第5話「王子の疑念」
デビューから三ヶ月が経った。
姉は助言書を活用し続けている。差出人不明の書簡を不審に思わなかったはずはない。けれど姉は、それを自分の武器として使うことを選んだ。
姉の評価は着実に上がっている。私の計画は順調に進んでいるはずだった。
「見つけた」
その声が聞こえたのは、離れの裏庭だった。
私は振り返った。木立の向こうに、黒髪の男が立っていた。王族の正装ではない。質素な外套を羽織り、従者も連れていない。
アルヴィン第二王子。
夜会で言葉を交わして以来、二ヶ月ぶりの再会だった。
「殿下」
私は膝を折り、深く頭を下げた。
「なぜ、ここに」
「お前を探していた」
殿下は木立を抜け、私の前に立った。近衛騎士の姿はない。本当に一人で来たらしい。
「ずいぶん苦労した。公爵邸の離れに、公式には存在しない人間が住んでいる。その情報を掴むのに、一ヶ月かかった」
私は顔を上げられなかった。アルヴィン殿下の視線が、頭上から降り注いでいるのを感じた。
「顔を上げろ」
命令だった。私は従うしかない。
殿下の青い瞳が、私を捉えていた。夜会の時と同じ。観察し、分析し、値踏みする目。けれど今日は、そこに別の何かが混じっていた。
「助言書の出所を突き止めた」
心臓が止まるかと思った。
「ヴィオレッタ嬢に届いている匿名の書簡。政治、外交、各家の力関係。あの知識は、どこから来ているのかと思っていた」
殿下が一歩近づいた。
「答えは、ここにあった」
私は何も言えなかった。否定しても無駄だ。この人は既に全てを知っている。
「お前は何者だ。公爵家の隠し子か。それとも——」
「殿下」
私は遮った。無礼だと分かっていた。けれど、これ以上踏み込まれるわけにはいかなかった。
「私が何者であるかは、重要ではありません」
「重要ではない?」
「はい。私は姉を——ヴィオレッタ様を守りたいだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
沈黙が落ちた。
殿下は私を見つめている。その目に、わずかな変化があった。興味が、深まっている。
「姉、か」
「……失言でした」
「いや。確認が取れた」
殿下の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「公爵家の双子の妹。公式には死産として届けられた。だが、実際には生きていて、この離れに隠されていた」
私は答えなかった。答える必要もなかった。
「なぜ、姉を守ろうとする。お前を捨てた家のために」
その問いに、私は少しだけ迷った。
「姉は、何も知りません。私の存在を。私が捨てられたことを。姉に罪はない」
「だから守る?」
「はい」
「自分を消してまで?」
私は殿下の目を見た。
「それが、私の選んだ道です」
沈黙が流れた。殿下は私を見つめている。その目に、何かが揺れていた。
「面白い」
殿下が呟いた。
「お前は本物の天才だ。あの助言書を読めば分かる。政治的洞察、情報の整理、未来予測。全てが的確だ」
私は何も言わなかった。
「それを、姉の功績として差し出している。自分は影に徹して。なぜだ」
「理由は申し上げました」
「それだけか?」
殿下が一歩近づいた。私は後退しなかった。
「お前には、別の目的があるはずだ。姉を守るだけなら、もっと楽な方法がある。なのに、わざわざ自分を消す道を選んでいる」
この人は、どこまで見抜いているのだろう。
「殿下は、私に何を求めていらっしゃるのですか」
「取引だ」
殿下の目が、真剣なものに変わった。
「俺に協力しろ。お前の能力を、俺のために使え」
「……何のために」
「王位だ」
私は息を詰めた。
「俺は、この国を変えたい。腐敗した宮廷を、内側から。そのために、王位が必要だ」
放蕩者を装う第二王子。無能を演じ、宮廷で存在感を消している男。
その男が、王位を狙っている。
「殿下には、第一王子という兄君がいらっしゃいます」
「兄上は優秀だ。だが、人を見る目がない。セレスティナのような女に惑わされる」
セレスティナ。その名前に、私の心が反応した。
「殿下は、セレスティナを——」
「知っている。あの女が何者か。何を狙っているか。聖女の仮面の下に、何があるか」
殿下の目に、冷たい光が宿った。
「俺には諜報網がある。密かに構築した、独自の情報網だ。セレスティナの過去も、聖女認定の不正も、全て掴んでいる」
不正。
その言葉に、私は反応した。
「聖女認定に、不正があったのですか」
「ああ。神殿への賄賂だ。没落男爵家が、どこからその金を用意したのか。そこまで調べはついている」
証拠がある。
セレスティナを追い落とす証拠が、この人の手にある。
「殿下。その証拠を——」
「欲しいか」
私は言葉を飲み込んだ。
「取引だ。俺に協力すれば、お前の正体は守る。そして、セレスティナの証拠も渡す」
協力。この人の野望に、巻き込まれるということ。
けれど、証拠があれば——。
「考える時間をやる。だが、あまり長くは待てない」
殿下が踵を返した。
「セレスティナは動いている。お前の姉に対する讒言を、既に始めている」
私は顔を上げた。
「何を」
「エドワード兄上に、こう吹き込んでいる。『ヴィオレッタ様の急激な変化は、不自然ではありませんか』と」
姉に対する讒言。それは、前世でも同じだった。少しずつ、確実に、エドワード殿下の心を離していく。
「時間がない。お前も分かっているはずだ」
殿下が肩越しに私を見た。
「俺の申し出を、考えておけ」
その言葉を残して、アルヴィン殿下は木立の向こうへ消えていった。
私は裏庭に立ち尽くしていた。
取引。協力。証拠。
アルヴィン殿下の言葉が、頭の中で渦巻いている。
あの人を信用していいのか。分からない。けれど、証拠があるのは事実だ。セレスティナを追い落とす手段が、目の前にある。
そして、姉に対する讒言は既に始まっている。
私は空を見上げた。曇り空。太陽は見えない。
影として生きる。それが私の選んだ道だった。
けれど今、別の道が示されている。アルヴィン殿下の隣に立つという道。光の中に出るという道。
どちらを選ぶべきか。
分からない。まだ、分からない。
けれど、時間がないことだけは確かだった。




