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斑鳩  作者: 雪路 歩
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第十五章 水色のサマーバケーション5

  第十五章  水色のサマーバケーション5


 離れの住まいへと通されて、布団を敷いた部屋に鳥子を横たえた所で、巫女の少女からやんわりと手の平を立てられて部屋の外に出る様に指示された。

 仰向けに布団の上に横たえられた鳥子の服の前面は、自分が彼女を背負っている時にかいたのであろう汗でぐっしょりと濡れていた。彼女の顔を見れば、今は幾らか穏やかな表情をして眠りに就いていた。

「これから鳥子様の服を取り替えます。その間、貴方様は御風呂場の方に行って汗を流されて下さい。着替えは後で持って行きます」

 巫女の少女に鳥子を託した後は、言われた通り、風呂場を目指した。

 思い返せば、昨日の朝に汗だくになって以降、風呂には一度も入っていなかった。体臭は最早限界であった。いい加減、体の汚れをすっきりと落としてしまいたかった。

 素早く着衣を脱いで、左腕の包帯も外し、風呂場へと移る。そこには大きな檜風呂があった。シャワーもちゃんと備えられていて、それがかえって浮いていて、違和感を覚えてしまった。和風の中に洋風の物があるのは何だか滑稽だった。

 お湯を流しているとそれに気付いた。この水は水道水ではなく、汲み上げた天然水を直接お湯にした物であった。口に含んでみると、塩素の味が全くしなかった。

 多分これなら直接飲んでも大丈夫であろう。お湯を止めて水だけを出し、手の平でお椀を作ってそのまま無心に水を飲んだ。

 よく冷えた、澄み切った味のする水だった。今まで飲んだ水の中で一番美味しかった。カラカラだった喉がすっかり潤いを取り戻していた。それに伴い、体にも幾らか活力が湧いて来る。

 据え置きのシャンプーや石鹸を拝借し、髪と体を洗った。夏場の二日分の汚れがすっかり落とされ、サッパリした。

 体がばてているので、湯船にお湯を溜める事はしなかった。鳥子の事が気にかかったので、風呂場からはすぐに出る事にした。

 脱衣所へと戻ると、籠に入れていたはずの学校指定のシャツとズボン、そして下着は、どこかへ行ってしまっていた。その代わりに籠に納められていた物は、浴衣と、百均などで見る下ろし立ての下着だった。とりあえずブリーフじゃなくて良かったと、そう思った。それはもう小学生の低学年の時に卒業していた。

 浴衣を羽織り、身繕いを整えると、何だか旅館に宿泊しているかの様な錯覚を覚えた。

 脱衣所から出ると、そこにはあの巫女の少女がじっと立って待っていた。

「――うわっ!?」

 どうやら、こちらが出て来るまでそうしてじっと待っていたらしい。

「こ、声をかけてくれれば良かったのに……!」

「サイズが合うものかどうか確認していなかったので。確認しようと脱衣所に入ろうとしたら御風呂場から出て来る物音が聞こえたので……なので、服を着られるのを待っていました」

 相変わらず感情の揺らぎが全く感じられない無表情のまま、巫女の少女は淡々とそう言った。

「大丈夫。丁度良かったよ。ありがとう。ええと……鳥子さんの容態はどう?」

「体を起こせる程度には回復した様です」

 棒読みの様な答えが返って来た。

「そっか……それは良かった」

「御風呂に入りたいと申されていました」

 それを聞いて、少しばかり不安になった。

「一人で大丈夫かな?」

「……手伝われますか?」

 なぜそんな質問が返って来るのかわからなかった。

「いや、さすがにそれは無理でしょ?」

 一体何を言ってるんだこの娘は?

「御二人は恋人同士ではなかったのですか? てっきりそうだと思っていたのですが……」

「恋人でもさすがに無理です! あと、僕は鳥子さんの恋人じゃないよ」

 なぜならば、自分達は昨日出会ったばかりなのだから。呪いの事も含め、お互いの事すらまだろくに知らないのだから。

「ならば御二人は一体どういう御関係なのでしょうか……そうですか、違ったのですか、それならば早とちりしてしまったやもしれません。後で誤解を解いておかねばなりませんね――」

 なにやら気になる事を、彼女は最後に呟いていなかったか?――それを確認する間も無く、巫女の少女は廊下の奥にある角を曲がって行ってしまった。

「………………はぁ」

 これからどうしたものかと、天井を見上げて考え事をしていると、突然声をかけられた。

「――何度もすいません」

「うわ!?」

 見下ろせば、ついさっき廊下の奥にある角を曲がって行ったはずの少女が、再び目前に立っていた。相変わらず彼女は素早く、そして、音も無く移動する術に長けていた。

「お疲れだと思いましたので御布団の方を御用意しておきました。そこに御茶も御用意しております。御案内しますので付いて来て下さい」

 初め出会った時の様に、彼女は右手をこちらに一度差し出そうとしたが、今はそうする必要性が無いとすぐに気付いたのか、やんわりとそれを下ろした。そのまま、無表情な顔でこちらを見上げて来る。早く何か言えと、無言の圧力をかけられている気がした。

「……あ、はい……それじゃあ、お願いします」

 ペコリと頭を下げて、お願いした。

「こちらです」

 少女の一歩、一歩の歩幅は小さかったが、それでもその回転は速かった。旅館等に勤める女中の様な、丁寧な足運びでありながら、スススと、まるでスライドする様な感じで廊下を進んで行く。その動きには一切の澱みが無い。歩幅が小さく、丁寧に歩いているからこそ、彼女の足音はそれほど立たないのだと気付いた。

 巫女の少女に連れられて廊下を進んで行く。幾つか角を曲がると、縁側のある廊下に出た。そこを更に幾らか進んでようやく立ち止まった。やんわりとその部屋を手で示される。自分は和室に通されていた。

 障子戸は最初から開け放たれていた。庭に面した部分に戸板は一枚もはまってはおらず、全て取り外されていた。通された部屋からの庭の見晴らしはとても良かった。

 しばし庭の景色に心を奪われていると……それに気付いた。少女が座布団を示し続けてくれていた。そこに座れと言う事なのだろう。こちらが気付くまで待っていないで、話しかけてくれれば良かったのに。

「ぼうっとしててごめん、ありがとう」

 次いで、少女は机の向こうに敷いてある布団を指差した。

「御布団はあちらです」

「わざわざありがとうございます」

 深々と少女に頭を下げる。この少女と話をしていると、テンポが狂うと言うか、何と言うか……。その淡々とした雰囲気に、そのペースに、気付かぬ内に侵食されてしまう。何とも不思議な少女だった。

「それでは私は鳥子様を御風呂場に案内して参ります。失礼します」

「お願いします。きっとまだ具合悪いと思うから、色々と助けて上げて下さい」

 廊下に出て進み始めていた少女は、それを聞いて立ち止まり、二言だけ漏らす。

「――本当に御二人の御関係がわかりません。御二人は本当にどの様な御関係なのでしょうか?」

 頭を傾げて、そのまま行ってしまった。

「本当だよ……どういう関係なんだよ」

 女性の入浴は時間がかかるものだ。ならば、素直に横になっておこうと思った。座布団には座らず、机の上に置かれている茶にも手を付けず、そのまま机を迂回し、丁寧に敷かれた布団の方へと進んだ。

 布団の上に辿り着くなり、バフッと音を立てて前のめりに倒れ込んだ。そのまま布団に顔を押し当てる。そうしていると、太陽の匂いがした。

 その匂いを嗅いでいる内に、意識はすぐに遠ざかって行った。

 人を助けると言う事は、本当に重労働なのだ……――


 まどろみの中で、半ば覚醒しかけた意識の狭間で、それを感じていた。しっとりと、柔らかく、こちらを慈しむかの様に撫でる……いや、事実、慈しんでくれているのであろう。額に手の平の感触がした。

 ――ああ……まただ。また誰かが“母”の代わりに頭を撫でてくれている。

 今目を覚ませば、もしかすれば母親に会えるのではないかと思った。けれども、眠気には抗い難かった。それでも、今この時は会いたいと言う思いの方が勝った。

 目を開けると、先ずはそれが聞こえて来た。遠くの方からカエルと虫の鳴き声が聞こえて来た。

「――…………」

 眩しさに目を細める。室内灯が点いていた。腕で目元を覆い隠して、しばし眩しさに耐える。そうしていると、それに気付いた。

 さわさわと、そよそよと、風がこちらに送られていた。穏やかな優しい風が、そっと自分の肌を取り巻いていた。

 薄目を開けて、そちらを見れば……そこには白い浴衣姿の鳥子が座っていた。団扇を持って、それを淡く、ゆったりと扇ぎながら、淑やかに正座していた。それを見て頭が真っ白になった。自分は今まで、これほど綺麗なものを見た事が無かった。

「――……あ……ありが……とう」

 数秒ほど放心していただろうか。思い出した様に、自分でも気付かぬ内に、そう呟いていた。

 それを聞いて、鳥子は口元を軽くニコリとさせた。次いで、彼女はいよいよ笑顔になって、首を軽く傾げて見せた。

「……ずっとそうしていてくれたの?」

 うんと、言葉にはせず、鳥子は頷いた。それに伴って、彼女の烏の濡れ羽色の長髪が、サラサラと肩からこぼれ落ちた。それは、どこか艶かしく映って見えた。

「――――――」

 昼の時とは立場がまるで逆転していた。これでは、本当に姉と弟の様な構図だった。それを認識した後、ふと湧いて出た感情があった。その感情の正体が何なのか、自分では正確に掴めなかった。それは、悔しさと、切なさと、穏やかさとが入り混じった、何とも複雑な感情だった。

 しばし彼女の顔を見詰めていると、やがて、鳥子は口を開いた。ポツリと、囁く。

「――御礼を言っておくわ……助けくれてありがとう」

 最後の方は小さくなりながらも、誤魔化す事はせず、彼女はきちんと感謝の言葉を口にした。

「そうか……やっぱり鳥子さんだったんだ。昨日、僕の頭を撫でてくれていたのは鳥子さんだったんだ? さっきも、頭を撫でてくれていたんでしょ? ありがとう……何て言うか、凄く、体が楽になった。気が楽になった」

 ――あれ?……今自分は、もしかすれば、物凄く恥ずかしい事を鳥子に言ったのではないか?

 それは、自然と吐いて出た言葉だった。

 それは、ここ十年分ほどか。母が死んで以来、満たされなかったものだった。

 それは、今ようやく満たされたが故の、無防備さから湧いて出た言葉だった。

 それは、まるで、風邪で寝込んだ幼子が、母の事を意味も無く呼んでしまう様に……

 自分は羞恥を誤魔化す様にして、腕で目元を覆い隠していた。さも、まだ眩しいのだと言わんばかりに。目元に押し付けた腕の隙間から、そっと、鳥子の様子を窺うと……

 ――彼女もまた、顔を背けていた。団扇を持ったまま、左の二の腕を、そっと、さすっていた。


 穏やかな時間が過ぎて行く……このまま、ずっとこうしていたいと思った。

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