第2話「仮面の夜会」
シャンデリアの灯りが、広間を金色に染めていた。
私は給仕の列に紛れ、壁際を歩いた。ハンスが手配してくれた使用人の装束は地味で、誰の目にも留まらない。それでいい。今夜の私は、影でなければならない。
姉の社交界デビュー当日。一ヶ月の準備期間は短かった。体力をつけ、離れから本邸への抜け道を確認し、使用人たちの顔と名前を覚えた。ハンスの協力がなければ、ここまで来ることはできなかった。
広間の中央に、人だかりができていた。
姉がいる。
ヴィオレッタ・グラティア。公爵家の嫡女にして、今夜の主役。淡い紫のドレスが、シャンデリアの光を受けて輝いている。
美しい。
私は——かつての私は、あのように笑えていただろうか。社交界の華として、誰からも羨望の眼差しを向けられる存在。それが姉の、そして過去の私の立場だった。
「ヴィオレッタ様、本日のドレスもお似合いですわ」
「まあ、ありがとうございます」
姉が微笑む。完璧な角度。完璧な声音。けれど、私にはわかる。あの笑顔の奥に、緊張がある。
侯爵夫人が話しかけた。
「先日の議会で、東部領の関税について議論がありましたでしょう。ヴィオレッタ様はどのようにお考えで?」
姉の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「わたくしは……そうですわね、父が適切に判断してくださると信じておりますわ」
曖昧な返答。侯爵夫人の目に、かすかな失望が浮かんだ。
やはり、そうだ。
姉は美しい。気品もある。けれど、政治的な会話には対応できていない。公爵家の令嬢として、王太子の婚約者として、それは致命的な弱点だった。
私はその場を離れ、広間の反対側へ移動した。
人垣の向こうに、見覚えのある姿があった。
セレスティナ・ヴェルト。
男爵令嬢でありながら、「聖女の兆し」を認定されて宮廷に招かれた女。控えめな白いドレス。伏し目がちな瞳。清楚で儚げな佇まい。
だが、私は知っている。あの仮面の下に何があるかを。
「セレスティナ様は、貧しい人々への施しを続けていらっしゃるとか」
「いいえ、わたくしなど……ただ、できることをしているだけですわ」
周囲の貴婦人たちが感嘆の声を上げる。セレスティナは恥ずかしそうに俯いた。
計算された謙虚さ。完璧な演技。
五年後、この女は姉を——私を追い落とす。讒言と策略で、「悪役令嬢」の汚名を着せて。
まだ動き出したばかり。けれど、もう宮廷に入り込んでいる。
予想より早い。
私は姉の様子を観察しながら、夜会の流れを追った。姉が誰と話し、どのような反応をされているか。どこで言葉に詰まり、どこで切り抜けているか。
必要な「教育内容」が、少しずつ見えてきた。
政治知識。外交の基礎。各家の力関係と利害。それらを姉に伝えなければならない。ただし、姉自身の功績として。
広間の隅で、私は壁に背をつけて息をついた。
一時間以上、動き続けていた。この体はまだ弱い。足が重い。
「珍しい目をしている」
声がした。
私は反射的に顔を上げた。
男が立っていた。黒髪に、深い青の瞳。王族の正装を纏っているが、どこか崩した着こなし。
アルヴィン第二王子。
心臓が跳ねた。
前世でも、この人物のことはほとんど知らなかった。放蕩者として有名で、宮廷での存在感は薄かった。第一王子エドワードの影に隠れ、政治の表舞台には出てこない人物。
なぜ、私に声をかける。
「殿下」
私は深く頭を下げた。使用人として、王族に対する最大限の礼。
「そんなに固くなるな。俺は気楽な次男坊だ」
砕けた口調。けれど、その目は笑っていなかった。
「公爵家の使用人か?」
「……はい」
「にしては、目が違う」
私は息を詰めた。
「給仕の動きをしていない。誰かを観察している。それも、かなり真剣に」
「恐れながら、殿下のお見間違いかと」
「そうか?」
アルヴィン殿下が一歩近づいた。私は後退できなかった。背後は壁だ。
「お前、本当に使用人か?」
その問いに、私は答えられなかった。
沈黙が流れた。アルヴィン殿下は私の顔をじっと見つめている。観察するような、値踏みするような視線。
「殿下、こちらにいらしたのですか」
別の声が割り込んだ。近衛騎士だろう、正装の男がアルヴィン殿下に歩み寄った。
「ああ、少し息抜きをしていた」
「陛下がお呼びです」
「わかった」
アルヴィン殿下は私から視線を外した。けれど、去り際に小さく呟いた。
「また会おう。面白い目をした使用人」
その言葉を残して、王子は人混みの中へ消えていった。
私は壁に手をついて、呼吸を整えた。
見抜かれた。完全にではないにせよ、異質だと気づかれた。
アルヴィン第二王子。放蕩者を装っているが、あの観察眼は本物だ。
危険な人物かもしれない。
けれど今は、姉のことを優先しなければならない。
私は再び広間を見渡した。姉はまだ貴婦人たちに囲まれている。笑顔を浮かべているが、目の奥に疲労が見える。
必要な教育内容は把握した。政治、外交、各家の力関係。それらを、どうやって姉に届けるか。
直接会うことはできない。私は「存在しない」人間だ。
ならば、別の方法を考えなければならない。
私は夜会の喧騒の中、静かに計画を練り始めた。
姉を守る。そのために、影として動く。
アルヴィン殿下の視線が気になったが、今は考えないことにした。あの人物が何者であれ、私の目的は変わらない。
セレスティナは既に動き出している。
時間がない。




