一章 饅頭怖い 其の3
面倒だが、しょうがないので下校中にあの鳥肌モノの体験を坂本としーさんに話す。すると――
「「ぎゃはははははははははははははははは」」
爆笑された。
「ちょっ笑うな。怖くないのか」
黄一色のイチョウ並木の道を歩きながら坂本越しに腹を抱えているしーさんを睨む。
「歩ビビり過ぎっしょ」
「うん。でも同じ状況だったらしーさんもビビっていた断言できる」
しーさんは首を横に振る。
「うちは歩みたいに臆病で気弱なチキンじゃないしー。大体襲ってきても返り討ちにしてやるだけっしょ」
仰る通りです、サー。
さらっと罵倒されたが不問とする。口答えしたら粛清される。坂本が間から口をはさんだ。
「流石、学校一凶暴な女。血に飢えてますな」
「ああん?」
「何でもないっす」こんな風にね。
「俺もそれを見物したかったわ」
「奇遇だね。ぼくもあの饅頭を前にして目を白黒させる坂本を見たかった」
あれを見て正常を保てる人間は皆無だろう。心の隙間に餡子を垂らして搔き乱す。別の意味で目の毒だ。イチョウの木々を抜けて交差点を右に曲がる。排気ガスで空気が不味い大通りだ。今朝も通ったけど気分が悪くなるから通学路を変更しようかな。
歩道橋には『交通マナーは常識の範囲内で守りましょう』という頭を捻りたくなる不思議な標語が掲げられている。これを眺める度に範囲外だったらいいのかと屁理屈をこねたくなる。
「ここっしょ?」
しーさんの問いに坂本が頷く。
「成程。いかにも、って場所だ」「ここの通路って何処に繋がってるんだろ?」「今度、一緒に調べてみるか?」「嫌ー」
ぼくなんて蚊帳の外で楽しそうに騒いでいる。当事者であるぼくを放置して盛り上がりやがって。いちゃいちゃしている二人を一瞥する。バカップルに見えるから胸がむかむかする。
「はしゃぐな。帰るぞ」
坂本は口元を歪曲させて「では老神さんにリアクションを再現してもらいましょう」と揶揄してきた。
「うざいし面倒だ。じゃあな」「怒ったか? ごめんごめん悪かったよ」
なら、故意に怒らせるような行為はやめろや。
昔、ぼくは弄られキャラではなかった。逆に仲間の先頭に立つような明るい性格の男子だった。根暗少年に成り下がったのはいつだっけ。確か小学五、六――
「おい老神」回想を中断する。
「お前はここを曲がるんだよな」
看板が外れかかったさび寂れた公園の正面で一旦立ち止まる。ブランコが微風で軋みながら揺れている。
「ちぃちゃんにこれを宜しく頼む」
坂本は慣れた手つきで鞄から便箋をぼくに渡す。ハートのシールがしつこい程貼ってありラブレターであることは一目瞭然だ。
『ちぃちゃん』とは一つ下の我が妹、老神智波留のことである。ぼくと違い名前が凝っていると最近気づいた。
特徴はツインテール。才色兼備のミラクル少女だ。二次元を現世に召喚した姿だとぼくは確信している。欠点は引きこもりの不登校ってことだ。
ぼくはラブレターを受け取ると、迷わず破り捨てた。
「何してくれてるんだこら」
「ちゃらついた男に妹はやれん。あと、馴れ馴れしい呼び方を止めろ」
「忌々しい頑固親父め……!」
当たり前だ。自慢の娘をどこぞの馬の骨にやる訳にはいかん。……この齢にしてパパの気持ちが理解できるとは。
「紙切れを渡すの百回はいったんじゃないか」
「いいや、これで百二十六回目だ」
数えているのかよ。……律儀を通り越して粘着質だ。
会話を打ち切って訊ねる。
「あれ、しーさんは?」「しーさんならあそこだ」
彼の指差す先に花壇に腰掛けるしーさんがいた。足をぶらつかせて、「おい老神、おい老神、おいおいがみがみ、おいおいおい」と独特の旋律で口ずさんでいた。そのフレーズ、気に入ったのか。
しーさんは思い出したかのようにぼくに笑顔を向ける。可愛いけどドキッとはしなかった。
「そういや、ちぃちゃんがメールで愚痴ってたよ。『兄者は受験生の自覚が足りない』って」
坂本が物凄い形相で話題に喰いつく。
「しーさん! ちぃちゃんのメルアド知ってるのか! 教えてくれ!」
「うるせぇ。そして、坂本に『ちぃちゃん』と呼ぶ権利はない」
「写真を見た時、ビビッ! って電流が走ったんだよ。この子こそ俺の運命の人だって思ったんだ」
んな事訊いてねぇよ。
「しーさん、坂本を」「了解」
しーさんがスカートに付着した土を払う。で、ファイティングポーズ。殴りますよ、と意思表示。坂本を制圧するまで三秒もかからなかった。敵に回すと厄介だが味方にするとイージス艦並みに心強い。
「……帰ろっか」「そうだな」「ああ……」
話のきりが良いところで解散となる。
しーさんは後ろ歩きしながら元気に手を振っている。自転車と衝突しそうになった時はヒヤリとさせられた。坂本は振り向かずに片手を上げるだけの淡白な挨拶。格好いい。家の鏡の前で練習してるんじゃないかと思う。やがて二人の影は街に溶けてなくなった。
さて、ぼくも帰ろう。
自宅は大通りからやや離れた複雑に入り組んだ住宅地の一画にある。
公園の角を右折しようとする。ところが、青のセダンが飛び出してくる。轢かれかけたけど間一髪で避ける。電信柱が死角を作っていて非常に危ない。道を覗き込むと今度は安全そうだった。
道端に転がっていた小石を蹴りながら歩く。
「自覚って言われても、ね」
頭を使うなとも言われているのに。矛盾してるぞ、発言に一貫性を持ちなさい。憤慨もどきをして抗議する。
ぼくの志望校はここ一番の学力を誇る高校だ。通知表に二と三しかないぼくだけど合格できるに違いない。担任のごぼう顔が真っ赤になって「舐めてんのか? 絶望しか待っとらんぞ!」ってわめいていたけど希望の聞き間違いだろう。
小石が排水溝にホールインワンする。よし。腰の横に握りこぶしをつくった。同時に足元の喪失感と心の虚無感を覚えた。ぼくは一体何をしてるんだ。
再び歩き出そうとしたとたん、不意に足が金縛りにあう。誰かがしがみついている。
「ん?」坂本達が悪戯しに来たなと思った。見ると、両腕の生えたぼろ饅頭だった。
「――っ!」まじかよ!
出会う事は無いだろうと侮っていた。こいつは永久に出番が無いと油断していた。
助けて! 舌が痺れて叫ぼうにも叫べない。ヘルプを要請する。ビートルズがぼくの脳内で歌いだす。
饅頭の腕ががっしりとぼくの右の太腿にくっついて離れない。細い腕のどこに力が隠されているんだ。抱きつく、というよりしがみついている。
生理的に受け付けない悪臭と得体の知れないモノが接触している事実に寒気がした。ぼくの人生、どう踏み違えたらこんな状況に陥るのか。
とりあえず自由な左足の踵で饅頭モンスターを全力で突き飛ばす。渾身の一撃だった。
饅頭が情けなく宙を舞う。あっさりと分離した。連鎖反応で饅頭の皮が剝げる。
この隙に走って逃げようと思ったが予想外の餡子に足が動かなくなる。
中身は少女だった。
ぼくと年はさして変わらないだろう。金髪碧眼でかなり可愛い。妹とどっこいどっこいで、いい勝負だ。
ぐったりとアスファルトに伏せている。少女の姿に言葉を失った。良い意味じゃなくて悪い意味で。
全身垢だらけ。髪はパサパサで唇はカサカサに乾燥している。おまけに異常な程痩せ細っていた。明らかに栄養失調だ。上品な服はすっかり汚れて所々破けている。
「おい、しっかりしろ」
慌てて駆け寄る。舌の呪縛は無くなっていた。臭いは気にしていられない。
弱りきった少女を全力で蹴ってしまった罪悪感で胸が苦しい。このままでは夜ぐっすり眠る事など出来やしない。罪滅ぼしに食事や風呂とかほどこ施してあげるか。でも、世間体もあるしなぁ。知らない怪しい人を助けるのもなぁ。第一、面倒くさい。
金髪少女は薄眼でぼくを見ている。目と目が合った。彼女は消え入りそうな蚊の羽音より小さい声で、すがってくる。流暢な日本語だった。
「お願い。……さん、助けてください」
この一言がぼくを決心させた。助ける事が自己満足ではないと確信を得た。迅速に動き出す。あー、面倒くさいなとうそぶ嘯いて自分を鼓舞する。『さん』ってなんだろう。暗号か?
金髪少女を抱きかかえる。インドア派のぼくですら持ち上げれるくらい軽かった。彼女の物らしきショルダーバックをからう。饅頭の皮は小蠅の陽動として放置しておいた。
よし行こう。目標は老神家だ。
地面を蹴って走る。運動神経がよくないから、走っても速度はあまり変わらないが。
人目に触れない裏道を選ぶ。多少遠回りになるが我慢する。一人でも誰かに見つかったらゲームオーバーだ、ぼくの人生が。
「あの中学生、少女を担いでどっか行ったぞ、ぐへへ」と邪推されるのだけはごめんだ。
伝説の傭兵も顔負けの潜入能力を発揮した。自動車のボンネットに小石を投げて路上で遊ぶ子どもの気を車に惹きつけたり、同級生を見かけた時は背後からしーさん秘伝の肘打ちを後頭部に食らわせて昏倒させたり。
やり過ぎではない。ぼくの名誉を守るためである。ぼくが女子をお姫様抱っこして家に駆けこむ姿を目撃されてみろ。ジ・エンドだ。人の口に戸は立てられぬ。
ぼくの通り名が「万年発情期」に決定する→噂が広まって街をまともに歩けなくなる→引きこもりのノイローゼになる→自室で人間ブランコを演じる。死への特急列車だ。
しーさんからは「近寄らないで変態。うちは歩に失望したよ」、坂本からは「よお。ファッキンモンキー。ちぃちゃんに手ぇ出してないだろうな、出してたら殺す」。坂本はどうでもいいや。
十分の任務の末、無事に自宅へ辿り着いた。息が上がるまで運動したのは久方ぶりだった。頭がくらくらする。