第3話「見抜く者」
「待て」
その声に、私は足を止めた。
夜会の広間を抜け、使用人用の通路に入ったところだった。人気のない廊下。蝋燭の灯りが、壁に揺れる影を作っている。
振り返ると、アルヴィン第二王子が立っていた。
「殿下」
私は深く頭を下げた。膝を折り、視線を床に落とす。王族に対する使用人の礼。
「顔を上げろ」
命令だった。私は従うしかない。
顔を上げると、アルヴィン殿下の青い瞳が私を捉えていた。先ほどの広間で感じた視線と同じ。観察し、分析し、値踏みする目。
「先ほどから気になっていた。お前、本当に使用人か」
「はい、殿下。グラティア公爵家にお仕えしております」
「嘘だな」
私は息を詰めた。
「使用人は主人の動向を把握している。だが、主人を観察はしない。お前がしていたのは観察だ。それも、ヴィオレッタ嬢だけでなく、セレスティナ嬢まで」
この人は、あの短い時間で、私の視線の動きまで追っていたのか。
「恐れながら、殿下のお見間違いかと存じます」
「見間違いではない。俺の目は確かだ」
アルヴィン殿下が一歩近づいた。私は後退しなかった。ここで逃げれば、余計に怪しまれる。
「公爵家の使用人にしては、目が違う。立ち方も違う。それに——」
殿下の視線が、私の顔をなぞった。
「顔立ちがヴィオレッタ嬢に似ている」
心臓が跳ねた。
「公爵家には、表に出ていない人間がいるのか。隠し子か。それとも——」
「殿下」
私は遮った。無礼だと分かっていたが、これ以上踏み込まれるわけにはいかなかった。
「私は、ただの使用人でございます。お嬢様に似ているとおっしゃるなら、それは光栄なことですが、私には身に覚えがございません」
沈黙が落ちた。
アルヴィン殿下は私を見つめている。その目には、確信があった。私の言葉を信じていない。けれど、それ以上追及するつもりもないようだった。
「面白い」
殿下が呟いた。
「お前が何者か、俺は知らない。だが、ただの使用人でないことは確かだ」
私は答えなかった。答えようがなかった。
「いいだろう。今は見逃してやる」
殿下が踵を返しかけた。けれど、すぐに立ち止まり、肩越しに私を見た。
「だが、覚えておけ。俺はお前を見つけた。これからも見ている」
その言葉を残して、アルヴィン殿下は廊下の向こうへ消えていった。
私は壁に手をついて、呼吸を整えた。
見抜かれた。
完全にではない。私が「双子の妹」だとまでは気づかれていない。けれど、「公爵家の隠し子」という推測は、真実にかなり近い。
アルヴィン第二王子。
放蕩者を装っているが、あの観察眼は本物だ。私の動きを、視線を、顔立ちまで分析していた。あれほど短い時間で、あれほど正確に。
危険な人物だ。
けれど同時に、疑問も浮かぶ。なぜ、放蕩者を装う必要があるのか。あれほどの観察眼を持ちながら、なぜ宮廷で存在感を消しているのか。
考えても答えは出ない。今は、姉のことを優先しなければ。
私は使用人用の通路を抜け、屋敷の裏手へ向かった。ハンスが待っているはずだ。
離れに戻ると、ハンスが扉の前で待っていた。
「リーネ様。お戻りなさいませ」
「ただいま」
私は部屋に入り、使用人の装束を脱いだ。ハンスが用意してくれた普段着に着替える。
「首尾はいかがでしたか」
「姉の弱点は把握できた」
私は机に向かい、紙を広げた。
「政治知識が足りない。外交の基礎も、各家の力関係も理解していない。社交術は完璧だが、踏み込んだ会話になると対応できなくなる」
「それは……お嬢様の教育係の責任かと」
「教育係のせいではない。公爵家の令嬢に、政治を教える習慣がないだけだ」
私は羽根ペンを取った。
「これから、姉に必要な知識をまとめる。問題は、どうやって届けるか」
「リーネ様が直接お会いになるのは——」
「できない。私は存在しない人間だ」
ハンスは黙った。その沈黙の中に、苦渋があった。
「だから、別の方法を考える。匿名の助言書として届ける。誰が書いたか分からない形で」
「それは……」
「ハンス。あなたなら、姉の部屋に書類を届けることは可能か」
ハンスは数秒、考え込んだ。
「私が直接届けることは難しゅうございます。ですが、本邸の侍女に頼むことはできます。『差出人不明の書簡が届いた』という形であれば」
「それでいい」
私は頷いた。
「姉が受け入れるかどうかは分からない。けれど、試す価値はある」
私は紙に向かった。まず、東部領の関税問題について。侯爵夫人が質問していた内容だ。姉が答えられなかったあの質問に、どう答えるべきだったか。
羽根ペンが紙の上を走る。五年分の記憶が、知識が、指先から流れ出ていく。
これは姉のためだ。姉を守るためだ。
けれど、心のどこかで、別の声が囁いていた。
本当に、姉のためだけか。
私は首を振った。今は考えない。考えている暇はない。
セレスティナは既に動き始めている。姉が政治的会話に弱いことは、あの女も気づいているはずだ。そこを突いてくる。五年後の断罪に向けて、少しずつ、確実に。
負けない。
今度こそ、負けない。
夜が更けても、私は書き続けた。
蝋燭の灯りが揺れる中、羽根ペンを走らせる。政治、外交、各家の力関係。王家の派閥。貴族間の婚姻関係。商家との利害。
全てを書き記す。姉が必要とするであろう、全ての知識を。
アルヴィン殿下の言葉が、頭の隅に残っていた。
「俺はお前を見つけた。これからも見ている」
あの人は、何を考えているのだろう。なぜ私に興味を持ったのか。単なる好奇心か、それとも別の目的があるのか。
分からない。けれど、今は考えない。
私の目的は一つ。姉を守ること。
そのために、影として動く。姉の弱点を補い、姉が避けるべき罠を示し、姉が握るべき機会を作る。
全て、姉の功績として。
私は紙に向かい続けた。窓の外が白み始めるまで、ペンを止めなかった。




