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斑鳩  作者: 雪路 歩
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第三十一章 暗黒のサンクチュアリ1

  第三十一章  暗黒のサンクチュアリ1


 ――そこは何もかもが黒い空間だった。

 上を見ても、下を見ても、周囲を見ても、黒一色であった。

 光明となる物など何一つとして見当たらないのに、不思議と遠くの方まで見渡せる。この空間にある物々は、まるで黒い紙の上に貼り絵された物の様にはっきりと視覚する事が出来た。

 傀儡達に体中を突き回された痛みと、羽が突き立っていたはずの手の甲の痛みは感じなくなっていた。

 薄らと目を見開く。眠りから醒めた時特有の、生温い倦怠感が全身を取り巻いていた。

 わたしは無数の黒い木の根に拘束される形で、その空間に存在していた。その木の根を見て理解した。わたしは今、呪いの象徴たる、根源たる、“あの木”の下に居るのだと。

 頭上から、時折、カラカラ……ケタケタ……キャハハハハと、狂的な笑い声が聞こえて来る。

 まるでここは土の中の様であった。身の周りを見回すと、事実、虫の様な姿をした異形の者達の姿が見えた。近くにある根には、苦悶の表情を浮かべた人の頭部を持つ、巨大な蝉の蛹がくっ付いていた。

 そして、それを見下ろす――わたしの体にも巨大な百足が張り付いていた。その大きさは幅二十センチ以上、長さ三メートル以上もあった。黒一色の体の中で、一つだけ異質な部分があった。胴体の先端に、そこだけ取って付けた様に人の首が付いていた。それはニタニタと嫌らしい笑みを貼り付けた、禿げ上がった老人の頭部だった。それは今の今まで、わたしの体を這い回り、服の上から舌を這わせていたらしい。

 嫌悪感より先に、慣れと諦観が生じていた。次いで、思い出したかの様に、毅然とした態度を取った。

「――近付かないで……」

 体こそ自由にならぬものの、それでも声と“それ”を発する事は出来た。右手から瘴気が立ち昇る。

 驚いたのか、人頭を持つ百足は慌ててわたしの体から離れた。わたしの足元より更に下、無数の髑髏が織り成す丘を転げ落ちて行き……やがて、それは丘の下で止まった。人頭の百足は渦を描く様にして丸めていた体を広げ、こちらを恐る恐る見上げた。

 わたしは高見からそれを睥睨した。木の根に束縛されてなお、わたしの右腕からは威圧的に瘴気が立ち昇っていた。人頭の百足はそれを確認すると、恨みがましい顔をして舌打ちすると、そそくさとその場を去って行った。

 次の瞬間――頭上から一際大きく、はっきりと笑い声が聞こえて来た。

 ――カラカラカラ……!

 ――ケタケタケタケタ……!

 ――キャハハハハハハハハ……!

 それは明らかにわたしを嘲り笑う声だった。その声を聞いているだけで、過去の辛い出来事の数々が、走馬灯の様に、否が応にも蘇って来る。

 この空間に存在するありとあらゆる物々は、全てが全て、悪意そのものであった。人の心を、人の傷を、人の苦しみを、“奴等”が更に嘲けり笑う為に存在していた。

 辱められた者が更に辱められる様に。傷を負った者が更に傷を負う様に。苦しむ者が更に苦しむ様に……

 その時わたしの脳裏に蘇っていたのは、一族中の大人や子ども達から醜い体を見られて、体を伏せて縮こまっているわたし自身の姿だった……

 わたしがそれを鮮明に思い浮かべれば浮かべる程、頭上から聞こえて来る笑い声の大きさとその数は増して行く。これに屈して気を落とし続けてしまえば、その内発狂してしまうであろう。そうなってはいけない。それこそ“奴等”の思う壺だった。

 今まで幾度となく、現実世界でも辛い目には遭って来たのだ。既に過ぎ去った出来事に執着してはならない、翻弄されてはならない。前を見ろと、前向きに生きろと、母と巴は常々言っていたではないか。

 けれども、それを堪える事の、何と辛い事か、難しい事か。自然と込み上げて来るそれを、わたしは押さえる事が出来なかった。それでも、両の目から涙を流してなお、表情だけは毅然とし続けた。

 こう言う時は何か良い思い出を思い浮かべれば良い、つい最近まで、そうであったではないか。

 その時、頭上から、薄紅の花弁が降り始めた……それは地面の暗闇に近付くに連れて、それに合わせ、一定の割合でその色を黒へと変じさせて行く。完全に地べたに落ちてしまった瞬間には、花弁は完全に黒に染まり切り、闇と同化してしまう。

 ――そうだ。去年の事を思い浮かべよう……生まれて初めて学生生活を経験した時の事を思い出そう……丁寧に、一日ずつ、ゆっくりと思い返して行こう……体が力を取り戻すまで、木の根の呪縛から逃れるまで、上から降り注ぐ嘲笑に惑わされぬ様に、思い返して行こう……

 狂的な笑い声と、黒に染まり行く花弁が降り頻る世界で、わたしは目を閉じた――


 前髪を優しく払い除けてくれる手があった……次いで、その手にそっと頭を撫ぜられている感覚が生じた。誰かに膝枕をされている感覚があった。

 目を開くと――そこは暗闇だった。

 不思議な事に、光源など無いのに、自分の姿をはっきりと視覚出来た。陽の下に居る時と同様に、手相すらもはっきりと見て取る事が出来た。ここは暗闇の中でありながらも、物を視覚する事が出来る場所であるらしかった。

 胎児の様に、丸まっていた姿勢から起き上がる。立ち上がり、周囲を見渡すも、何も見えなかった。ただ暗闇だけが広がっていた。

 背後を振り返ると“その人”はまだ立っていた。巫女服姿の、顎か肩上辺りで切り揃えられたセミロングヘアの女性だった。その顔は不思議な事に、鼻から上が認識出来なかった。白く、曖昧に、ぼやけて見えるのだった。そう言う決まりでもあるかの様に、あるいはそういう術でもかけられているかの様に、その人物の表情の全てを確認する事は出来なかった。

 ただ、それだけはわかった。それは鳥子でも色でもなかった。背は鳥子よりも更に幾らか高く、けれども髪の長さは短かった。初めて見る女性だった。

 その人物は右腕を上げ、こちらを真っ直ぐ指差した。正しくは、こちらの背後に広がる闇を指差した。

 自分は背後を一度だけ返り見てから、前へと向き直った。

「……あちらへ行けば良いんですか?」

 そう言うと、口元だけほころばせて、その女性は何度も頷いた。まるで、無邪気な少年の様な反応だった。すると、その女性は今度は腕を下ろして、白衣の胸元からそれを取り出して見せた。

 それは殺生石だった。闇の中にあってなお、それは白く、淡く、それでもはっきりと輝いていた。まるで、光明の様に。

 自分は慌ててポケットの中をまさぐった。それは無かった。

 巫女服姿の長身の女性はこちらを手招きすると、やんわりとそれを差し出した。どうやら悪い人では無さそうだった。

 数歩ほど近付いてから、恐る恐る手を伸ばし、掴み取った。騙し討ちされる様な事も無く、無事、それを取り戻す。

 そうすると、女は再び腕を上げ、こちらの背後を真っ直ぐと指差した。

「――ありがとうございます……巴さん」

 頭を直角に下げていた。殺生石を返してもらった事以外にも、今日まで鳥子を支えて来てくれた事を含め、感謝した――その瞬間。女の顔が一瞬だけ驚きに染まる。そして、その内クスリと口元をほころばせて、こちらの頭を一度だけポンと撫ぜてくれた。そのまま振り返って、肩越しに手を上げて、手の平をやや軽薄な風に振りながら、そのまま闇の中へと消えて行ってしまった……

 それを見届けた後、殺生石を堅く握り締めて、背後へと向き直る。すると、左手の傷がほんの微かに疼いた気がした。更に一歩踏み出す。更に、ほんの微かに、疼いた気がした。一歩……一歩……進む毎に、左手の傷は疼いた。

「……そっか。そうだったんだ……」

 これは呪いなんかではないと確信した。この傷は、この痛みは……自分と鳥子を結ぶものだった。

 どれだけの距離と時間、暗闇の中を進んだのか、曖昧だった。闇の中では全てが曖昧に感じられた。

 殺生石を光明にして、ひたすら指し示された方角を進んで行く。

 やがて、ようやくそれを見付けた。

 暗闇の中で、全身を黒く染めた五、六歳ほどの子どもが、一人しゃがみ込んで泣いていた。

 けれどもその泣き声は聞こえず、暗闇の世界は無音のままだった。それでも、その様ははっきりと悲しみを体現していた。

「……どうしたの?」

 黒い子どもは――黒い少女は顔を上げた。目も、鼻も、口も、何も無かった。あの傀儡の様に、黒いのっぺらぼうだった。長い髪でさえもシルエットの一部としてあり、切り取られた影絵そのものに見えた。

 少女の方へと一歩を踏み出すと、彼女は頭を振って、一歩後退した。

「…………ごめん、わかった……これ以上は近付かない、だから怖がらないで……」

 その反応を見て、不思議とそれが悪い者ではないと確信した。

 少女は言葉を発せられないのか、しきりに、違う、違うと、頭を振った。どうやら、こちらの身を案じてこちらを避けてくれている様だった。

「……そっか、僕も呪われるかもしれないから、近付いては駄目だと言ってくれているんだね?」

 黒い少女は、うつむきながら、ゆっくりと頷いた。

 その反応に、思わず苦笑してしまった。微笑ましく思えてしまった。

 少女はその反応を見て、小首を傾げ、こちらの顔を見上げている。

「笑ったりしてごめん。君がある人にとても似てたから、思わず笑っちゃったんだ……」

 普通ならば不気味と思えるはずの存在なのに……今目の前に居る少女は心優しい少女なのだと知った事で、そんな事は最早どうでも良くなってしまった。

 その時だった。少女と自分の周りに、黒いシルエットが幾つも立ち表れた。大小合わせ、十人以上は立っている。彼らは声を立てずとも、囲んだ自分達を指差して――いや……少女だけを指差して、何かを囁いていた。そして……嘲り笑っていた。

 少女はそうされる事で、顔を押さえて、震え出した。最初見た時の様に、しゃがみこんで、泣き始めてしまった。

「………………」

 それを見て……切なくなった。思えば、わずか十六年の人生であってさえ、その様な光景は幾度も目の当たりにして来た。最初の内は、そんな光景に出くわしても、見て見ぬ振りをしていた。そうする度、心が切り刻まれる様な感覚を得ていた。何かが砕け散る音が聞こえた気がした……そして、遂にそれに耐えられなくなった。それは、何度目かのそれが起こった時の事だった。その時、自分を突き動かしたのは――あの日、母がくれた“言葉”だった。

 ――幸せの青い鳥になれますように。

 目を開いた次の瞬間――黒い少女の手を引いて、前だけを見据え、駆け出していた。取り囲む影達を押し退けて、がむしゃらに前へと進み始めた。

 それだけで、少女の周りに立っていたシルエット達は霧散してしまった。

 しばらくしてから立ち止まって、背後を振り返ると同時、少女がこちらに泣き付いて来た。顔をこちらの腹に押し当てて、しばし、声を上げないまま、泣きじゃくり続けた。

 かつて自分も誰かにそうしてもらった事があった。だから自分も彼女の体をそうして抱き締めていた。

 しばらくそうしていると、黒い少女の体に変化が起こり始めた。背が伸び、胸部も幾らか膨らみ始めていた。見た所、十歳前後ほどの姿形に変貌を遂げていた。

 すると、少女はすぐにその場でうずくまってしまった。頭を押さえて、ふらふらしていた。

「――――――」

 本当に“あの人”そっくりだった……――腰を屈めて、少女に背中を向けた。後ろに回した手の平で、おいで、おいでと、呼び掛ける。

 おずおずとではあるものの、それでもこちらを信頼してくれたのか、少女はその体をこちらに委ねてくれた。背中に、驚くほど軽い、それでもしっかりとした重みが加わった。それだけで、自分の胸の中に、十分満たされるものがあった。

 すると、少女はこちらの肩越しに腕を差し伸ばした。その指先を見ると、前方を示していた。

 殺生石をポケットに収めた。これから先は、少女の案内に身を委ねる事にした。

 あっち――。こっち――。そっち――と、少女の指差す通りに進んだ。

 進んだ先々では、あらゆるものが見えた。どれも全て人だった。人の形をしたシルエットだった。そのシルエット達は、その大半が少女に悪意を向けていた。少女を指差しては、ひそひそと囁いていた。

 そうされる度、背中に居る少女は、居心地悪そうに身を捩じらせていた。こちらに触れている事に罪悪感を覚えているのか、密着させていた体を離してしまっていた。そして、いよいようなだれて、身動ぎすらしなくなってしまった。

「――大丈夫だから……僕はそんなことで君のことを嫌ったりしないよ。だから、もう少しだけ進んでみよう?」

 少女は頭を振った。そんな人はもう居ないのだと。いずれは死んでしまうのだと……いずれは自分の元から立ち去ってしまうのだと……

 直接声に出しているわけでもないのに、その意味が、その思いが、背中に当てられた少女の額から伝わって来る。

「そうだね…………大切な人は、いつかは居なくなってしまう。人は、いつかは必ず死んでしまうものだから……」

 口元と頬が震えていた。それを堪える事が出来なかった。

「それでも……忘れちゃいけない。真面目に生きていれば、いつか、また新しく、君の事を思ってくれる人が現れるから……大切な人が死んでしまっても、また、そんな人が現れるはずだから……」

 情けない事に、自分は……少女に言い聞かせながら、涙を流していた。

 いつしか、何も無い暗闇の中を歩いていた。どうやら少女の試練は終わりを迎えたらしい。そして、やはりと言うべきか――今度は自分の番だった。

 その場に辿り付いていた。そこは、あの日の居間だった……くぐもった声で痛みを訴え、荒く呼吸する父が床の上で倒れていた。

 次いで、その前に屈み込んで、父の背中にタオルを押し当てている姉の姿が見えた。

 火の付いた様に泣きじゃくっている赤子をこちらの胸に託してからずっと、姉は救急車が来るまで、父の背中をそうしてずっと抑えていた。

 やがて救急車がやって来た。隣近所の主婦に頼み込んで、代わりに病院まで付き添ってもらった後、姉は真っ直ぐにこちらの前へとやって来た。

 怖くて姉の顔を見上げる事が出来なかった。それ以前に、全ての感覚が麻痺してしまっていた。

 父を刺してしまい、呆然自失としていた自分を救い上げてくれたのは……――姉だった。長い事、自分に冷たく接し続けていた、姉だった。父や母に反抗ばかりしていた、姉だった。

 姉はそのまま、こちらの腕に預けていた弟ごと、自分も含めて、抱き締めてくれた。

 ――ごめんね……今までお姉ちゃんらしいらしい事、何一つ出来なくて……

 その次の日、警察が訪れて……姉と自分の通う学校の関係者も訪れて……いつしか、その波も過ぎ去った、更に次の日の事だった。

 今度は親戚中の大人達が守野家に訪れていた。唯一血縁の無い長男坊が殺傷沙汰を起こしたとあって、彼らの少年を見る目は厳しいものだった。

 義理の息子の分際で何て恐ろしい事をと、しきりに攻め立てた。施設に入れてしまえ、離縁しろとまで長女に向けて言い放った。

 そんな大人達に対し、姉は毅然とした態度を示した。ありのままの事実を告げた。そして……“自分”――“弟”は悪くないとすら言ってくれた。

 ――悪いのは自分と父だ。“弟”は悪くない。だから施設に入れる様な事も、離縁する様な事も、絶対にしない!

 そう言った姉は、その後、すぐに親戚中から総叩きにされた。あらゆる言葉を吐かれた。それでも怯まず、徹頭徹尾、主張は変えなかった。大人達に敢然と立ち向かい続けた。入院した父が正気に戻るその日まで、姉は孤軍奮闘し続けた……

 やがて、父が正気に戻り、素直に自分の非を認めた、そんな日が訪れた。それを機に、ようやく親戚達は姉を責めなくなった。

 その代わり、守野家はそれ以後親戚中から白い目で見られる様になった。そして、今後一切の関わりを持たないと宣言された。それは事実上の絶縁宣告だった。

 それ以後、守野家に親交のある親族は皆無となってしまった。母方の親類縁者からも、父方の親類縁者からも、関係を断ち切られてしまった。

 それは、親族との親交よりも、血の繋がらない長男坊を“家族”が選び取った結果だった。

「………………」

 いつの間にか、自分はその場で膝を付いてしゃがみ込んでいた。額を闇色の地べたに押し当てて、力尽きていた。

 背中に負っていたはずの少女は、どこかへ消えてしまっていた。

 もう、完全に、精根尽き果てていた。暗闇の中で、何もかも、失ってしまっていた……――

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