これは夢か…幻か…
僕は病室で目覚めた。初め、どうして病室で寝ていたのか、全く分からなかった。
確か、僕は取引先で父・勇務から祖母・梅子が亡くなったと、携帯電話で連絡をうけた。それでいても立ってもいられなくなって、急いで会社に戻った。その途中、車にひかれたが、運良くかすり傷一つで済んだ。だから、そのまま葬式に向かったはずである。
それから岡川との浮気がばれて、小秋とすったもんだの末に離婚した。その途中で、義父の大和に金属バットでぶん殴られそうになったし、桜や冬彦が家出したはずだ。それなのに、どうして病室に小秋と桜と冬彦がいるのか? 訳が分からない。
「あ…、あ…、あ…」
あれっ? なぜかうまく声が出せない…。本当は『あれっ? どうして小秋たちがここに居るんだ…』って言いたかったのに、どうして言えないんだろうか?
「あっ、辰雄さん…。意識が戻ったのね。よかった。桜、冬彦。父さん、目を覚ましたよ」
「あっ、父さん…」
そう言って、三人は辰雄にしがみついて喜び合った。僕はどうして、三人がこんなに喜んでくれるのか、増々分からなくなった。もうすでに小秋とは離婚して、桜と冬彦は小秋に引き取られたはずなのに…。
「父さん、六週間ぶりに、意識が戻ったね…」
六週間ぶり? 僕は桜の言っていることが全く理解できなかった。
「本当ね。六月二五日、車にひかれて、意識不明の重体で運ばれたって、聞いた時にはもう助からないと思った…」
「あの日、ばあちゃんが亡くなって葬儀に行くはずだったけど、それどころではなかったよね…」
ん? 冬彦は何を言っているんだ…。あの日、家族四人で葬儀に出るために長野へ向かったじゃないか? 小秋も何を言っているんだ。あの日、確かにひかれたけど、かすり傷一つで済んだはずだ。
さっきから、三人は意味不明なことばかり言っているから、一つずつ反論したいのに…。でも、声がでない。どうしてだ?
あれっ? 体が思うように動かないぞ。よく見ると、鼻には変な管が入れられているし、腕には点滴が刺してある。一体、どうなっているんだろうか…。
「あっ、先生が来たよ」
「こらっ、冬彦。いらっしゃった…でしょう。あっ、先生、主人がやっと意識を取り戻しました」
「これは奥さんの献身的な看病のおかげですね。一時はもう植物状態になるかもしれない状態だったのに…。ただ、残念ながら脊髄を損傷していますので、下半身マヒは治らないでしょう。でも、きちんとリハビリをすれば、車いすでの生活ができるようになります」
「そうすれば、以前と同じように家で暮らせるようになるのですね」
「はい、そうです。また、今までは流動食でしたが、今日から、少しずつ食事を固形物に戻していきましょう。幸い、頭に目立った損傷もないので、詳しいことは精密検査しないと分かりませんが、多分知能に異常はないと思います」
「先生、本当にありがとうございます」
どうやら、あの日、僕は車にひかれたらしい。僕は生死の境をさまよい続けたらしい。じゃあ、今までやってきたことは一体何だろうか?
それにしても、どうにかしてしゃべりたいのだが、さっき医者が言っていた流動食の管のせいで声がうまく出せない。せいぜい、かすれたため息のような音を出すのが精一杯だった。それから、手を動かしてみた。手はほんのわずかだが、きちんと動いた。しかし、足はどんなに動かそうとしてもピクリとも動かない。そして、足の至る所から鈍い痛みが広がるだけだった。
にわかに交通事故にあって、生死の境をさまよったことへの現実味が増した。そうすれば、三人の謎の会話も、僕が病室で寝ていることも、鼻に入れられた管も、かすかにしか動かない手も、全く動かない足も、医者の言っていることも、全てつじつまが合う。
思えば、車にひかれてから、かすり傷一つで済むはずがない。そうか…、今まで、ずっと夢を見ていたのか。でも、夢にしてはあまりにもリアル過ぎる…。本当はこの病室の方が夢なんじゃないかとさえ僕は思った。
だんだん、どっちが夢で、どっちが現実なのか、分からなくなってきた。誰でもいいから、僕に何が真実なのかを、分かりやすく教えてくれ…。だんだん、意識が遠のいてきた。
病室のテレビから、広島・原爆の日のニュースがかすかに聞こえてきた。意識が遠のいていく中で、NHKニュースが原爆慰霊式典のことを伝えていた。それで今日が八月六日だと、初めて気付いたのだった…。
そうか、あれは夢だったのか…。だから、時々不思議な事が起きていたんだ。足の小指を思いっきりぶつけたのに痛みを感じなかったり、右耳が聞こえにくくなったり…。でも、すぐに治ってしまったから、大した事ないと思っていたのに…。




