恋のライバル
祐美恵は恋をしていた。というか、熱烈な恋愛中であった。彼女にとっては初めての恋愛である。祐美恵は26歳であるから、奥手といえば奥手のタイプであろう。
相手の男性とは、祐美恵が偶然に夕食のあとで行きつけたバーのカウンター席で隣に居合わせたのが、きっかけであった。彼は、須田順一郎と名乗った。何でも、都内大手貿易会社の重役を務めて、自宅も高層マンションの最上階だという。祐美恵は内心で少なからず驚いた。彼女といえば、小さなマンションで貧乏暮らしをしていたからだ。
しかし、順一郎の話は面白かった。歯に衣着せぬ話しぶりで、冗談を交えて祐美恵を笑わせながら彼女の知らない話題でさりげなく役に立つ知識を与えてくれる優しさには、彼独特の雰囲気があった。いつしか彼の話に引き込まれて、時の経つのも忘れて、カクテルで乾杯して別れる頃には、すでにもう次に会う約束までしていた。
翌週には、同じ曜日の同じ時刻に同じ店で落ち合った。今度も、順一郎は垢抜けたパリッとしたスーツでやって来ると、いきなり祐美恵に華やかな薔薇の花束をプレゼントして彼女を喜ばせた。最初、彼は何やら曰くありげな口ぶりで世間話していたが、ついに話に詰まったせいか、せきを切った勢いで話を打ち明けた。というのも、彼の会社で最近、事務職のポストに空きが出来たらしい。そこで、是非、君の人柄を買って、そのポストに就いて欲しいというのだ。
正直なところ、祐美恵は大きくショックを受けた。しばらくの間、彼女は黙っていた。何やら、考えているらしい。その間にも、順一郎は、給金も今の何倍にも増えるだろう、と言ってくれた。
しかし、しばらく考えたのちに、彼女は丁重に彼の申し出を断った。彼女は、極めて控えめな性格の女性であった。今の貧しい生活で充分に満足していたから多くは望まなかったのだ。
彼は、不思議な顔で彼女を見つめていたが、それ以上は何も言わずに話題を変えた。
バーに流れる音楽が、ダンスナンバーになった。軽快でリズミカルである。すると、自然な素振りで順一郎が、祐美恵をダンスに誘った。悪くない気分だった。祐美恵も自然に腰を浮かせると、彼に応じた。
バーのフロアは広かった。踊っている客も数人かいた。
甘く、切ないひとときであった。彼らは、再び時を忘れて、踊り続けた。いつしか、祐美恵の手は順一郎の肩に掛かり、彼の片腕は、彼女の腰に回されていた。
「楽しいかい?」
と、順一郎はさりげなく訊いた。
「ええ、素敵よ」
と、祐美恵もあどけなく答えた。
それからふたりは店を変えて飲み直し、出たのはもうとっくに深夜0時を過ぎていた。
「あたしみたいな女で、良かったかしら?」
と、祐美恵は、シーツで小さな乳房を隠しながら、隣の順一郎に訊いた。
「何言ってるんだい?君は最高だよ」
すると、祐美恵は本心から、
「嬉しいわ」
と答えた。すると順一郎は急に思いついたように、
「そうだ、今度の休みに箱根でも旅行に行かないか、僕の別荘があるんだ」
「あら素敵なお話しね。ぜひ、考えておくわ」
すると、そこで話を打ち切って順一郎はベッドを抜け出てシャワーを浴びに行った。残された祐美恵は、ベッドの上に、うっかりと順一郎が彼のスマホを置き忘れているのに気づいた。
誰も見ていない。
悪いことと思いながら、好奇心に負けて、ついに祐美恵はそのスマホを盗み見てしまった。
彼の会社の取引のメールが、ほとんどであった。忙しく役務を果たしていることを知った。
と同時に、彼が頻繁に、見知らぬ佐野順子なる女性と、頻繁に親密な内容のメールをやり取りしていることを知り、軽くショックを受けた。佐野順子、いったいどんな女性だろう?
高級ブティックの店内で、大きな鏡の前に立った佐野順子は、着ている赤いイブニングドレスをよく眺めてから、
「これ、いただくわ?」
と、言ってのけた。赤よね、性的アピールなら抜群かしら?彼が気に入ってくれたら嬉しいけれど。
彼とは、もちろん順一郎のことである。ある意味、順子は恋愛に一途な女性であった。ともすれば猪突猛進な所さえあった。しかし、そんな順子を順一郎は愛してくれていた。そして、彼女も彼の愛に応えようとしていた。
順子は、ドレスの入った紙バッグを提げると、店を出た。
これから彼とデートの約束があるのだ。こころがウキウキしていた。オレンジのルージュも引いてある。彼の気に入ってくれた口紅だ。自然と、足取りも軽くなっていた。
順一郎とは、街角のオープンカフェで落ち合った。順子は、しばらく彼と話し込んだあとで、やおら気にかかった様子で、
「ねえ、順ちゃん、最近、あたしと会う事、減ってきてない?」
と、直接に訊いた。
「そうかな?でも、君への気持ちは前から変わっていないよ」
「ならいいけど。..................、ねえ、今からホテル行かない?」
「どうしたんだい、急に?」
「いいから、さあ」
ベッドの中で、順子は激しく燃えた。それはまるで、順一郎との愛を必死になって確かめようとしていることに気づいた順子なのであった。
濡れたコンドームを捨てて、ベッドの上で背伸びをした順子は、
「ねえ、あなたのスマホ、見せてくれない?駄目かしら?」
「別にいいよ、ほら」
順子は、しばらくスマホをいじったあとで、
「ごめんなさい。あたしの思い過ごしだったみたい?ごめん」
部屋のルームエアコンが、静かな機械音を上げて鳴っていた..................。
それから数ヶ月して、祐美恵は順一郎の自家用車で箱根まで来ていた。東京からは、1時間少々の旅であったが、車内では血色の良さそうな順一郎が、元気よく彼女に現地の観光地やグルメ、特産品などを解説してくれて案外とあっという間に時間が過ぎ、車は小田原駅まで着いた。駅周辺は、何と言う変哲もないショッピングセンターや飲食街のある所である。ふたりは、そこの洋風レストランで、パスタメインの軽い昼食を取った。
そこからは、山道へと入る。このあたりから勾配がきつくなってきた。祐美恵は車内から、山道に立つ標識を覗き見た。「仙台原方面」とある。そんなに広い山道ではないが、相変わらずの上りや下り道の連続で、いつしか祐美恵は思いがけず尿意を覚えた。しまったと思ったが、仕方がない。そこで祐美恵は赤面しながら、正直に順一郎に説明し、車を停めてもらった。
「見ないでよ!」
と咎めるように言うと、順一郎は笑って車の窓を閉める。道路際で、しゃがみ込み、スカートをまくし上げて、パンティーをずらして用を足す。車に戻ると、順一郎が愉快そうにまだ笑っている。本当にもう。
車は山道を走り続ける。道の両側は、思う以上に整備されて樹木も綺麗に刈り込まれている。さすがに別荘地だわ。
やがて車は滑るようにして、1軒の大きなコテージ風の別荘に辿り着いた。順一郎に続いて祐美恵も降りる。
玄関に入ると、吹き抜けになっていて、丸い壁に沿って回り階段がついている。赤い絨毯を踏みしめながら、順一郎はドカリとソファに沈み込んだ。
「何か飲みたけりゃ、奥の冷蔵庫に入れてある。好きにどうぞ」
「ありがとう、またいただくわ」
「僕は車で疲れたよ、少し横になってくる」
そう言って、順一郎は二階へ上がってしまった。
仕方なく、祐美恵は、その間、家の中をあちこちと散策したり、家の周りの広い日本庭園を散歩したりして時間を潰した。
起きてきた順一郎と一緒に、午後は、箱根の小旅行に出た。
小田原城、箱根神社、芦ノ湖、美術館巡りと駆け足のようにして回り、夕暮れ過ぎにようやく別荘まで戻ってきた。
夕食は、順一郎の手料理であった。鱈のムニエルやラムのステーキ料理、ホタテ貝のスープとロゼのワインで、祐美恵はほんのりと頬を染めた。そんな祐美恵をジッと順一郎は見つめていた。
夜は、ベッドをともにして眠り、ウトウトしながら祐美恵は今日の想い出を噛みしめるように思い出しては、いつしか眠り込んでいたのであった。
翌日は、車で、右に相模湾を眺めながら、国道沿いに東京まで戻った。祐美恵は、別れ際に彼に何度も礼を言い、丁寧に別れた。
その日は、順子とも会う約束をしていた。車を走らせて、約束のホテルまで向かう。車は、六本木にある高級ホテルの地下駐車場に入った。順子は、駐車場の柱にもたれて、細いタバコを吹かしながら、ベージュのコートを着込んで待ちわびていた。
「遅かったのね?」
彼女の口ぶりには、どこか彼をなじるような様子が窺えた。
「ごめん、ごめん。ちょっと用事があってね?」
順子が車に乗り込んできた。そして、彼女は、しばらくキョロキョロとしていたが、やがて眼を細めて順一郎を見つめると、
「あなた、あたしの他に、別の女が出来たでしょ?違う?」
と咎めるように訊いてきた。
「どうしたんだい?突然に?」
「とぼけても無駄よ。前から怪しいとは感づいていたけど、この車の香水の匂いで決まりね。さあ、誰よ、どこの誰よ、言いなさいよ」
順一郎は観念した。そこで、正直に祐美恵のことを話して聞かせ、順子に理解を求めた。
「無駄よ。今日は、あたしこれで帰るわ。でも、これで終わった訳じゃないわよ、いい?」
そう言い残すと、車の扉をバタンと閉めて姿を消した。しばらく順一郎は、その暗い駐車場でボンヤリと物思いに耽って時を過ごしていた。
「おい、須田、どうした?顔色が優れんぞ、どこか具合でも悪いのか?」
と、肩を叩かれて、順一郎は我に返った。振り向くと、同僚の島田だった。
「いや、どうってことないさ。ちょっと考え込んでさ?」
島田は、社内でも目立つほどの肥満で、赤ら顔に禿げ頭だ。でも、人柄は良く、部下の面倒見も良く、信頼は厚かった。
「何だよ、水臭いな、何か悩みごとがあるなら、俺に任せろよ?何とかしてやるぜ」
「ありがとう。恩に着るよ。また困るようなら相談するよ?」
「飲みに行って話聞かせろよ、じゃあな」
しかし、それから順一郎は仕事にミスが目立つようになった。彼は重役だから、役務用の個室を与えられていたが、徐々にミスは大きくなっていった。
「あら、元気ないわね?どうかしたの?」
オープンカフェで出会うなり、順一郎の様子を見て、心配そうに小声で祐美恵は尋ねた。
「悪い、悪い。今日はコンサートに行く約束だったね?まだ時間、間に合うかい?」
「ええ、午後2時30分開演だから大丈夫よ、本当に大丈夫?」
「ははははっ、面白いな、そんなに深刻な顔したら、せっかくのべっぴんが台無しだぜ」
すると、祐美恵が声を落として、
「もしかして、順子さんのことなの?あたし、知ってるわよ」
「君が?抜け目ないなあ」
順一郎は驚いているようだった。
「そうなんだ。順子のことでー」
「あら、あたしのこと?」
と、ふたりの背後で声がした。
驚いたふたりが振り向くと、オープンカフェのそばの舗道で、順子が二人を見下すように、ぐっと両腕を組んで立っていた。
「あら、あなたが順子さんなの?」
と祐美恵が尋ねたが、それを無視して順子は順一郎を向いて、
「あたし、今から友だちとドライブ行く所なの。あなたもお楽しみの所ね?」
「とか言って、俺の車を尾けてきたな?お前」
「悪い?実は、ひと目、ふたりの仲を見たくなってね、あなたね、祐美恵さんって。まあ案外の人で良かったわ。じゃあ、またね」
そう言い残すと、順子は車で去っていった。
済まなさそうに順一郎が言った。
「せっかくの所を悪かったね。でも、君、僕と順子の仲を知ってて何とも言わなかったね?どうしてだい?」
すると祐美恵は澄ました顔で、
「あたし、女のことぐらいでヤキモチ焼く女性じゃないの。だから安心して」
「それを訊いて安心したよ、じゃあ気を取り直して、どこかで飲み直すかい?」
「ええ、付き合うわ」
それからひと月が経った。祐美恵は、小さなマンションで、相変わらず貧しい暮らしを送っていた。それでも、勤め先の商事会社では、事務員として仕事にコツコツと精を出して頑張っていた。社内でも彼女の評判は良かったが、順一郎のことは誰にも伏せておいた。
それでも、彼とのデートは彼女の大きな楽しみであった。祐美恵は、部屋の壁に掛けたカレンダーのデートの日に、二重丸をつけておいた。そして、やがてその日がやって来た。
祐美恵は、彼女の一番のお気に入りのイブニングドレスを身につけると、デートに出かけた。
場所は、最初に彼らが出会ったバーのカウンター席であった。早く着いた祐美恵は、辛抱強く彼を待った。やがて約束の時刻から少し遅れて、順一郎がやって来た。彼は、ことのほか、陽気な様子で現れたので、祐美恵は少々驚いた。
「やあ、待たせたね。悪い。ちょっと用事があってね」
「今日は何だか妙に明るいわね、どうしたの?会社で昇進でもしたの?」
「ははっ、その逆だよ。ついひと月ほど前に、今の会社クビになってね、今や気楽なものさ」
「あら、まあ」
「大きなミスをやらかしてね、仕方ないさ。で、急いで安いマンションを借りて、勤め先は、系列の会社に拾ってもらって何とか課長にしてもらえたよ、ね、笑えるだろ?」
「うん、でも何だか前よりあたしと親しくなったような気がして、正直、嬉しいわよ」
「それで僕も安心できるよ、良かった」
「でも、順一郎さん」
と祐美恵が詰め寄るように、
「何であたしを選んだの?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ほら、会社を首になったって言ったろう。そしたら、順子のほうから自然と離れていったよ、金の切れ目が縁の切れ目っていうかさ。彼女って、そういうタイプの女性なんだな。
でも、これで綺麗さっぱりしたよ。それで、最近、機嫌がいいんだ」
「そうね、あなたにとってはこの方が良かった訳ね。あたしも嬉しい」
順一郎は席を立つと、
「どうだい?今日の記念に、どこかで飲み直そうよ?どう?」
「いいわね、それじゃあ、あたしの知ってる地下のカクテルバーがあるから、そこでじっくりと飲み明かしましょう!」
「よしきた!」
ふたりは店を出ていった。残された店内のカウンター席には、ふたつの洋酒のグラスが、仲良く並んでいるのであった..................。




