妻の怒り
「ねぇ、どうして、こんなことになってしまったのよ! どうして、浮気なんかしたの? しかも、相手の人を妊娠させて、何を考えているの?」
とうとう、浮気が妻にばれてしまった。もう、どうにもならない所まで来ていた。岡川はお腹の子どもをおろす気は全くないらしく、お腹の子どもを使って、妻と直接話をしたらしい。別に岡川を責める気はない。
悪いのは、他ならぬ自分である。誰も責めることなんて出来やしない。責められるものなら、自分を自分で責めたかった。辰雄は自分のふがいなさをただ呪う…。
この週末、家には桜も冬彦もいなかった。桜も冬彦も町内会の宿泊体験に参加していた。いや、小秋が参加させたのだろう。
子どものいない家で辰雄は小秋からずっと責められ続けていた。もう、一生続くのではないか…。それぐらい長い時間責められ続けた。悪いのは他ならぬ自分だ。誰も責めることなんて出来やしない…。そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
「辰雄さん、自分が何をやったか本当に分かっているの? 分かっているなら、私の目を見てよ。あなたはいつもそうやって都合が悪くなると目をそらす。どうして、きちんと私を見てくれないの? そんなに目をそらさないといけないようなことをやらないでよ!」
どうして、目線のことを責められないといけないのか? 今、浮気のことを責められるのは分かる。しかし、目線のことを責められる筋合はない。辰雄は昔から目を合わせて人と話すのが苦手だった。
いつもは全く問題にならないのに、こう言う場面ではすごく問題になる。別に目を合わせないからと言って、話ができない訳ではないのに、大切な話になればなるほど、目を合わせることが重要になるのはなぜだろう…。別に好きで目をそらしている訳ではない。
動揺した時に顎をしゃくるのと同じぐらい、いやそれ以上に困った癖である。この癖のせいで辰雄は何度窮地に追い込まれた事か…。
気付いたら目をそらしてしまうのだ。そりゃ、このような場面で変な怒りを買わないように必死に小秋を見る。しかし、ちょっと気を緩めると、すぐに目をそらしてしまう。はっきり言って、目を合わせるのは怖い…。他の人は怖くないのか?
この変な癖のせいで、就職試験の時は苦労した。無理矢理、目を合わせることが本当につらくて仕方なかった。しかも、面接官から
「そんなに睨みつけたら、心証が悪くなりますよ…」
と言われた時は、どうしていいのか分からずに途方にくれたものだ。目を合わせればいいってものでもない。
「ねえ、そんなうつろな目で見ないでくれない? 何がそんなに悲しいの? 悲しくてつらいのは、私の方よ! 昔みたいに熱いまなざしで私を見てよ。誰がそんな目で私を見ろって言った? お願いだから、そんなうつろな目で私を見ないで…」
さっきから妻はひたすら小言を続けている。もはや小秋自身、怒りのあまり支離滅裂なことを言っていることに気付かない。辰雄はひたすら無言を貫く。
ただ一つ、やったことは妻に視線を向けたことだけ。彼にとっては、妻であったとしても、意識して目と目を合わせて話すことは大変な苦痛であった。しかし、今はすごく大切な話をしているから、目を見ないといけないのかな…と思い、目を合わせたと言うのに…。
それなのに、今度は「見るな」と言う。うつろな目って一体何だ? 熱いまなざしって一体何だ? 人と目を合わせるのに一苦労する奴がそんな器用なことをできるはずがない。そんなのは視線を受け取った側の勝手な解釈ではないのか?
辰雄はどうしていいのか、ますます分からなくなっている。小秋が何を怒っているのか分からないぐらいだ。
それにしても、いつになったら解放されるのか…。もう、ずっと終わらないような気がした。あまりの苦痛に、そのうち、夢でも見ているような不思議な気分に襲われた。
あれから、どれぐらい気が経っただろうか…。ようやく、小秋は気が済んだらしく、無言で辰雄の前から去って行く。この隙に辰雄は家を飛び出した。この日は子ども達は町内会の宿泊体験で帰って来ないのだ。家に誰もいなくても、全く問題ないだろう。