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斑鳩  作者: 雪路 歩
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第一章 黒のピンドット

  第一章  黒のピンドット


 上靴に履き替え、廊下を進む。続けて、階段を二階分上がり、再び廊下を進む。クラスは二組なので、それほど奥まで進む必要はない。

 二組の前に辿り着いてから、廊下の奥の方を見渡す――冷房費の節約のため、どの教室も風通りを良くするために開きっ放しであった。早い話が、冷房のスイッチは入らないと言う事だ。

 まだ朝の八時位だと言うのに、通学路のアスファルトからは陽炎が立ち昇っていた。それは今、右手にある窓から見下ろせるグラウンドでも同様だった。ユラユラと景色が歪んで見えた。

 ここまで暑くては、さすがに朝練も出来まい――無人のグラウンドが見えた。

「?」

 そこに一羽、烏らしき黒い鳥が一羽だけ降り立つのが見えた。陽炎のせいか、その鳥の姿は酷く歪に見えた……その烏は――足が一本だけ生えている様に見えた。そしてその顔は……

 ――顔を反らし、左手にある二組の教室へと入る。

(馬鹿馬鹿しい。陽炎のせいでそう見えているだけだ……)

 適当に級友達に挨拶を交わしながら、真っ直ぐに教室の奥、自分の席へと進む。椅子を引いて席に着くと同時、溜息を吐いた。

「はぁ~……」

 周囲を見渡せば、いつもより五割り増しの明るい表情をしたクラスメイト達が見える。今の自分はそれに反比例するかの様に、いつもより八割減の覇気であることだろう。元々それほど覇気があるタイプではないから、それが誰からも気付かれていないのが悲しい。明日から始まる夏休みが億劫だと思えるなんて、生まれて初めての経験だった。

 左を向けば、窓ガラスに映った自分の表情が確認できた――冴えない、中肉中背の少年の顔。男らしさよりも、女々しさが際立つ顔付きだった。夏だと言うのに肌は青白いまま。少しくらい黒く焼けても良いのに……

 夏休みを目前にして気持ちが晴れないその原因は“右隣”にあった。正しくは、“右隣の席の主”にあった。その主である“彼女”は、どうやらまだ登校していない様だった。だが、すぐにその主――彼女の声が聞こえて来た。

「――あ~~~重たい! はいっ、どいてどいて~!」

 スポーツバッグと旅行バッグ、そして竹刀が納められた細長い包みを抱えた小柄な少女が、教室へドカドカと足音を立てながら入って来る。

 周囲の男子に遠慮無く荷物をぶつけながら、冗談交じりな調子で文句を言われながら、彼女も冗談交じりで返しながら、それを挨拶代わりにして教室の奥の方へと進んで来る――つまり、こちらの方へと向かって来る。

 彼女こそが右隣の席の主――三森水穂、その人であった。そして、自分がつい先日“告白”して玉砕した少女でもあった。

「――おはよ!」

 昨日振ったばかりの男に対し、いつもと変わらぬ調子で挨拶してくれる。そう……彼女はこういう性格なのだ。

「ねえ青羽君、これ道場まで持って行くの手伝ってよ。もう重くてさぁ~! お願い!」

 名字で呼ばれることが多いので、たまに下の名前で呼ばれてもすぐに反応出来ないものなのだが、彼女に対しては違った。彼女の場合は、少なくとも自分に対しては、常日頃から下の名前で呼ぶ習慣があった。だからすぐに反応出来た。

「うん……おはよう」

 どさどさっと、スポーツバッグと旅行バッグを床に落とすなり、両手をパンッと合わせてこちらを拝んで来る水穂。一挙手一投足が、流れる様に、まるでコントの様に、テンポ良く繰り広げられて行く。そんな仕草の一つ一つが何とも滑稽で、おかしくて、憎めなくて、そして、愛らしかった。

 先日振られたばかりなのに何故自分がと、正直思わなくもない。けれども、ここで彼女の頼みを聞かねば、それはそれで不義理だと言えた。それはそれ。これはこれと言うやつだ。

 恋人になってくれなければもう助けないだなんて最低だ。ある意味幼稚だとも言えた。それに、少なくとも彼女は仲の良いクラスメイトの一人であることに変わりは無いのだし。そして、男子が女子から頼まれ事をして動かないのは、何より格好悪かった。例えそれが、自分よりも体力のある体育会系の女子であろうとも……。むしろこう考えるべきなのかもしれない。先日自分を振ったばかりの彼女が、こちらを急に避けたりせず、いつも通りに接してくれていることに感謝するべきなのかもしれない。

「うん、いいよ」

 思えば、彼女のそういう所が好きなのだった。それが今では、テレビ越しに観るアイドルに対する様な感情を抱く様になっている。例えるならばそれは、手の届かない、ただ見ているだけしか出来ない存在。ニュアンスは限りなくそれに近い。もう彼女は身近な存在ではないのだと認めてしまった境地とでも言えば良いだろうか。

 昨日までは、もしかすれば手が届くかもしれない思っていたのに……“もし”の可能性すらもう無くなってしまった。

 彼女の外観に惹かれた訳ではない。彼女の内面の良さに気付いたから好きになった。そこは何と言われようと譲れない部分だ。

 前に三森水穂がクラスメイトの男子の一人と喧嘩をしているのを見た事がある。何が原因かは未だにわかっていないし、当事者達に確認するつもりもない。私的にその事件で重要なのは、彼女のその後の振る舞いだった。

 喧嘩したその次の日には、朝一番にその男子に自分から頭を下げに行っている姿を見た。深く頭を下げ、誠実に謝罪している姿を見た。

 男子も慌てて頭と手を振って、謝り始める。女子に頭まで下げられて許さないのでは沽券に関わるし、何より彼女の誠実さが伝わったのだろう。彼女のそれは、傍から見てもわかるほどに全力の謝罪だった。

 それ以降はそのことを一切引き摺らないで、三森水穂はその男子と接し続けていた。今では冗談を言い合える、悪友の様な関係に落ち着いている。先程故意に鞄をぶつけた男子の一人が、その当事者の男子である。

 そんな“姿”が立派で、何とも“格好良い”と思えたのだ。女子に対して“格好良い”は褒め言葉に聞こえないかもしれないが、言い換えれば、つまりは“素敵”だと言う事だ。彼女を好きになった理由はそこだ。彼女の誠実さに惹かれたのだ。

 そんな彼女の姿を、この席から四ヶ月近く見て来た。席が隣同士で、自然と色々と話をしている内に、情が湧いてしまった。肉欲から生じた感情、あるいは容姿で惹かれた訳では断じてない。

 多分……恐らく、きっと、これは純粋に好きなのだと、そういうことだと思う。十六歳の子どもがこんなことを言っても大人は笑うかもしれないけれど……

 胸の中に少しずつ蓄積されて来たその感情は、いつしか鉛の様に重たくなっていた。そしてそれは、綿菓子の様な甘さだけでなく、焦がしたカラメルの様な苦味をも持っていることに気付いた。

 それは抱えているままでは駄目なもので、いつかは解き放たねばならないものだと気付いた。このままでは焦げたカラメルの味しかしなくなってしまうと気付いた。

 日に日に強くなって行くその苦味に耐え切れず、ある日突然、場所もわきまえず告白してしまいかねなかった。

 入学し立ての頃、彼女と出会った時の事を、今でも覚えている……――


「――席、隣同士だね。これからよろしくね」

 入学式を終えて、教室へと戻って来てすぐのことだった。右隣の席に座る、まだ名も知らぬ少女から声を掛けられた。

 教室の後では父兄も立っている。教室に担任の教師が来るのはまだ十分程先で、今はトイレ休憩となっていた。

 各自、それぞれの親と話している生徒が大半であった。こう言う時は大抵、母親が一緒に来てくれるのであろうが、生憎自分には母親がいない。昔、弟を産んでしばらくして、亡くなってしまったからだ。

 それ以後は歳の離れた姉が母親代わりを勤めてくれていた。当然ながら姉はとっくに成人で、未だに同じ屋根の下で暮らしてこそいるものの、今ではOLなので仕事に行っていた。

 別に寂しいとは思わない。もう過ぎたこと、当たり前のことだと達観している。ただ、純粋に、母親のいる周囲の生徒達が羨ましいとは思えた。

「私も親が来られなくてさ、暇なの。あ、ごめん。自己紹介まだだったね。三森水穂と申します。苗字は三つの森って書いて、下の名前は水に、稲穂の穂って書いて水穂って言います。そっちは何て言うの?」

 健康的に薄らと肌が小麦色に焼けた、肩口辺りで切り揃えられたボブカットヘアの少女だった。白い前歯を覗かせて、ひょうきんな調子で軽く首を傾げさせて、こちらに微笑み掛けている。

 正直――可愛いと思ってしまった。一目見て、魅力的な女の子だと思えた。けれども、その時はまだ、あくまでそれだけだった。外観がそれなりに可愛い少女。それ以上でも、それ以下でもなかった。ついでに言えば、肌が小麦色なのは私的には好みではなかった。別に嫌いと言うわけでもないのだが。

「守野青羽……です。苗字は……守る野原の野と書いて守野で、下は青い羽と書いて青羽です。ええと、よろしく、三森さん」

 緊張している為か、掠れた声で、たどたどしい調子での自己紹介だった。何とも格好悪い。

「よろしくね、青羽君!」

 目を細め、微笑んで下の名前で呼んでくれる三森水穂。

 どうやら彼女は、人を下の名前で呼ぶタイプの人間らしい。それを気恥ずかしいとは思ったが、嫌だとは決して思わなかった。むしろそれが心地良かった。名前の通り、瑞々しく、何とも爽やかな少女だった。

 それから時は少しだけ流れ――教科書の購入や身体測定等を終えた二日後、いよいよ授業が始まった。

 この学校の授業のレベルは正直低かった。元より偏差値は平均より下の私学である。公立試験に落ちた者達の多くが滑り止めで受ける学校なのだからそこは仕方が無い。

 そういう学校なので、必然的に勉強嫌いな生徒も数多くいる。授業の内容を難しくしては、進級出来る者がほとんどいなくなってしまうのだから。この学校にはこの学校の授業のレベルと在り方と言うものがあるのだ。

 三森水穂もまた勉強をしないタイプの生徒であった。赤点さえ取らなければ良いやと言う考えの持ち主だった。ただ、部活には真面目に打ち込んでいたし、授業を真面目に受ける姿勢は持っていた。

 彼女は度々『せめて内申点ぐらいは稼いでおかないとね』と言っていた。しかし、彼女は忘れ物が多かった。彼女が教科書を忘れた時は、こちらの机とくっ付けて教科書を共用する事が度々あった。

 連日部活で疲れているからか、よく居眠りしてしまう彼女を起こすことも多かった。隣の席なので、起こす様に教師から言われることが多いのも理由の一つだ。

 また、居眠りをしておらずとも、うたた寝をしていることもしばしばある。そんな時に突然教師に当てられ、解答を迫られた際は、決まって合いの手を入れるのは自分だった。

 教師に気付かれない様に、ノートの端に書いてある答えをシャーペンの先で突いて教える。顔だけは上げずに、ノートに板書を書き写している振りをする。こうしているとほとんど教師にはばれない。

 彼女はチラリとそれを見ると、すぐに答えを教師に言う。『座って良し』と言われ、着席する彼女。彼女の回答正解率は、試験の結果に反してかなり高い。

 恐らく、本当は自分が答えを教えているのだと教師にはとっくに気付かれているだろう。でも、そこは居眠りから起こすことが目的であるので、そうしていても咎められたことはまだ一度も無い。進学校ではないからか、そういう部分では大らかな校風だった。

「――ありがとう!」

 片手でメガホンを作り、小声で、こちらにだけ聞こえる程度の音量で語り掛けて来る三森水穂。

 そうしていると、答えを教えた事が周囲にばれてしまうかもしれないのに――溜息を吐きながらも、自然と笑顔になっている自分に気付く。

「……はい、どういたしまして」

 苦笑を交えながらも、内心嬉しかった。こんな些細な触れ合いだけでも、幸せを感じていた。

 それが、僕らの関係だった――


 一番重たい旅行バッグを持つことを請け負って、彼女の後を付いて歩く。

 これから向かう先は、グラウンドの端にある格技場だ。そこは畳が敷かれた、汗のすえた臭いが充満する場所だった。

 朝のホームルームまでにはまだ時間がある。だから特別慌てる必要は無かった。

「――それでさぁ、私お母さんに言ってやったわけ! 『塩を切らしたからって、ごま塩を塩代わりに料理に使っちゃダメだよ!?』って――もう何回目やねんって感じだよねぇ?」

 そんな馬鹿な話があってたまるかと思うが、事実なのだから仕方がない。彼女の家では米や塩等の必需品を切らすのが日常である(らしい)。

 以前、突発的に弁当の交換を持ちかけられたことがあり、喜んで応じたことがあった。すると、昼休みに蓋を開いてびっくりすることになった。

 肉じゃが、卵焼き、塩サバ……その他全てに黒ゴマが入っていた。弁当全体に黒ゴマが水玉模様の様に散りばめられていた。何とも暗く澱んだ空気を醸し出している弁当だった。こんな弁当を見たのは生まれて初めてだった。まるで食欲が湧かない。

 右隣の席を見れば、彼女はこちらと交換した弁当箱を持って既に立ち上がって、おかずをヒョイパク、ヒョイパクと摘まみながら逃げ始めていた。

 こちらも弁当箱を持って、とりあえずは摘まみながら後を追う。ゴマの風味がする以外は普通の弁当だった。別に食べられなくはない。しかし、それはそれ、これはこれだ。

「――三森さん、ちょっと話があるんだけど?」

「こっちはありません! 女の子が物を口に含んでいる顔を見ないでください! イヤラシイ!」

 こんな時だけセクハラ扱いしないでもらいたい。こちらも堂々と言い返す。

「セクハラじゃありません! 話し合いたいことがあるだけです!」

 セクハラと言う単語に、周囲の目が吸い寄せられるが、この程度で怯んでいてはいけない。いつものことかと、クラスメイト達はすぐに顔を反らす。付き合いきれんと言う雰囲気がありありと漂い始めていた。

 弁当を咀嚼しながら廊下を進む珍妙な男女が二人。学食や売店に向かう生徒達が、それを指差して何やら囁いている。

 ――何あれ?

 ――ああ、例の変人カップルでしょ?

「――……っ!」

 顔が赤くなるのを自覚する。だが負けてはいけない。恥ずかしさに負けて教室に逃げ帰れば、それこそ彼女の思う壷だ。最初こそ、こう言う事がある度にすぐ逃げ帰っていた。けれどもそのままではいけないと数日経って気付いたのだ。徐々に慣らして来た甲斐あって、今ではこの程度では羞恥心を抱かなくなっていた。それはそれで何かがおかしいとも思えたが……気にしないでおいた。

「よしわかった! おかずを交換しよう! 全部とは言わないから、せめて何かを交換しよう!」

「このエビシューマイ手作りでしょ? 美味しいよぉ~~! 冷凍のなんて目じゃないね! エビがすんごいプリプリしてるよ!」

「それ姉ちゃんの手作りなんだよ! 好物なんだから置いといてよ!」

「ゴマは体にいいんだぞ! 我慢して食え!」

「なら三森さんが食べればいいでしょっ!? 人に押し付けないでよ!」

「たまにはゴマの味がしない物が食べたいのよ! もう三日連続よ!?」

「なら今日家に帰ったらゴマ塩の分別作業をしたらいいよ! そうすれば塩が作れるよ!」

「あはははは! 何それ? おっかし~~いい!」

 そんなことを言い合いながら追いかけっこを続けていると、いつしか互いの弁当箱は空になっており、教室の前へと戻って来ていた。

 引き戸を開き、教室へと入ると、クラスメイトの何人かが口を開いた。

「おかえり~」

「今日は早かったな」

 そんな言葉が投げ掛けられる。そう言い終えると、皆は談笑を再開する。

 窓際の席の方へと先に戻っている三森水穂の後姿を見やる。すると、くるりと彼女は振り返り――『ゴメンね!』と、片腕を腰の後に回して腰を曲げ、片手を顔の前に立てて、謝罪するのが見えた。


 ――そんな、少し前の事を思い出し終えた頃には、正面玄関に辿り着いていた。

 今でもあの弁当の味は覚えている。黒ゴマが織り成すピンドットの弁当は、正直な所、それほど味は悪くないのであった。

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