第9話「真実の輪郭」
「弟の背後に、誰かいる」
ハンスがその噂を持ってきたのは、晩餐会から三日後のことだった。
エドワード第一王子が、調査を始めている。アルヴィン殿下がどうやってセレスティナの不正を暴いたのか。誰が情報を集めたのか。
私は離れの窓辺に立ち、その報告を聞いていた。
「殿下は、どこまで調べているのですか」
「まだ初期段階のようです。ですが、時間の問題かと」
時間の問題。
私の存在が、エドワード殿下に知られるのも。
「ハンス。姉の様子は」
「ヴィオレッタ様は、晩餐会以来、お部屋に籠もりがちです。セレスティナ様の一件で、衝撃を受けていらっしゃるようで」
姉も、あの場にいた。聖女だと信じていた女が、実は詐欺師だったと知った。その衝撃は、小さくないはずだ。
「分かった。下がっていい」
「畏まりました」
ハンスが去った後、私は窓の外を見つめた。
影として生きる。それが私の選んだ道だった。けれど今、その道に限界が見え始めていた。
翌日、アルヴィン殿下から呼び出しがあった。
王都の外れにある屋敷。殿下の秘密の拠点。私はハンスの手引きで公爵邸を抜け出し、その場所へ向かった。
「来たか」
殿下は書斎で待っていた。いつもと変わらぬ姿。けれど、その目には真剣な光があった。
「殿下。お呼びでしょうか」
私は頭を下げた。
「エドワード兄上が動いている。知っているな」
「はい」
「俺の情報源を探っている。いずれ、お前にたどり着く」
私は黙って頷いた。分かっていたことだ。
「提案がある」
殿下が椅子から立ち上がった。私の前に歩み寄り、立ち止まる。
「俺の側近として、表に出ろ」
私は顔を上げた。
「表に、ですか」
「ああ。お前の正体は隠したままでいい。だが、俺の協力者として、公に認められた立場を持て。そうすれば、兄上が調べても、俺の側近としてしか見えない」
側近。王族の名代として振る舞う権限と義務を持つ立場。
「殿下。私は、存在しない人間です。公式には死産として届けられた。表に出れば——」
「身分は俺が与える」
殿下の声は、静かだった。けれど、その静けさには揺るぎない決意があった。
「王族には、身分を問わず側近を任命する権限がある。お前が誰であろうと、俺がお前を側近に任命すれば、それが正式な身分になる」
私は言葉を失った。
表に出る。影ではなく、光の中に立つ。それは、私が避けてきた道だ。
「……考えさせてください」
「時間はない」
「分かっています。けれど——」
私は殿下の目を見た。
「姉に、真実を話すべきかどうか。それを考えたいのです」
殿下の眉が、わずかに動いた。
「ヴィオレッタ嬢に、お前の存在を明かすのか」
「分かりません。まだ。けれど、このまま隠し続けることが正しいのかどうか」
沈黙が落ちた。
殿下は私を見つめている。その目に、何かが揺れていた。
「お前は、優しいな」
「殿下」
「姉を守るために、自分を消そうとしている。けれど同時に、姉に嘘をつき続けることに罪悪感を感じている」
私は答えなかった。答えられなかった。
「俺には分からない。お前がどうすべきか。だが、一つだけ言える」
殿下が私の目を見た。
「お前が決めたことは、俺が守る」
その言葉に、胸が震えた。
殿下が私を守ると言っている。存在しない人間である私を。影として生きてきた私を。
「殿下」
「何だ」
「なぜ、そこまで」
「理由が必要か」
殿下の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「お前は、本物だ。政治的な能力だけじゃない。お前という人間が。だから、俺は——」
殿下が言葉を切った。それから、視線を逸らした。
「とにかく、考えろ。答えは急がない。だが、いつまでも待てるわけでもない」
私は頷いた。
離れに戻ったのは、夕方だった。
私は机に向かい、羽根ペンを手に取った。けれど、書くべき言葉が見つからなかった。
姉に真実を話すべきか。
私が双子の妹であること。ずっと離れに隠されていたこと。助言書を書いていたのが私であること。
全てを明かせば、姉はどう思うだろう。
姉のこれまでの功績が、実は私の知識に支えられていたと知れば。自分の力ではなかったと知れば。
姉は傷つくだろう。自分を偽っていたと感じるかもしれない。
けれど、このまま隠し続けることも、もう限界だった。エドワード殿下が調査を続ければ、いずれ真実は明るみに出る。そうなる前に、私から話すべきではないか。
私は窓の外を見た。
アルヴィン殿下の言葉が、頭の中で響いていた。
「お前が決めたことは、俺が守る」
殿下は、私を信じてくれている。私の能力を。私という人間を。
影として生きてきた私を、光の中に連れ出そうとしてくれている。
私は——。
「リーネ様」
ハンスの声が、思考を中断させた。
「何」
「ヴィオレッタ様が、本邸の侍女を問い詰めていらっしゃるようです」
私は振り返った。
「何を」
「助言書のことを。差出人不明の書簡が、どこから届いているのかを」
心臓が跳ねた。
「侍女は、何と」
「知らないと答えたようです。ですが、ヴィオレッタ様は納得していらっしゃらない。筆跡を調べると、おっしゃっているとか」
筆跡。
私の筆跡を、姉が調べようとしている。
「姉は、気づいているのか」
「おそらくは。助言書の筆跡と、何かを照合しようとしているのかと」
何か。それは何だろう。私は姉に手紙を書いたことはない。けれど——。
「ハンス。離れには、私の書いたものが残っているか」
「……はい。リーネ様が幼い頃に書かれた、練習用の紙が」
私は目を閉じた。
姉がそれを見つければ、全てが分かる。助言書の筆跡と、私の筆跡が一致することが。
「姉は、いつ離れに来るか分からないか」
「分かりかねます」
時間がない。
私は立ち上がった。
「ハンス。姉に、伝言を届けてくれ」
「伝言、でございますか」
「ああ。私から会いたいと。話したいことがあると」
逃げることはできない。もう、隠し続けることもできない。
ならば、私から真実を話す。姉に全てを明かす。
それが、正しいかどうかは分からない。けれど、今の私にできるのは、それだけだった。




