今まで見て来たものは、一体何だ?
次に僕が目覚めた時、僕はやっぱり…病室にいた。やっぱり…全く足は動かなかった。手は前よりか動くようになった。いつの間にか、腕に刺されていた点滴がなくなっている。それから鼻に入れられていた管もなくなっている。試しに声を出してみた。
「あー、あー。あっ、声が出るようになっている」
「あっ、辰雄さん。声が出せるようになったのね。よかった…」
ベッドの隣には小秋がいた。でも、今回は桜と冬彦はいなかった。病室には小秋と僕の二人しかいないらしい。彼女はまたしても僕にしがみついた。僕の記憶が正しければ、確か小秋は家を出て行ったはずである。
僕のふがいない浮気のせいで…。何が何だかよく分からない。よし! ここはどっちが現実で、どっちが夢なのかを、はっきりさせよう。さっきは勝手に意識が遠のいたけど、今度は大丈夫みたいだ。
「どうして、小秋がここにいるんだ?」
「何を言っているの? 夫が怪我して入院しているのに、そばにいない妻がどこにいるのよ」
「あれっ? 僕らは離婚したんじゃなかったかな…。確か…」
「はあ? やっと、話せるようになったと思ったのに…。やっぱり、事故の後遺症かな…。先生は頭には問題ないとおっしゃっていたけど…。やっぱり、あれだけ酷い交通事故にあったんだから仕方ないか…。まあ、とりあえず、お昼を食べましょう」
小秋はそう言って、看護士と一緒に僕の状態を起こしてくれた。その時、体の至る所からズキズキと鈍い痛みがした。その後、小秋がドロドロになったおかゆを食べさせてくれた。
どうして、自ら上体を起こせなかったのだろう…。どうして、自分でおかゆを食べることもできないのだろう…。やっぱり、僕は交通事故にあったせいで、体を思うように動かせないらしい。
しかも、僕の言ったことを事故のせいで頭がおかしくなったと、小秋は全く取り合ってくれない。何一つ疑うことなく、ひたすらスプーンを使って、僕の口にスプーンを運んでくれる。
お腹が空いていたから、つい全部食べてしまったけど…。僕は至って正常なのだ! こんなことは止めてくれ!
「僕が浮気して、浮気相手を妊娠させてしまったから、それに愛想を尽かして、君は家を出て行ったじゃないか! 桜と冬彦を連れて…」
とうとう、言ってやったぞ。これで僕はこの世界から抜け出せるはずだ。小秋は突然いなくなって、病室もなくなって、僕は夢から覚めるはずだ。そして、岡川遥と暮らすアパートの一室で気持ちよく目覚めるに違いない。そうだ。この世界こそが夢…。これも今までみて来た悪夢の一つのはず…。
ところがそうはならなかった。小秋は突然、僕に強く抱きつき泣き出した。この温もり…。この感触…。生暖かい涙…。ここ二ヶ月ほど、こんなにはっきりと感じることはなかった物…。ここ最近で感じた物、触れた物、見てきた物、経験してきたことが、全ておぼろげに見えてくる。なぜだろう…。
「事故で生死の境をさまよっていた人を置いて、離婚なんかするはずないじゃないの…。辰雄さんが事故で意識不明の重体になってから、どれだけ心配したと思っているの? 桜も冬彦も。あなたの父さんも、姉さんも、私の父も母も、あなたの会社の人も、ずっとこの日を待っていたんだから…」
小秋は僕に抱きついたまま、嗚咽を堪えながら、とんでもないことを言い出した。そんな馬鹿なことってあるのか? さらに小秋は続ける。
「あなたが事故にあったから、梅子ばあちゃんだって、真っすぐ天国へ行けなかったんじゃないかな? そうよ…。今は意識が戻ったばかりで、まだ混乱しているのかも…。きっと悪い夢でも見ていたのね…」
これがあの小秋なのか? ここにいる小秋は偽物ではないだろうか? 私の妻はこんなことを言う人ではなかったはずだが…。もし、彼女が紛れも無く高松小秋というのなら、何が彼女を変えたと言うのか?
僕の知っている妻はもっと冷たくて、夫の事をATMとしか思っていない人だったはずだ。家にいると、とにかく息苦しくて肩身が狭かったのに…。それなのに…。
そして、これこそが現実の世界で、今まで僕が見て来た世界が夢だと言うのなら、僕が今まで見て来たものは、一体何だ?




