ピンク色の壁
SFです。
目覚めたとき、アサクは自室のベッドの上ではないと直感した。不快感があったからだ。睡眠時間がどれだけ短かろうが、前日の嫌なことを引きずったままであろうが、また悪夢を見ようが、翌朝不快感があることはない。ベッドに内蔵された睡眠制御装置が脳波をコントロールして、心地のいい目覚めを実現してくれるからだ。加えて、照明がピンク色を帯びていることにも違和感があった。起床するときの設定はいつも、柔らかな青い照明のはずだった。天文学的な確率かもしれないが、制御システムの故障だろうか。そう思いながら身体を動かそうとした瞬間、両手と両足を拘束されていることに気がついた。
起き上がることができず、自身の手足を見て確かめることが困難なため、どのような種類の拘束なのかわからない。手枷や足枷のような物理的拘束ではなく、麻酔のようなもので身体的自由を奪われている可能性もある。いずれにしても、手足をまったく動かすことができなかった。両足をまっすぐにそろえ、両手を身体の側面に密着した仰向けの状態になっている。
意識がはっきりとしてくるのにともなって、うめき声のような音が聞こえてきた。実際は、目覚めたときから聞こえていたのだが、夢うつつの状態だったがゆえに聞こえたもの、つまり気のせいだと思っていた。近くから聞こえてくるものもあるし、遠くからのものもある。うめき声が一か所からではないことで、気のせいではないと思い直した。とはいえ、うめき声の主は誰なのか、そもそも自分はなぜこんな状況に置かれているのか、まったくわからない。
しばらく時間が経ち、視界が次第にはっきりしてきた。周りにはモヤが立ち込めていて、ぼんやりと曇っている。しかし、今いる場所が室内なのか屋外なのかはわからない。また、見えるものすべてが薄暗いピンク色をしている。ピンク色の照明に照らされているのか、それともサングラスと同じような効果を生じさせるものが目の前にあるのかはわからなかった。
頭を少し左右に動かすことができ、下を向くこともできたため、可能な範囲で周囲を見わたす。すると、アサクの左右にも拘束されたと思しき者たちが仰向けになっているのがわかった。ひとりやふたりではない。アサクの隣にもうひとり、その隣にもうひとり、さらにその隣にもうひとりというように、十人以上の者が仰向けになっている。彼らはすべてアサクと同じく男性のように見えた。
うめき声は、彼らが放っていたものだった。すぐ隣の者と一瞬だけ目が合う。「教えてくれ、ここはどこだ!」アサクは大きな声を発したが、自分の耳に聞こえてきたのは、発したつもりの言葉ではなく、単なるうめき声だった。何度叫んでも結果は同じ。ここでは何かを発しても、すべてうめき声になることを知り、声を出すのをやめてしまう。
時間が経ち、目覚めてすぐのときよりもピンク色が濃くなっていた。数秒後、ブザーのような音が鳴り響く。頭のすぐ近くで鳴っている。スピーカーらしきものは見当たらないので、なにか特別な仕組みなのだろう。急き立てられるような類の音だ。十秒間ほどブザーが鳴ったあと、今度はベッドが次第に起き上がってくる感覚があった。横になった姿勢のままベッドが起き上がってくるため、アサクは次第に立った状態になっていく。
アサク以外の連中も同じ動きをしているのがわかる。そのとき初めてわかったが、仰向けになっていた者たちは思っていたよりもはるかに多く、数十人の単位だった。というのも、アサクを含めた全員が巨大な円の形に並んでいて、遠くのほうにも同じ状況の者たちが続いている光景が広がっていたからだ。また、誰の手足にも物理的な拘束は見られなかった。物理的な拘束以外の方法で手足を動かせないようにされているのだろう。さらには、ベッドもなかった。背中を支えているものは何もなく、ベッドがさも存在しているかのような感覚だけがあったということだ。
隣の者と目が合うが、そこから感情を読みとることはできない。困惑しているようにも見えるし、無感情のようにも見える。おそらくアサク自身も、相手には同じように映っているのだろう。周囲から「あ~」とか「う~」と、うめき声が聞こえてくる。「ここはどこだ!」無駄なことを承知でアサクはまた叫んだが、やはりきちんとした言葉にならず、うめき声が響く。直後、ピンク色がさらに濃くなったかと思うと、目の前にピンク色の壁がそびえ立っていることに気がついた。
ピンク色の壁に吸い寄せられるように勢いよく身体が近づく。ぶつかると思った瞬間、アサクは壁に両手をついた。手の拘束からは解放されていたようだ。足の拘束も解かれている感覚があった。周囲を見わたすと、見える範囲の全員がピンク色の壁に手をついている。アサクは、壁にぶつかると思ったため反射的に手が前に出たわけだが、ピンク色の壁はとても柔らかかった。少し硬めのマシュマロみたいな感触だ。また、立っている床もピンク色で壁と同じ素材でできているようだった。ふわふわしていて、しっかりと立つことができず、バランスをとりながら姿勢を保っている状況だ。ピンク色の床が、アサクの背後にどこまで広がっているのかわからない。二メートルほど先まではピンク色が認識できるが、その先は暗闇になっている。もしも暗闇に足を踏み入れてしまったら、深海の底に沈むがごとく落下してしまうかもしれない不安を抱いた。
周囲の者たちは誰も、壁に手をついた姿勢から動こうとしない。バランスを失うと背後の暗闇に落ちてしまうと思っているのだろう。アサクも同じだった。しかし、自分が置かれている状況を把握するために、背後に足を踏み出してみるのもひとつの方法だ。暗闇に落ちるかどうかはわからないし、また落ちたとしても、ここがどこであるかヒントをつかめるかもしれない。
意を決したアサクが背後に足を動かそうとした次の瞬間、心地いい音楽が流れ、壁に触れていた両手が温かくなる。きちんとしたメロディーがあるわけではなく、環境音楽に近い種類のようだった。懐かしくもあり刺激的でもあり、睡眠と覚醒の間の快楽に浸っているような感覚がある。加えて、温かくなった両手を伝って、心地よさが身体の内部にゆっくりと流れ込んでくる感覚があった。
気がつくとアサクは、ピンク色の柔らかい壁を両手で何度も捏ねていた。ときに揉み、ときに押し、ときにつかむ。一連の行動を外から見れば、壁をマッサージしているように映るだろう。アサクだけではなく、同じ境遇の連中もやはり壁を揉んだり、つかんだりしている。
アサクは、背後へと踏み出そうと決意したことをすっかり忘れてしまう。それほど壁の刺激に夢中になっている。壁を刺激せざるを得ず、ほかの選択肢は考えられない心境になっていた。
壁を刺激すればするほど、心地よさが両手を伝わり体内に入り込んでくる。ときどき壁は、刺激に応えるかのようにぷるぷると振動した。壁が振動したあとには必ず、両手が湿り気を帯びる。最初はアサク自身が汗をかいているのだと思った。しかし、どうやら湿り気は壁からの分泌物のようだった。
両手に湿り気を感じたとき、アサクの心地よさはさらに大きくなり、加えて全身が浮遊する感覚を得た。同時にじわじわと温かくなってくる。そのあとも何度か湿り気を感じ、身体の隅々まで心地よさが広がる。心地よさが大きくなるにつれて、自分がここにいる理由を考えることは無意味な気がしてくる。心地よさを得るために、ほかの連中とともに招集されただけのことと思い、それ以外のことはどうでもよくなっていった。
とはいえ、なぜこんなことをしているのだろうかという疑問が頭のなかに浮かんでくる瞬間もあった。また、壁への刺激はいったいいつまで続くのか、壁への刺激が終わったあとはどうなるのかも気になる。しかし、余計なことは考えず、壁を刺激することに集中するほうが、心地よさは確実に大きくなるように思えた。周囲の連中も、アサクと同じく夢中で壁を刺激している。うめき声は消え去り、行為に没頭しながらの荒い息づかいが聞こえてくるようになっていた。
突然壁が大きく揺れた。同時に床が波打ち、アサクたちは背後に広がる暗闇に滑り落ちそうになる。実際、アサクの視界から外れたところで、数名の者たちが滑り落ちたと思われ、悲鳴らしき音が断続的に聞こえてくる。「あ~~~!」高いところから落下していくような悲鳴だ。壁の揺れが数秒間続く間、アサクは、大きな地震をやり過ごす感じで身を強張らせ、同時に壁を両手で強くつかみ、柔らかい床を強く踏みしめていた。とはいえ、壁は湿り気を帯びていて滑りやすい。アサクが暗闇への落下を逃れたのは、壁をつかんでいたこととは無関係な気もした。落下していった者たちは、あらかじめそうなるようにプログラムされていたのかもしれない。
ほどなくして揺れがおさまり周囲はふたたび元の状態に戻る。アサクは、誰に指示されるわけでもなく、壁への刺激を再開する。そしてまた心地よさに包まれた。周囲の者たちも、これまでと同様に壁への刺激を繰り返している。そしてまたしばらく経ったあと、再び壁が揺れはじめた。前のときよりもはるかに大きな振幅で揺れている。床も激しく波打つ。アサクの右隣の者が立っていられなくなり背後に身体をそらした。同時に床が大きくうねり、右隣の者が暗闇に吸い込まれていった。「あ~~~!」という叫びが聞こえたが、決して断末魔の叫びではなかった。それどころか、恍惚の表情を浮かべながら満足しきった様子で落ちていくのを、アサクは確実に見た。右隣の者にいったい何が起こったのだろう。アサクは思ったが、いまだ揺れは続いていて、やり過ごすのに必死だった。遠くのほうから、やはり落ちていく者たちの叫びが聞こえてくる。彼らもまた、アサクの右隣の者のように、満足した様子で落ちていったのだろうか。
しばらくして揺れはおさまった。しかし微動は続いている。そしてまたはじまる壁への刺激。アサクは長時間にわたり壁を刺激しているが、なぜか疲労感はない。また時間の感覚もない。疲労を感じていないこともあり、最初にブザーが鳴り響いたときから、どのくらいの時間が経っているのか実感がない。数分のようにも思えるし、数日のようにも思える。
やがて、壁を刺激する行為に慣れてきて、周囲を冷静に見まわす余裕が出てきた。壁を刺激する両手を動かしたまま、ゆっくりと上空に視線を向ける。頭の上に広がる空間が、空なのかどうかはわからないが、やはりピンク色が広がっていた。はるか上方にも、アサクの周囲と同じようにモヤのようなものがかかっている。ただし、とても濃く、さしずめピンク色の雲のように見えた。
また、目の前の壁はとても大きな円柱の形状をしていて、その周囲をアサクと同じ状況に置かれた者たちが取り囲んでいる。そして、円柱の上部は曲線を描き中心に向けてカーブしているようだった。しかし、置かれている場所の形状がある程度わかったところで、いったい何の目的でこんな状況に置かれているのかは、依然としてわからない。
そしてまた大きな揺れがはじまる。三度目だった。二度目よりも激しく揺れている。加えて、ピンク色の雲らしきものがある上方から、奇妙な音が聞こえてきた。「はあ、はあ、はあ、う〜ん、ああん! あーッ!」最初は荒い息のようなものが続き、おさまったかと思うと、次に叫び声らしき音。そして最後は絶叫するかのような音。人間の声のようにも聞こえる。奇妙な音が聞こえている間もずっと、壁と床は揺れ続けている。次の瞬間、ひときわ大きなタテ揺れが、アサクたちを襲った。ほとんどの者は、立っていられなくなり暗闇のなかに落ちていく。アサクの両手が壁から離れ、もうダメだと思った次の瞬間にタテ揺れがおさまった。
アサクは暗闇に落ちていくのをどうにか回避できた。しかし、壁と床の振動は続いていていた。タテ揺れはおさまったが、ヨコ揺れはおさまる気配がない。少し落ち着きを取り戻したアサクが周囲を見わたすと、左隣の者がいなくなっていたばかりか、少なくとも目の届く範囲には誰もいなくなっていた。周辺の者たちはすべて、暗闇に落ちたに違いない。もしかしたら、はるか遠くのほうにまだ誰かいるのかもしれないが、確かめようがないし、確かめたところで仕方がないだろう。ここにきてアサクは強烈な孤独を感じていた。さっきまで周辺にいた者たちとは、何の面識もなく言葉をかわすことすらなかったが、壁を刺激するという同じ行為を続けていた不思議な一体感だけはあった。しかし、それがいまはまったくない。
はたしてこのまま、壁を刺激し続けることに意味があるのだろうか。自分もほかの者たちと同じく、暗闇に落ちていったほうがいいのではないか。アサクがそんな考えをめぐらせたとき、ヨコ揺れがおさまった。そしてまたアサクは、壁の刺激をはじめる。両手に湿り気を体感すると、壁を刺激せざるを得ないのだ。壁を刺激している間だけは、心地よさが全身を包み、直前まで感じていた孤独感もまったくなくなった。
「はあ、はあ、はあ、ああん!」またしてもあの音が上方から響いてきた。直前からはじまっていた微動がどんどんと激しくなり、アサクはまた身構える。壁のピンク色が、さらに濃くなっている。続いて、タテ揺れとヨコ揺れが同時に襲ってきた。これまでにないくらいの激しさで、壁と床が波打つ。トランポリンの上に立たされた状態で、振動面を激しく揺らされているようだ。もう立っていられない。右足が床から離れ、続いて左足も床から離れた。このまま暗闇に落ちていってしまうのだろう。
ところが、アサクが予想していた感覚とは別の感覚に襲われる。強風にあおられるがごとく、身体が高く浮き上がり、まるで背中をワイヤーで吊り下げられた曲芸師みたいに、ものすごいスピードで上方に舞い上がっていた。何が起こっているのかまったく理解できないまま、アサクは下に視線を向けた。これまで立っていた床は、大きな円形のピンク色をしている。また壁と思っていたものは、ドームのような形状の半球だった。アサクを含めて多くの者が、そのドームを取り囲み、目の前にあるドームの壁を刺激していたわけだ。壁を刺激していた目的が、いまもってわからないまま、今度はどこかに吹き飛ばされそうになっている。
元の世界に戻ることができるのだろうか。次第に離れていくドームを見ながらアサクは思う。そして、いまさらながら寝起きが不快だったことを思い出した。これまでのことはすべてプログラムのバグなのかもしれない。正常な状態に戻れば、元の世界に戻ることができるのではないだろうか。そう思う一方で、自分は元々どこにいて、どんな人たちに囲まれて、どんな仕事をしていたのかなど、思い出すことができなかった。そもそも眠る直前の記憶もない。壁を刺激するために生み出された存在なのかもしれないと考えたところで、足下に見えていたドームが小さくなり、やがて見えなくなる。そしてピンク色の雲に包まれたアサクは、眠りに落ちるがごとく、意識がなくなっていった。
「目が覚めましたか? 安心していいですよ。無事に終わりました」
ミミコは穏やかな女性の声で意識が戻った。採取係の女性がベッドの横に立っている。完全には目が覚めておらず、処置室に入るときに鳴った不快なブザーの音がいまだに耳の奥に残っている気がしていた。身体を起こそうとして気がついたが、まだ両足を広げた状態で横になっている。正確にいうと、ベッドではなく分娩台の上だった。ウエストのあたりに簡易的なカーテンがかけられ、下半身は何もつけていない。
卵子の採取を希望したミミコが、卵子採取機関である『未来のための受精ラボ』を訪れたのが約三十分前。はじめに十分程度の説明を受けたことを考えると、思っていたよりもスムーズに全工程を終えたことになる。ほとんどの女性は、二十歳を迎えた誕生日を目安に採取を希望するケースが多いが、ミミコは先週十七歳になったばかりだった。ミミコのように未成年の就学者であっても、親の同意があれば卵子採取は認められている。
「ウジバシさん、あと三分もすれば帰り支度ができますからね」
ミミコの耳に、採取係の女性の声が先ほどよりもクリアに聞こえる。意識が次第に戻りつつある証拠だった。鎮静薬の影響がなくなる間、来所するまでのことを振り返ってみる。数日前に母親と話し合ったが、十七歳でも決してはやすぎることはないというのが母親の考えだった。それよりも毎年いちど採取することのほうが大切だという。
また、卵子採取がはじまった理由や経緯は学校でも教えられていたが、採取前に改めて担当医師から受けた説明は、より現実味を帯びて理解できた。ミミコが当事者になったからだ。
いまから約六千年前、太陽の黒点数の著しい増加が原因で、放出される熱と光が弱まり、地球は何度目かの氷河期に突入する。そして赤道付近を除き氷に包まれてしまう。ほとんどの地域が年中氷点下の気温という、地球がこれまで経験したことがない大規模な氷河期だった。約五百年の間に、生物の三割が死滅したとデータベースには記録されている。そんななか人類は、金星への移住を決断する。太陽からの熱と光が弱くなったことにより、金星はかつてほどの灼熱惑星ではなくなっていた。希望を込めて、原始地球のような状況が発生していると主張する科学者もいた。
そして、入念な調査に約二百年あまりが費やされたすえ、移住計画が開始される。約百年かけて、人類と一部の動植物が移住するという壮大な計画だった。やがて、計画は実行に移されるが、移住が実際に進行していた間も、金星は、人類にとって住みやすい惑星につくり変えられていき、逆に地球は表面がすべて氷に覆われた惑星になっていった。結果、人類は快適な新天地を手にした。
ところが、最初の移住者が生活をはじめて約五十年を過ぎたあたりから、奇妙な現象が起きはじめる。地球から移住した男性たちが、原因不明の倦怠感を抱きながら死亡してしまうケースが相次いだのだ。金星で生まれた男性たちも同じだった。加えて、新生児の男の子の数が減少していき、やがては女の子しか生まれなくなる。その結果、移住から二百年も経つと、金星は女性だけの惑星となってしまう。最初の異変を問題視した当時の科学者たちは、移住計画自体を嘆くが、それと同時に、当時生存していた男性の精子を可能な限り採取し冷凍保存を実行した。
将来、科学がさらに進歩すれば問題を解決できるかもしれない。しかしそのとき、男性がおらず精子の存在がなくなれば、有性生殖が不可能になる。つまり、人類はまったく未知の領域に突入してしまう。その状況を避けるための精子保存だった。冷凍保存された精子の数は約二千京個。精子を採取された男性の数は公表されていないが、約三億三千万人といわれている。
ミミコがいる現在からみて、金星移住は約五千年以上も前の出来事である。ミミコは生まれてからいままで、過去の記録媒体のなかでしか男性を見たことがなかったし、すべての女性にとって、男性という概念を想像することすらできない。
今回、ミミコから採取された卵子と、AIが選んだ最適解の精子がマッチングする予定になっていた。しかし、子供が欲しいときがマッチングのタイミングといわれているため、時期はまだ未定だった。二十歳になってすぐに子供が欲しいと思う女性もいれば、自身の生活がある程度落ち着いてから、三十代になって子供を希望する女性もいる。体外受精が基本だが、受精卵を培養液のなかで成長させる〝体外成長〟を望む女性もいれば、受精卵を子宮内に注入して成長させる〝体内成長〟、つまり妊娠を望む女性もいる。いずれにしても、生まれた子供は、母親とその家族と社会全体で育てられることになる。
「子供はまだはやいって思ってたけど、今回受精を希望してもいいかもしれないな」そんなことを思いつつ、ミミコは服を着て担当の女医の前に座る。最後に形式的な面談が残っていた。
「ウジバシさんも知っているとおり、数年前までは、精子を提供した男性のプロフィールを卵子提供者には明らかにしていませんでした。意味がないと思われていましたし、卵子提供者からの要望もなかったから。でも、この半世紀の研究で、女性が事前に〝レンアイカンジョウ〟なるものを抱いたほうが、原始的な有性生殖、つまり交尾のときに排出される卵子と状態が近いものが採取できることがわかってきたの」
「わかるような気がします。ぜんぜん知らないより、少しでも相手のことを知っていたほうがいいですから」
「再度確認しておきますけど、AIが選んだ相手はアサク・デントン。データベースには、五千年ほど前に金星に移住したとあるわ。純粋な移住者というよりも、比較的初期の開拓者といったところかしら」
「そうなんですね。それにしても、初期の移住者のほとんどが男性だったなんて信じられないです。男性の存在自体がウソで、おとなたちが騙そうとしているんだなんて思ったこともありました。でも、今日実感できたんです。男性って本当に存在したんだって。鎮静夢に出てきたんですよ、そのアサクって人」
「それは興味深いわね。ほかの卵子提供者と同じように、アナタの場合も、処置中に特定の周波数の音波を流して、〝レンアイカンジョウ〟なるものが生じるといわれているプログラムが実行されていたの。ただし、頭のなかで心地いい環境音楽が響く気がするように設定されているだけで、物理的な像は見えないはずなんだけど。そういった報告もこれまでないわ」
「いいえ、私には見えました。初期の移住者は、私たちのために住みやすい金星をつくり上げてくれた人たちなんでしょ。男性と呼ばれていた者たちが尽力した結果、私たちは快適な生活ができている。数百人の仲間が命を落としていくなか、アサクだけは私のために最後まで働いてくれたんです」
「働いた?」
「あの、ここでの会話なんですけど……」
「もちろん誰にも口外しません。アナタのお母さんに話すこともありません」
「胸のあたりが温かくなって、それだけじゃなくて、えっと、乳首がとても気持ちよくなりました」
ミミコが顔を赤らめて恥ずかしがる様子を見て、女医はくすぐったいような気持ちになった。
「ねえ、ウジバシさん、アナタ、アサクという人の姿を本当に見たの?」
「はっきりと見たわけじゃないんですけど、アサクが私の乳首イメージから高く飛び上がったのを実感したんです。そのとき、最高の卵子が排出されたのかなって思っています。だから私、成人してから採取される卵子じゃなくて、今回の受精を希望すると思います。生まれてくる赤ちゃんに、あなたの〝オトウサン〟は、私に尽くしてくれた素敵な人だったって話しかけながら、あやす未来が見えました」
再び、ミミコが顔を赤らめる。
その姿を見た女医は、地球が氷に包まれる以前に流行したといわれているシネマのワンシーンを思い出した。それは、初期の移住者が地球から持ち込んだ貴重な映像のひとつだ。医学生時代に、〝レンアイカンジョウ〟がいかなるものか学ぶための授業のなかで鑑賞したシネマだった。ミミコの表情は、いわゆる教室という空間で、女性たちのグループが気になる男性の話に華を咲かせているときに見せていた表情とよく似ていた。
「わかったわ。でも受精の決定は、アナタのお母さんとしっかり話し合ったあとでね」
「ねえ、センセイ。生まれる赤ちゃんは、私とアサクの遺伝子を半分づつ受け継いでいるんですよね。つまり、赤ちゃんの半分はアサクです。私は、そこではじめてアサクと会えるんです」
ミミコは、簡単な事務書類にサインをして、ラボをあとにした。
現在、金星に住むすべての女性は、男性に対する感情といわれても実感できない。女医も同じで、〝レイアイカンジョウ〟についての授業は受けたが、知識として頭のなかに入っているだけだ。しかし、卵子採取後のウジバシ・ミミコは、アサクという男性に対して感情的なものを持っているように見えた。また、地球時代の古典が好きなだけかもしれないが、大昔の単語である〝オトウサン〟が自然と口から出てくることにも驚いた。
最近の若い女性に何らかの変化が起きようとしているのか、それともウジバシ・ミミコに限ったことか、女医にはわからない。しかし、いずれにしても、ウジバシ・ミミコは妊娠しての出産、つまり妊婦となることを選択するのは間違いないだろう。〈終〉




