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『湿地の大地セレスティアへ』

大帝国の法において、皇子の婚姻は単なる祝典にとどまらない。それは「一人の皇族」から「領主」へと脱皮するための、厳格な儀礼であった。未婚のうちはどれほど聡明であろうとも、帝都の宮廷に囲われた「雛」に過ぎない。しかし、ひとたび妃を迎えれば親王の称号が授けられ、同時に自ら治めるべき広大な所領が与えられる。それは中央の庇護を離れ、過酷な政争の舞台へと立つ、文字通りの自立を意味していた。


その日、帝都の宮殿は歓声と祝福の鐘の音に包まれていた。


「本日より、そなたを『親王』へと封じる。これなるが、そなたの治めるべきアルヴェリア領の印章である」


玉座の間。威厳に満ちた皇帝の声が大理石の床に重々しく響き渡る。跪く第五皇子―――否、今日から親王となったイリアードは、拝領した重厚な金印を両手で受け止めた。その隣には、純白の婚礼衣装に身を包んだ、まだ緊張の色の抜けないうら若い妃・リゼリアが寄り添っている。


これまでは何をするにも皇帝の許しが必要だった。だが、この婚姻の儀を境に、彼は一国に匹敵する領地を支配する絶対的な権力者となる。同時にそれは、治世の成否によって次の帝位継承者としての器を試される試練の始まりでもあった。


「―――臣、謹んで拝命いたします。我が領民を慈しみ、帝国の東の盾としてこの命を捧げる所存です」


イリアードは力強く応じ、リゼリアへと視線を向けた。彼女もまた、小さく、しかし覚悟を秘めた瞳で頷き返す。


―――だが、若き新親王に与えられた「セレスティア領」の実態を、都の貴族たちは知っていた。そこは、華やかな帝都の貴族たちが誰一人見向きもしない、見渡す限りの広大な湿原地帯であった。農地としては泥深く、商業の要衝からも外れたその寒村が選ばれたのは、決して偶然ではない。


すべては、彼の生母である婕妤フレデリカが、あらかじめ皇帝へと涙ながらに懇願し、執念で勝ち取った「親子四人の安住の地」であった。


身分の低さを補って余りある美貌と聡明さで皇帝の寵愛を受けた彼女は、後宮という底なしの泥沼を誰よりも知り尽くしていた。一歩間違えれば、最愛の息子は有力な妃たちの嫉妬を買い、暗殺の標的になりかねない。だからこそ、彼女はあえて自らの故郷であり、最も価値が低いとされる不毛の泥地を息子の所領として望んだのだ。そして同時に自らも後宮の地位を捨て、息子の赴任に同行して宮廷を去る許しを皇帝から取り付けていた。


「あの泥地に、親子揃って引きこもるか。あやつらは完全に帝位争いから降りたのだな」


宮廷の政敵たちが冷笑する。だが、それこそが母親の狙い通りであった。


帝都を離れる前夜、荷出しの終わった静かな宮で、婕妤フレデリカは息子と、娘同然に育ててきた正妻リゼリア、側室セシリアの前に穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいた。


「母上。本当に、後宮を出て私と共に行かれるのですね。しかし、なぜあの湿地なのですか? 宮廷では、我ら親子が都落ちしたと皆が嘲笑しております」


若き親王の問いに、婕妤は優しく、しかし確固たる意志を宿した瞳で息子と妃たちを見つめ返した。


「我が子よ、親愛なる二人の妃よ。怒ってはなりません。権力の中心に近いということは、常に死と隣り合わせということ。価値のない土地だからこそ、誰もあなたたちから奪おうとはしないのです。あの湿地は、我が身を挺してでもあなたたちを守るための『盾』なのですから」


母は二人の妃の手をそっと重ね、諭すように言葉を続ける。


「あそこは私たちの故郷。確かに貧しく泥にまみれた場所ですが、都の毒に染まらぬ温かい人々がいます。私もこれからは一人の母として、あなたたちのそばで余生を過ごします。誰の目も気にすることなく、お前たちの国を創りなさい。生きて、生き延びること・・・・・・それだけが私の願いです」


すべてを捨てて自分たちと共に歩む道を選んだ母の深い愛と、激しい後宮を生き抜いた覚悟に触れ、イリアードは胸を熱くした。己を縛るための左遷だと思っていたものは、母が命がけで整えてくれた「家族の自由への切符」だったのだ。


翌朝、帝都の門の前には、数々の馬車と兵士からなる大行列が仕立てられた。華やかな宮廷生活との別れ、そして自らの領土への旅立ち。馬車に乗り込む間際、イリアードは振り返り、朝日に照らされる壮麗な皇宮を見上げた。


「行こう! 我らのセレスティアへ」


若き親王の号令とともに車輪が重々しく回り始める。彼らは新たな天地へと向かって、力強く歩み出した。

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