第三十五章 幻色のサマーバケーション1
第三十五章 幻色のサマーバケーション1
傀儡達は破片化し、大気中に散ってしまった。そして、不完全な儀式によって呪い返りした赤子の呪いを、鳥子様に移すと言う目的を果たした事で、傀儡達が再びここへ戻って来る事は無いと全斎様は仰られました。
闇の空間が消え、御二人が解放されたのは明け方の頃でした。
茜色から紫色へ、そして、徐々に水色へと、複雑に空の色が変じて行く最中、御二人は御戻りになられました。
互いの手を取り合って、一見すれば睦み会うかの様に、御二人は仲良く寄り添って倒れて居られました。これでまだ恋人ではないと言うのですから驚きです。早く御二人には自分達の関係を正しく認識して頂きたいと思います。
「――全斎様。御二人が戻られました」
背後にあるテントの中へ呼び掛けるも、大鼾が返って来るだけ。相変わらず全斎様はだらしがないです。
交代で見張りに立つ事にしていたのですが、全斎様に代わる前に御二人は現実へと戻って来られました。
傀儡に口元を掴まれ、持ち上げられていた後遺症で、首を軽く動かすだけでも酷く痛みます。全斎様に整体を施され、包帯で固定されたので、今は大分楽になりましたが、向こう一週間は動き回らない様にしろと言われてしまいました。
そう言った本人である全斎様は果たして、あの家の家事が滞る事を理解されておられるのでしょうか。とはいえ、有り難く、その言葉に甘えさせて頂こうと思います。
「――青羽様……嘘を御吐きになられましたね。ですが、今回は良しとしておきます。御二人共、こうして無事に戻って来られたのですから。鳥子様を無事連れ帰って頂き、感謝します」
首が痛くて頭を下げる事が出来ないのがもどかしく思えました。その代わり、腰を曲げて礼をしました。
顔を上げると、向こうの山の上からは朝日が昇り始めていました――
目覚めると、見覚えのある天井が先ず目に入った。
そこは和式の部屋だった。ここは寺に着いた初日に、一泊だけしたあの客間だった。
隣を見れば、こちら同様、布団を敷かれて寝かされている鳥子がいた。
「……鳥子さんっ!」
慌てて擦り寄って、彼女の肩を掴んだ。無事かどうか確かめたかったので、顔を近付けた。すぅー、すぅーと、鳥子は健やかな寝息を立てていた。肩を掴まれて、一瞬だけ顔をしかめた以外は、穏やかな表情をしていた。
それを確認してから、鳥子から顔を離した。そのまま、鳥子の前に正座する。
「無事に帰って来られたんだ……良かった」
ほっと胸を撫で下ろしていると、同意を示す様に頷く気配がした。
「――御目覚めになられたのですね。良かったです」
「――うわっ!?」
突然隣から声が聞こえたので、思わず仰け反ってしまった。
そこには、こちら同様、正座している巫女服姿の少女が居た。
「御邪魔でしたでしょうか? まさか寝起きにあの様な事をされるとは思いませんでしたので……気が回らず、申し訳ありません」
色は顔をうつむかせて、こちらから顔を反らしてしまう。
「は?……何のこと?」
「先程、鳥子様に寝起きの接吻をなさっておられませんでしたか?」
顔が赤くなるのを自覚すると同時――叫んでいた。
「――してません!」
色は相変わらずだった。
「息をしているか確認していただけです!」
「………………そうでしたか。またもや早とちりしてしまいました。申し訳ありません」
そうしていると、鳥子が露骨に不機嫌な顔をしながら上半身を起こした。
「うるさいわね……何よ、静かに寝かせてよ…………あ……あの人はっ――」
慌てて起き上がって、そのまま駆け出して行こうとする鳥子と目が合った。目が合うのに次いで、鳥子は自身の乱れた着衣を見下ろし、すぐ様掻き合わせて、自らの上半身を抱き締めた。
「おはよう、鳥子さん」
「……おはよう」
こちらの顔を見るなり、放心する鳥子。
「僕は元気だよ。心配しないで。僕もほんの少し前に目が覚めたばかりなんだ」
「そう……良かった」
ニッコリと笑って、その場で膝を付いて、目前に正座する鳥子。彼女はニコニコと微笑んだまま、こちらの顔を見詰め続ける。
こちらも笑顔のまま、鳥子を見詰め続ける。
しばらくそうしていると、色は一度咳き込むなり、おずおずと言葉を発して来た。
「御邪魔して恐縮なのですが……御二人に御伝えしておきます。御二人は丸二日程眠り続けておられました。“鳥込まれている”時間こそ短かったものの、それでも大分消耗されておいででした。しばらくは安静になされて下さい。今から新しい御召物と食事の用意をして参ります。それでは――」
色はそう言うと、そそくさと立ち上がり、素早く、それでも静かに部屋から立ち去って行った。
鳥子も自分も浴衣姿だった。恐らく、色と全斎がこの二日ほどの間、自分達の面倒を看てくれていたのであろう。
「鳥子さん、ただいま。そして……お帰りなさい」
鳥子の笑顔の半分でも嬉しそうに見える様、こちらもニッコリとし、笑いかけた。
「ただいま……貴方もお帰りなさい」
やはり、鳥子の笑顔には勝てなかった。
「あ……それ……」
ふと、それに気付いた。鳥子の右手を見てみれば、手袋の代わりに包帯が巻かれていた。鳥子もこちらの視線でそれに気付いた。しばらくそれを見詰めていたかと思うと、やがて包帯を解き始めた。
するとそこには、白い手の平に当てられたガーゼがあった。そのガーゼが恐る恐る取り外される。ガーゼの下には、三つの傷穴以外には目立った外傷は無かった。
「呪いの傷跡って、傷付けられた箇所に付くんだよね? 僕の左腕みたいに」
「ええ、そうよ。でも、何も残っていないわね……これは極めて珍しい事なのだけれど、あの子の呪いは完全に浄化されたみたい」
呪いは浄化する事が出来るものなのだと確信した瞬間だった。あの空間内だけで浄化されたのではなく、現実でも浄化されていたと言うのであれば、希望はそこにあった。
はやる気持ちを押さえ切れず、鳥子に詰め寄っていた。
「それならっ! 他の呪いも浄化する事は出来るんじゃないの!? そうすれば鳥子さんを――」
鳥子は真剣な表情をして、こちらを見詰め、ゆっくりと頭を振った。
「……それはとても難しい事なの。あの子はまだ赤子だったからこそ、純粋な心の在り様だったからこそ、比較的簡単に浄化が出来たのだと思う……でも、他の呪いだとこうは行かない。赤ん坊の呪いなら今後もどうにか出来るかもしれないけれど、大人達の怨念は、呪いは、今まで通り、何も変わらないまま、そこに在り続け……」
意気が消沈して行くのがわかった。ようやく得られた兆しだと思えたのに、それは容易く潰えてしまった。呪いと言うものは、やはり一筋縄では行かないものの様だった。
「“人を呪わばあな二つ”と言う程、あの子はわたしに対して“呪う”程の強い感情を持ち合わせていなかった。ただ寂しくて、母親代わりにわたしを求めていただけなのだと思う。せめて誰かと一緒に居たかったのね……。それ自体はとても強い思いだったのだと思う。一時、確かに呪われてしまう程に……。でも、その思いには、その呪いには、悪意なんて無かった。だからあの子はわたしに呪いを残さなかったのだと思う……」
いつしか、鳥子はボタボタと、布団の上に雫を落とし始めていた。あの闇の空間の中で、赤子が消え、彼女が泣いた時から、ようやく今、全てが繋がった。鳥子の泣く姿を見て、ようやく現実へ帰って来たのだと実感する事が出来た。
「赤ちゃんにそれが出来て、大人であるわたしにそれが出来ないなんて……それがとても恥ずかしい……」
「……それは鳥子さんじゃなくて、一族の人達が思うべき事だよ。鳥子さんはもう十分呪いを負って生きて来た。だから鳥子さんが自己嫌悪に陥る必要は無いんだ」
「あの子も、貴方も、そうして呪いを持って行こうとするのね……でも、貴方はこうして生きている。これから先も生きて行く。だからもう二度と同じ過ちは犯したくない。今日“贄の儀”を執り行うわ。出来るならば今すぐにでもしたい位。幸い、二日間寝たきりで断食もしていたから、後は水垢離をするだけで良いはずよ。わたしの決心が揺らがない内に、貴方が考えを変えない内に、始めましょう」
鳥子はあの空間で交わした約束をちゃんと覚えていた。それを反古にするつもりはもちろん無かった。それでも、自分の胸中は複雑だった。正直、逃げ出したくもあった。
それでも、心のどこかでそれを確信していた……――
「――わかった、今日儀式をしよう……約束だったからね。僕は逃げも隠れもしない。鳥子さんのしたい様にすれば良い」
襖を取り払って、限界まで広げられた畳の間の中央に、鳥子と自分は向かい合う様にして座っていた。
二人を仲介する位置にあぐらをかいて座っているのは全斎だった。
色は一番遠く離れた、庭側の襖の前に正座して、待機してくれていた。
「――青羽、鳥子、最後にもう一度だけ訊いておく。本当に“贄の儀”を執り行っても良いんだな? 特に青羽、お前が一番心配だ。後でやっぱり帰してくれと言って来るのだけは勘弁してくれよ? そうする位なら、初めから突っぱねてくれ。そうでないと鳥子が無駄に傷を負う事になる」
まるでお見合いをしている様な気分だった。話す内容や、こうして向かい合っている意味こそ全く違えど、部屋中に漂う厳かな雰囲気と、皆の真剣な表情がそう錯覚させていた。鳥子も全斎も、真剣な顔をしてこちらを向いていた。
自分は鳥子に向き直り、その目を見てから、目をつぶり……そっと息を吐いた。そうした後、全斎に顔を向け、頷いた。
「……あの空間の中で、僕と鳥子さんは約束をしました。無事に帰れたら儀式をしても構わないと僕は確かに言いました。鳥子さんは僕に呪いを移したままである方が辛いと言ってくれました。僕にもその気持ちはわかります――鳥子さん。その考えは今も変わっていない?」
改めて鳥子へと向き直る。鳥子の服装は、寝間着の白い浴衣姿から、黒い浴衣の様な装いへと変わっていた。浴衣同様に薄手の生地で、動きやすそうな作りではあるものの、それでもどこか違っていた。その黒い浴衣は、見る角度によっては、光の加減によっては、赤紫にも、青紫にも見えた。恐らくそれは儀式用の着衣なのであろう。水垢離をする際に着る、白衣の黒版とも言える代物だった。
烏の濡れ羽色の髪を持つ鳥子にはそれがよく似合っていた。その姿はまるで、黒揚羽蝶を思わせた。鳥子は紋白蝶から、黒揚羽蝶へと変貌を遂げていた。
「早く始めて。早く貴方をまっさらな状態にして、家族の元に帰したいの。貴方も早く家族の元に帰りたいでしょう?」
「うん、早く帰りたい。そして謝りたい。もう休みも残り少ないけど、弟の遊び相手もして上げたいし、宿題も見て上げたい。働いているお姉ちゃんにも、夏休みの間くらいは僕が代わりに早起きして、僕が作ったお弁当を持たせて上げたい」
それは心からの願いだった。口先ではなく、事実、明日からそうすると決めている事だった。
「儀式が終わったら真っ直ぐ家に帰るよ」
「それも約束よ? いつまでもここに居るままじゃ駄目だって、逃げ出したままじゃ駄目だって、わたしも気付いたの。だからこれを機に、御互いの義務を果たす事にしましょう」
鳥子は寂しげな表情を浮かべるも、それでも満ち足りた様に微笑んで見せた。
自分も微笑んで、それに応じた。
「うん……そうする」
鳥子が全斎に向き直るのに遅れて、自分も全斎へと向き直る。
「…………わかった。これより儀式を行う。鳥子、新たに傷を刻む箇所を選べ」
全斎はそう言うと、鞘に納められた小振りな短刀を鳥子へと放った。
さっと、鮮やかに、鳥子はそれを両手で挟み込む様にして受け止めた。
鳥子はしばらく逡巡していたかと思うと、やがて決意した。
右手で短刀を逆手に持って、左の袖を捲り上げ、袖口を口に咥える。それを噛む事で、呻き声を漏らすのと、舌を噛むのを堪え様としていた。
鳥子は自分の傷があるのと同じ個所である左の手首と肘の間、そこに傷を刻む事を選んでいた。
初めて見たが、肘から先の、肩までに到る二の腕の部分には、無数の黒い傷痕があった。白く艶めかしい肌の中に、一際醜く映える黒い傷痕。その内の幾つかは、赤黒く明滅して見えた。中には、未だにジュクジュクとして、塞がっていないものすらあった。
それを見て、約束を守りたいと言う思いとは別に、固く、心に念じた事があった――
(――どうか……これ以上鳥子さんが傷付きません様に――)
鳥子が自らの肌に刃を突き立てる瞬間を、自分は正視する事が出来なかった。両膝に爪を立てて、ただうつむく事しか出来なかった。
鳥子のくぐもった、噛んだ袖越しに発せられる苦悶の声が聞こえ始めた。
ズプリ……ズズズズズッ……――と、空気の振動を通し、刃の切っ先が肉を掻き分ける感触がはっきりと伝わって来た。
次いで、ポタリ……ポタポタポタ――と、畳の上に水滴が落ちる音が遅れて聞こえた。
目を開けると、青ざめた表情をして、涎を引いて口から袖を離している鳥子の姿が見えた。
その瞬間――自分でもそうと気付かぬ内に、無意識に決意していた。
「――ひとを呪わばあなふたつ――
――ひとつ帰せばあなひとつ――
――ひとり呪えばひとりが幸せ――
――ひとり呪いつづければみなが幸せ――
――だから呪われるわたしはみなの幸せ……――
――だから呪われたわたしは幸せ」
その声に合わせて、左袖をまくって、鳥子へ突き付ける様に、その傷を差し向けた。
五秒……十秒……十五秒……――何も起こらない。
二十秒……三十秒……四十秒……――時は進んで行く。
やがて一分が経った……――それでも何も起こらなかった。
「………………」
――正直……安堵してしまった。そう思うのと同時、鳥子が立ち上がってこちらに詰め寄って来た。
「――何でよっ!? 何で帰って来ないの!?」
鳥子はこちらの左手首を掴んで喚き立てる。次いで、自身の血塗れの左腕を近付けた。最終的には、最後の手段と言わんばかり、直接左腕と左腕を押し当ててすらして見せた。
冷えた血と、新たに流れ出た温かい血とが混じり合い、二人の肌を艶めかしく濡らした。ヌチャリとしたその感触は、不思議と不快には思わず、むしろ、心地良くすら感じられた。
「――早く帰りなさいよっ! 早くっ……! お願いだからっ……!」
無様に見苦しく喚きながら、涙目になりながら、なおも鳥子は醜態を曝し続けた。自分のために鳥子は必死になって呪いを移そうとし続けた。
自分の着ていた白い浴衣が、鳥子の左腕から流れ出る血によって赤黒く染まり始める。顔にも血と涙の雫が飛んで来た。鳥子の服も、顔も、やがては血に染まり……そのまま、二人して血塗れになった。
自分はされるがまま、ただじっとしていた。それは一方的なもみ合いとも言える光景だった。自分はただ、鳥子のしたい様にさせ続けた。自分の体を鳥子に委ね続けた……――それでも、何も起こらなかった。
呪いは帰る事も、移る事も無く、ましてや浄化される事も無く、変わらず自分の左腕にあった。
やがて、鳥子はうな垂れ、こちらの両肩に手を置いて、震え始めた。
「……嘘吐き……帰してくれるって言ったじゃない……嘘吐き……」
鳥子の言葉は、今一度、嵐の如く、吹き荒れ始め様としていた。
ここへ来る前、炎天下の中、喚き合った時の光景が、今一度、脳裏に蘇っていた。
自分は――嫌われる覚悟でそれを口にした。
「――僕は呪いを帰すだなんて約束していない。儀式をする約束はしたけれども、呪いを帰す約束まではしていない――」
その瞬間――確信していたそれが来た。左頬に張り手が飛んでいた。
あの日、あの時、振るわれる事無く、一度は収められたそれが、今一度、改めて、今度こそ振るわれていた。左頬の傷はもうすっかりと塞がっていた。
新たにその箇所に傷を負ったと思えるほどに左頬が酷く痛んだ。もしかすればそれは、今まで生きて来た中で一番痛い張り手だったかもしれない。
それでも不思議と、怯む事無く、真っ直ぐに鳥子と向き合えた。心はどこまでも澄み切っていて、そして、穏やかだった。
――これで心置きなく彼女から離れられる。嫌われたまま離れる事が出来る――
鳥子の両肩に手を置いて、額を合わせるほどの距離にまで顔を近付けて、そっと、言い聞かせた。
「――鳥子さん、僕にとってこれは賭けだったんだ。僕の思いが本物なのか、偽善なのか、それを確かめたかったんだ。呪いが鳥子さんに帰らなくて良かった。心からそう思ってる。鳥子さんには申し訳無いけれど、本当にそう思ってる。お陰で、自分と言う人間に、少しだけ自信が持てた……」
胸に縋り付いて泣き叫ぶ鳥子の頭を、包み込む様にして抱き締める。生まれて初めて、ここまで強く、異性の事を愛おしいと思えた。
「――鳥子……お前の負けだ。こいつの覚悟の方が勝っていた、ただそれだけの話だ……」
全斎は顔を伏せて、一度だけ溜息を吐く様にして嘆息し、そう呟いた。
「儀式自体は成功しているはずだ。こいつの思いの方が強かったんだ。だから呪いは帰る事が出来なかったんだ。これから先、こいつの考えが変わるまで、呪いがお前に帰る事は無い」
そこまで見届けてから、色が歩み寄って来た。遠く、端の方に座っていた場所から、素早く、それでも音も立てず、こちらへと近付いて来た。
「傷の手当をします。そのままの姿勢で良いので、じっとしていて下さい」
こうして、僕達の一夏の逃避行は終わりを迎えた――