第三十八章 幻色のサマーバケーション4
第三十八章 幻色のサマーバケーション4
――何故、わたしはこうも不安定なのかしら。
早起きして、従兄妹の運転する車に乗って、高速道路を経由してここまでやって来た。まだ一度しか来ていない場所なのに、そこに立っていると、不思議と懐かしさを覚えた。
駅の近くにあるパーキングエリアに車を置いた後、駅前にある牛丼屋で早目の昼食を取る事にした。車酔いするので、朝は軽く摘まんだ程度だったから。
わたしは従兄妹を引き連れて、あの牛問屋の前に再び立っていた。夜見るのと、昼間に見るのとでは趣きが違っていた。
従兄妹は止めた方が良い、君の口には合わないと言って、しきりに止めていたけれども、以前食べた時は気に入ったので問題無いと言い返して我を通した。
「――僕は普段からこう言う所で食べ慣れているから良いんだけれどもね……好き嫌いの多い君には合わないと思うよ」
わたしはそんな発言など無視して、さっさと自動ドアを潜り抜けた。背後では従兄妹がやれやれと言って、肩を竦めていた。
わたしは最寄の空いている席にすぐ様着くなり、慣れた風を装って、牛丼の大盛つゆだくと、サイドメニューの豚汁とサラダを注文していた。
従兄妹は『おや?』と言う顔をして、わたしの顔を見ていた。
「――庵さんはどうするの? 食欲が無いなら冷たいデザートでも食べれば良いと思うわ」
わたしは素っ気無く言った。
彼は苦笑して、頭を振った。
「いや、そんな野暮な事はしないよ。牛丼屋の牛丼なんて食べるのは久し振りだし、折角だから食べて行く事にするよ」
従兄妹は牛丼の並とあさりの味噌汁、そして焼き鮭を頼んだ。肉よりも魚介類が好きな彼らしかった。
「驚いたよ。君もこう言う所で食事をした事があったんだね」
「逃げている時に、ここで食べたの……」
緑茶を一口だけ啜って、庵さんは湯気で眼鏡を曇らせたまま言った。
「――成程……彼とここで食事したんだね」
彼は笑顔になるなり、ふっと吐息した。
会話とも言えない、曖昧な言葉のキャッチボールを従兄妹と続けていると、目の前に注文の品が並べられ始めた。
庵さんから御箸を手渡される前に、わたしは自分の分は自分で取っていた。御箸を割る前に『頂きます』と言ってから箸を割った。今回は刃先が欠けたカッターナイフの様な形に割れた。前回割った時よりも幾らかましになっていた。
熱々の牛肉にホカホカのごはんを包めて、口の中へと運ぶ。
「…………え?」
私はその瞬間、咳き込んでしまった。何故だか口に合わなかった。
「大丈夫かい?」
庵さんはさり気なくレジ番に水を注文し、背中をそっと叩いてくれた。
「……もしかして口に合わなかったのかい?」
さすがわたしの従兄妹だった。表情を見るだけでお見通しの様だった。
おかしい。前に来た時はもっと美味しかったはずだ。もしかして、あの時は飢えていたからであろうか。空腹は最高の調味料と言う言葉もあるのだし……
「僕のと交換しよう。大盛は僕が食べるよ」
まだ口を付けていない自分の丼と、わたしが口を付けた丼とが入れ替えられる。
「……ごめんなさい」
何もかもが上手く行かなかった。そして、面白くなかった。あの時はほっとして感じられたこの場所も、今では人の目が気になって、無性に落ち着かなかった。
わたしは牛丼を半分も残して、味噌汁とサラダだけ完食した。
「随分と食欲が無いじゃないか。具合でも悪いのかい? 車酔いがまだ引いてなかったのかな?」
会計を済ませ、店から出るなり、彼はそう言った。
わたしは何も言わず、ただ頭を振った。
コインパーキングに停めてあった黒い外車の前まで戻って来る。すぐに助手席に乗り込むなり、ウインドウを全開にした。座席を心なし大き目に下げ、半ば仰向けになる様にして上半身を横たえた。片腕で目元を覆い隠して、何とも言えない倦怠感に耐え様と努めた。
「もうじき目的地に着くけど、その前に話をしても言いかな? ここに来るまで君はほとんど寝ていたから、確認しておきたい事がまだ確認出来ていないんだ」
「……話をするなら、わたしが寝る前に早くして」
「君が御世話になったと言う少年は、本当に信用に値する子なのかい?」
口端を引き結んで、やや怒りを込めて、返事する。
「……どういう意味?」
「どんな人でも、困っている人がいたら大抵の場合は親切にしてくれるはずだ。男の場合は特にだ。君みたいな美人が相手ならば、必要以上に御節介を焼こうとするはずだ」
一瞬で頭に血が上っていた。目元を覆っていた腕はそのままに、感情のこもらない声質でもって応じた。
「あの人はそんな人じゃないわ。呪いの事を話しても、わたしの体の傷の事を知っても、そしてわたしの顔を見ても、蔑視も特別視もしない人よ」
「ごめん……失言だったね。ただ、君がまた傷付く前に、それを防ぐ為にも、これだけは言わせて欲しい。今までそうして何も知らないままに君に近付いて来た人達は、君の体の傷に気付くなり、手の平を返した様にして離れて行ったじゃないか。僕は君にまた傷付いて欲しくないだけなんだ」
庵さんが言う事は正論だった。確かに、わたしは今までそれで数多く傷付いて来た。けれども、あの人をその他多数の、心無い人々と同列に並べては欲しくなかった。彼はそんな単純な人ではない。
「会えばわかるわ……話せばわかるわ……わたしだって最初は戸惑ったんだから……あの人はとても御人好しなのよ……」
庵さんはそれを聞くなり口を閉じた。まるで不機嫌な様な、一見怖く見える顔付きをしていた。ただ考え込んでいるだけなのに、そんな表情に見えてしまうのは損だった。それだけで人から誤解を受けてしまう。そんな所はわたしにそっくりだった。さすがは従兄妹だった。
「正直に言うと……僕はその子に良い感情を抱いていない。何故なら彼はまだ子どもだからだ。多感な年頃の、情緒が不安定な子どもに呪いの事が知られているなんてとんでもない事だ。正直、それが我慢ならない。その内、彼は呪いの事も含めて、君の事を公にするかもしれないのではないかと、そんな事態になるのではないかと不安になる……。また君が、不当に傷付けられる事態になるかもしれないと……ね」
それを聞かされたわたしが言うべき事はこれだけだった――
「――……臆病者」
庵さんは急ブレーキを掛けた。
突然の事に、わたしは前のめりになる。前方に投げ出されてしまう。シートベルトをしていなければ、フロントガラスかフロントボードにでも頭を叩き付けていたはずだ。
「――! 危ないじゃなっ…………何よ?」
庵さんはこちらを向いていた。
既に車通りの少ない住宅地に入っていて良かった。そうでなければ、今頃他の通行車に迷惑を掛けていた所だ。
「――今君は何て言った?」
庵さんは心底驚いた様な表情をして、わたしの顔をじっと凝視していた。
「……臆病者って……言ったのよ」
「どう言う意味だ?」
もしかして、プライドを甚く傷付けてしまったのだろうか。しかし、それとも様子は違って見えた。
「そのまんまの意味よ……」
「どう言う意味で言ったのか説明してくれ」
わたしは露骨に眉間に皺を寄せて、再びシートに背もたれた。背をシートに押し付けるなり、再び腕で目元を覆った。そして……ポツリと漏らした。
「あの人は堂々としていたわ……一族の者達とは違って、わたしと呪いを恐れるでもなく、邪険にするでもなく、腫れ物を扱う様に接するでもなく、興味本位でもなく……――ただ純粋に、善意から歩み寄ろうとしてくれた」
庵さんは銀縁眼鏡のつるを軽く持ち上げると、そのまま何も言わず、前へと向き直った。そのまま車を再発進させた。
「――――――」
今度はこちらが圧力に耐える番だった。沈黙が、無言の圧力が、狭い車中の全方位から、わたしの全身へと突き付けられる。
「――何よ……今度は貴方が機嫌を悪くしたの?」
「いや、違うよ……こんな程度で音を上げていては君とは付き合えないからね。ただね、もしその子が君の言う通りの人物ならば、確かに“僕達”は臆病者かもしれない。君からそう言われるのも仕方が無い」
庵さんはプライドが高そうに見える風貌とは裏腹に、その実、一族の中に身を置く者にしては珍しい事に、一般人寄りの考えを持つ人だった。世間ずれもしておらず、一般人の中であっても善良な人間だと言えた。彼は第一印象でよく誤解され、損をするタイプの人間だった。けれども腰を据えて話をしてみれば、実際は気さくで優しい青年なのだとわかるはずだった。だから仲の良い友人や知り合いはそれなりに多かった。
そんな所がわたしとは正反対だった。わたしには顔の良さから近付いて来る者は多かれど、そう言う者は一度身体の傷を見ればあっさりと離れて行ってしまう。だから友人なんて数える程しかいなかった。
「成程……今まで黒い服ばかり着ていた君が、今日に限って何でそんな格好をしているのか、ようやくその理由がわかったよ」
わたしはその言葉を無視した。
そろそろ着くはずだった。カー・ナビゲーション・システムがあれば、わたしなんかが居なくても後は大丈夫なはずだった。
「――下ろして頂戴」
「やっぱり会う気は無いのかい?」
「何度も言ったはずよ。御家族に顔向けなんて出来ないわ。今日は御世話になった御礼だけをしに来ただけよ……」
「いつもは何でもかんでも一度で済ませようとする君らしくないね。嫌な事は後回しにせず、さっさとまとめて済ませてしまおうとするのに。もしかして……何度もここへ来る口実が欲しいのかな?」
その瞬間――頭に血が上っていた。
「――下ろして! 早く!」
庵さんは溜息を吐くと、カーナビをいじって、何かを確認していた。
「ちょっと待ってくれ……こんな炎天下の中で、君を下ろせる場所はあるかな……ああ、ここなら丁度良いかもしれない」
そう言うと、庵さんはハンドルを切った。来た道を幾らか戻って、別の方角に車を走らせ始めた。
「……何処に行くの?」
「この近くに川があるらしい。そこで待っていてくれ。水辺なら幾らか涼しいはずだ」
「別に……帽子があるから大丈夫よ」
そう言うと、わたしは今まで膝の上に乗せていたそれを被った。
やがて、土手が見えて来た。ここまでで十分だった。
「――ここでいいわ。それじゃあ庵さん、申し訳無いけれど、わたしの代わりに、御家族に御挨拶の程、よろしく御願いします」
「やれやれ……君もとんだ“臆病者”だね」
わたしは庵さんに対し、イーッと言う顔をしてから、自らドアを開いて出て行った。
「――危ないからちゃんと停車してから下りてくれ。それと、あまり遠くまで行かないでくれ。この前みたいにまた逃げ出したりしないでくれよ?――」
背後から聞こえて来る彼の言葉を聞き流し、わたしは土手の上を目指して足早に歩いていた。土手の上に辿り着くなり――それが見えた。見事なまでの一級河川が広がっていた。それは広大な川だった。
それを見渡すなり、わたしはほっとし、胸を撫で下ろしていた。ここに立ってようやく、重責から解放されたかの様な感覚を得ていた。
実の所、わたしは彼の家族に会う事よりも、彼自身に会う事を恐れていた……
――汗だくになりながら、川沿いの土手の上を駆けていた。
川の水面から反射して来る光に目を細めながら、その人の姿を探し求めた。烏の濡れ羽色の長髪を持つ、黒衣の少女の姿を……。けれども、その姿は一向に見当たらない。
こちら側ではなく、対岸沿いに居るのかもしれないと思い至り、土手を下りて、川の向こう側を見渡した。すると、それが目に入った。川の水面上に幾つもの足場があった。人がその上を跳んで向こう岸まで渡れる様に、等間隔に渡り石が設けられていた。あの寺の離れへと到る、白い砂利石が敷き詰められた前庭の光景とそれは重なった。
探し求めていた人物は、その上に居た。川の中央にある、足場の上に居た。こちらに背を向けて、じっと立ち尽くしていた。
彼女の服装は一新されていた。黒い装いではなく、夏らしい、涼しげな色合いの服を着ていた。白い長袖のシャツに、シルクの光沢をした白い長手袋。下半身は水色のロングスカートだった。その姿は不思議の国のアリスを想起させた。
そして、ただ一つだけ変わらずあった部分、烏の濡れ羽色をした髪が、水気を含んだ清涼な風に吹かれ、サラサラと、梳られていた。
彼女の両手が頭部のそれを、風に飛ばされぬ様に、そっと押さえ付けた。彼女の頭には、あの日、あの商店で贈ったあの帽子が被さっていた。それは水色の細いラインが入った、端に木の玉が付いた白い結び紐のある、頭の丸い麦藁帽子だった。
その帽子に合わせたのであろうか。首から下の装いとそれは非常にマッチしていた。黒以外の装いでも、彼女にはとても似合っていた。本当に、綺麗だった……
ゆっくりと、彼女の元へと近づいて行く。声をかければ届く距離まで近付いても、しばしの間、そうして見詰めていた。
やがて、彼女はこちらを振り向いた――
――面白い場所を見付けた。
向こう岸の方まで、飛び移って行く事で渡れそうな石が配置されている所があった。事実そう言う役割の物なのだろう。その上を進んでみる事にした。ヒョイッ、ヒョイッと。軽やかに、それでも些かぎこちなく、石の上を渡って行く。意識を下だけに向けて、足元だけを見て、黙々と、気の向くままに飛び移って行く。
一分か二分程そうしていたであろうか。やがて疲れが訪れた。息も上がっていたので、一度立ち止まる事にした。
顔を上げて見渡して見ると、まだ半分も来ていなかった。
「………………」
向こう岸がわたしの居場所だとすれば、その反対側は彼がいるべき場所――と、益体も無い事を思い浮かべ、自嘲した。
「これでいいのよ~~……どうせわたしは籠の中の鳥なんだから~~……」
変な歌を口ずさみながら、歩みを再開する。ヒョイッ、ヒョイッと、進んで行く。すると、そこへ辿り着いた。川の丁度中央にある渡り石は、他の渡り石よりも直径が三倍程もあった。
庵さんも遠くへ行かないよう言っていた事だし、これ以上先へ行く事は止めておいた。そのまま、しばらく、ずっと、ただひたすらに、その場で立ち尽していた。川の中央で清涼な風に吹かれるまま、ただ、身を委ねていた。目を瞑って、風の音と、川のせせらぎにだけ、意識を傾けていた。
どの位の間そうしていたであろうか――強い日差しの下にあってなお、わたしはまだこうして無事に立っている事が出来た。
あの日、あの時、あの場所で……あの人が贈ってくれた麦藁帽子が、今もこうしてわたしを守ってくれていた。
強い日差しと、人々からの誹りが、何故だか重なった。それは、どちらもわたしを傷つけるものと言う点では同様だった。
あの暗黒の空間の中でも彼は私を守ってくれた。
彼と、彼の贈ってくれたこの麦藁帽子が、何故だか重なった。それは、どちらもわたしを守ってくれるものと言う点では同様だった。
思わず、麦藁帽子を両手で押さえていた。自然と口元がほころび……微笑んでいた。きっと今のわたしは、とても無防備な表情をしているはずだった。
その時、風が一際強く吹いて来た。
……丁度良かった。手で押さえていた御陰で、帽子が風に飛ばされる事は無かった。しっかりと、そこに繋ぎ止めて置いた。
風はやがて吹き抜けて行き、落ち着いてしまう。遂にはその音もほとんど聞こえなくなり、完全に止んでしまう……――そうしてようやく、わたしはそれに気付く事が出来た。わたしの背後に、誰かが息を切らして立って居た。
わたしは振り返った。そして、その人を見た瞬間――目を見開いた。