこにいないはずの生徒が駆け込んで来たのだから驚くのも無理はない。しかもその男子生徒は全身汗だくで、呼吸すらままならない状態で、あろうことか人を背負っているのだ。
けれども、そこはさすがプロだった。養護教諭はすぐ様状況を把握してくれた。眼鏡のツルにそっと触れると同時、目付きが鋭くなる。パタパタと履物が鳴らす音を立てながら、こちらに駆け寄って来た。
保健室に来るのは初めてだった。お世話になったことは入学以来、まだ一度も無かった。だからその眼鏡の女性養護教諭の名前は覚えていなかった。
それでも、その一言を口にすれば話は済む。
「――先生! 助けて下さい!」
こう言われてそれに応えない教師を、自分は未だかつて見たことが無かった。
「わかった。任せなさい」
養護教諭が背負っている女性を肩代わりしようとするも、上手く行かない。背負っている女性が長身だったためだ。
「――ちょっと屈んで。あんたは左から。私は右から抱えるから。ほら、もう一踏ん張りしなさい、しゃきっとして!」
その口調はまるで、口うるさい時の自分の姉の様だった。もし背に人を負ぶっていなければ、反射的に背中が竦み上がっていただろう。
言われた通りに体が自然と動いていた。その場で軽くしゃがみ込む。こうすると、いよいよ背中の女性がこちらの体にしなだれかかって来る。長い髪がこちらの頬を左右共に撫でて垂れ下がり、その感触がこそばゆさ以外の、何とも言えない感覚を生じさせる。それは背中に押し当てられた胸の柔らかさも同様であった。
それらの感覚によって生じる感情を一言で言い表せば……罪悪感だった。背負った女性に対し、申し訳なさを抱いてしまう。しかし、ようやくそれからも解放される。
しゃがむのに次いで、気絶している女性の左腕を取って、脇の下に左肩をあてがう。気絶している女性を挟んで反対側。そちらでは、養護教諭も同じ体勢を整えていた。
「――よし。それじゃ行くわよ? せーので立ち上がるからね?」
立ち上がろうとすると同時、素早く女性の背中に腕を回す。指先を女性の体の側面にかける。長身であるにも関わらず、彼女は思った以上に細身であった。そうすると、必然的に彼女の胸を横から掴む形となっていた。頭が真っ白になる。
慌ててそれから下、脇腹の横辺りに手の位置を下げるも、ここも危ういとすぐに気付く。もう少し下、腰の辺りに手を……――そうして動揺していると、それを察したのか、養護教諭はカッと怒鳴り付けて来た。
「――早くしなさいっ! 緊急事態なんだから気にしなさんなっ! 堂々としてなさい!」
怒鳴られて萎縮すると同時、冷静になる。そうだった……自分の感情なんてどうでも良いのだ。そう思うと罪悪感も自然と消え失せる。誰かに肯定してもらえれば、不思議と体が軽くなる。自分は正しいことをしているのだと保障されたのだ。だからもう迷わない、もう大丈夫……――今なら出来る。
「――わかりました」
自分は養護教諭に対し、ささやかな反抗を示そうとしていた。誰かの力など借りずとも、自身だけの力で彼女を支え、立ち上がっていた。強い口調で言われてむっとしない人間なんていないのだから。
養護教諭は突然のことに目をぱちくりとしていた。こちらよりも、何テンポも反応が遅れていた。しゃがんだままの姿勢で、口をポカンと開けたま、こちらを見上げていた。こちらが一人で彼女を支えて進んで行くのを見送ってから、ようやくそこから立ち上がった。遅れて、ぼそっと呟いた。
「やるじゃない……背は低くともさすが男の子ね」
寝台の前に辿り着くなり、足払いを掛ける要領で長身の女性の足を横から軽く払い、故意に身を崩させる。そこに左腕を伸ばし、曲がった彼女の膝裏にすぐ様通す。それに遅れ、右腕で彼女の背中を支えた。
さっきは出来なかったのに、今は不思議とそれが容易に出来た。神経が張り詰め、興奮しているのとは別に、思考は極めて冷静だった。
長くは持てない――それにも気付いていた。ほんの一瞬だけ全力を出し、彼女を清潔な寝床へと横たえた。
そうして、そこまでして、遂に限界が訪れた。次の瞬間には、ヘタリとその場に尻餅を付いていた。
「はぁ~~……あんたの方が重症に見えるわね」
やれやれと溜息を吐きながら、額と腰に手を当ててこちらを見下ろす眼鏡の養護教諭。その姿はやはりどこか自分の姉に似ていた。大人の女性はもしかすれば、みんなこういう所があるのかもしれない。
養護教諭は屈み込むなりこちらの腕を取って、左脇の下に肩を押し当てて来た。
「ほら……最後にもう一度立って。気絶してるわけじゃないんだから」
言葉遣いこそ変わらずとも、先程とは違う調子で養護教諭は言った。
よろよろとしながらも、どうにか立ち上がり、空いた方の寝台へと歩みを進める。
「あんたのクラスはどこ? 名前は? 担任に知らせないといけないから」
「……一の二です。名前は守野です」
自分でも信じられない程、それはしわがれた声だった。気付けば、喉がカラカラだった。
「寝る前に何か飲んどきなさい。まだ寝ちゃ駄目よ?」
「……はい」
寝台の縁に腰を落とし、そのまま仰向けになる。
バタバタと履物が音を立てて遠ざかって行く。それはどこか遠くの出来事の様に思えた。頭がガンガンしていた。猛烈な眠気がしていた。けれども喉の渇きが眠りに入るのを妨げる。
敷居の白いカーテン越しに、養護教諭が冷蔵庫からお茶の容器を取り出して、コップに注いでいるのが影で透けて見えた。コポコポと、飲み物が注がれる音がする。それを聞いて、思わずゴクリと喉を鳴らしてしまう。
パタパタと足音を立てながら、再び養護教諭が近付いて来る。彼女は一度コップを棚の上に置くと、こちらの腕を取って引っ張る。そのまま、上半身を今一度起こされる。
何かを言わなければならない焦燥に駆られ、けれどもそれはすぐには言葉にならず、ただ無造作に手を伸ばすだけに留まった。そうしていると、養護教諭はそこにコップを握らせてくれた。それはキンキンに冷えた麦茶だった。
「――お疲れ様でした。後は任せなさい」
養護教諭はこちらに頭をはっきりと下げた。教師であれば、普通は生徒に対してそんなことはしない。何故だか無性にこそばゆかった。
「それ飲んで寝てなさい。後は私がやっとくから。これからその娘の服脱がして応急処置するから。起きて来ちゃ駄目よ?……そうそう、あんたの顔と左腕の傷は、彼女の応急処置が済んでからね? 悪いけど優先順位があるから」
養護教諭は自身の左頬を指差しながらそう言った。
「はい……構いません」
こちらが言い終える前に、養護教諭は敷居のカーテンをシャッと閉め、さっさと行ってしまう。何ともさばさばとした仕草と物言いであった。その仕草とその言葉を通し、その教諭に対し……何故だか無性に好感が持てた。素っ気無く見えても、実際に冷たい人であるわけではなかった。良い人じゃないかと、純粋にそう思えた。
麦茶を一口だけ口に含むと塩の味がした。塩を混ぜておいてくれたのだろう。それは適切な処置だった。口の中を潤わせながら、しょっぱいそれを、ゆっくり口に含んで行く。次いで、コップを傾け、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……――と、一息に飲み干してしまう。
コップを割らない様、震えた手付きでそっと近くの棚の上に置いて、そこまでしてようやく、今度こそ倒れ込んだ。ドサリと音を立てて、白いシーツが敷かれた寝床の上に横たわる。即座に猛烈な眠気が瞼の裏に渦巻いた。
ぐったりとした体を、どうにかこうにか寝台の向きと平行にして、改めて仰向けに横になる。後は腕だけをもぞもぞと動かして、タオルケットを体に被せた。
脱力感と眩暈に襲われ、目元に腕を押し当てる……――そうしていると、時間がゆっくりと流れているのを感じた。時計の針の音が聞こえて来る。
――隣の寝台では、衣擦れの音がしていた。そちらに視線を向けると、カーテンに映る養護教諭の影が、タオルを広げているのが透けて見えた。それを横渡る女性の上にバッと広げ、覆い被せる。影の動きでそれが分かった。次いで、霧吹きを取り出し、シュッ、シュッと、寝台の上の女性へと吹き掛け始める。
それは“日射病”で倒れた人に施す応急処置方の一つだった。人は強い日差しを浴びながら動き回ると、やがて皮膚が熱を帯び、乾いた状態になってしまう。そうなると汗をかけなくなってしまい、体温が上昇したままになってしまう。その際は体の表面に水滴を付着させることで、発汗作用と同様の原理で体熱を処理する必要があった。
――さすがは養護教諭だった。自分程度の人間でも知っているそれを、プロの彼女が知らない訳がなかった。
一方、自分は日射病ではなく熱射病だ。それも、未満と言う感じだった。普段から青白い顔が輪をかけて青白くなっていることだろう。肌が冷たくなっているのを感じるし、どこかじっとりとしているのも感じる。だから間違いないだろう。それは体内の水分と塩分が不足したことで起こる症状だった。
霧吹きの音を聞いていると、自然と意識が遠退いて行った……――
――心地良いまどろみの中で、わたしは今夢を見ているのだと理解する。
頭の片隅でほんの微かに抱いたその思考も、やがてはまどろみの中で溶けて曖昧になって行く……わたしは完全にその世界に浸かり切り、夢だと言う認識すらもすぐに忘れてしまった。
目前に何者かが屈み込んでいた。目線を可能な限りこちらに合わせ様と、腰を落としてくれている。白く、柔らかい手に、そっと掴み取られるわたしの幼い両手。
軽く見上げると、彼女の口元には微笑が見えた。それより少し上には鼻が見えた。けれども、それより更に上がどうしても見えない。
それでも、彼女は柔らかく微笑みかけてくれているのだと、その口元と、真綿の様にこちらを包んでくれている雰囲気とで理解した。わたしはそれだけで、彼女の顔が見えないのは些細なことだと思い、彼女の胸に顔を埋めたのだった。
そこは、柔らかく……暖かく……太陽の匂いのする場所だった。
彼女は左手だけをわたしの手元に残し、右の手の平をそっとわたしの頭に置いて、柔らかく、そっと撫ぜた。
(――長かったね……)
もしかすれば……わたしは死ねたのだろうか? あの場所で……猛暑に曝されたことで。
かつて、わたしの“呪い”の犠牲となった“友人”が今目の前にいる。“贄”として苦しみながら生きて来たわたしの人生を、彼女は今こうして労ってくれているのであろうか。彼女は死んだ私を迎えに来てくれたのかと、半ば本気でそう思った。
(――もう一頑張りだよ。もう少しだけ生きてみなさい)
顔を上げると、彼女の唇は真っ直ぐに引き結ばれていた。それは、彼女がこちらに決然とした、確固たる態度を示す時にいつもする表情だった。そして、叱る時にもよくする表情だった。それを思い出す。
(――……一人の時間はもう終わり。後は貴女次第。歩み寄るも、拒むも、今まで通り生きるも、全ては貴女が決める事)
彼女は立ち上がり、こちらの腕をしばし引くも、やがては手放し、一人そのまま先へと歩みを進めて行く。その先には何も無かった。白い空間だけが、ただ無限に続いていた。
彼女はこちらに背を向けたまま、歩みを進めて行く。緋袴と白衣が、白い世界の中で、一際鮮やかに網膜に映った。
『待って』と、わたしは叫んでいた。次いで『わたしも連れて行って』と、叫んでいた。
彼女は振り返る。相変わらず、不思議なことに、鼻より上は見えない。遠く離れた場所に立っているにも関わらず、そこだけが認識出来ない。それは夢の中の世界の決まり事だとでも言うかの様に……
(――ハ鳥さんの言う通りだったね)
“はとり”……それはわたしの母の名だった。
(――虐げられる者が、蔑まされる者が、いつまでもそのままであり続けることはない。苦しみながらも、なおも方正に生きようとしている者が、孤独であり続けることはない。時代は移ろい行くものなのだから……――貴女のお母さんが言っていた言葉よ。今一度、思い出しなさい……)
諭す様に、言い含める様に、彼女は言った。
『巴』――と、友人の名を、わたしはそっと呟いた。
(――私は“巴”ではない……貴女の記憶の中に刻まれたものを借りて、貴女の身に刻まれた“呪い”とが合わさって、一時だけ見せている泡沫の存在に過ぎない――)
その時だった――彼女の顔が見えた。その全貌が見えた。穏やかな夢の時間は終わりとでも言うかの様に。
彼女の目は一つだった。額に頂いた一つ目がこちらを凝視していた。本来あるはずの場所に両の目は無く、代わりに、そこには暗く澱んだ眼窩がぽっかりと口を開けていた。
わたしはそれを見るなり、駆け出そうとしていた足を止め……後退りした。身を守るようにして胸の前に腕を掻き抱くと同時、それに気付いた。
いつの間にか、わたしの姿も変わっていた。幼い姿から一転し、背が伸びていた。着ている服も着物から、黒い長袖、長裾のスカートへと変わっていた。そうだった……――それこそが今のわたしの姿だ。
再び前方へと目を向ける。巴の姿を借りた者のその眼窩の奥は、まるで異次元へと通じているかの様に見えた。赤黒い、ノイズの様なものが不気味に蠢いていた。そこからはドロドロとした、赤黒い血が垂れ流されていた。
その血は巴らしき姿をした者が纏う白衣を、瞬く間に赤黒く染め上げて行く。次いで、緋袴すらも、暗く澱んだ朱色へと染め直されて行く……
眼窩から流れ出る二つの赤黒い筋……それはまるで“呪い”そのものの様な、目を背けたくなる程おぞましい色をしていた。
それはわたしの身に刻まれた、固まった血の様に黒い、醜き斑のスティグマと同じ色をしていた。
そして、彼女の背には大きな黒い翼が生えていた。先程までは白い空間が広がっていたはずのそこには、全てを覆い尽くさんばかりに広がる黒き翼が占めていた。いつの間にか、白い場所が見当たらない程に、黒がその場を埋め尽くしていた。
――その姿はあの凶鳥を想起させた。
わたしはそれに思い当たるなり――悲鳴を上げていた。
――――――!!!!!
次の瞬間――わたしはまどろみの中から抜け出していた。