第1話「影の始まり」
冷たい床の感触で、意識が浮上した。
私は目を開ける。見慣れた天井。見慣れた薄暗さ。窓から差し込む光は弱く、埃が舞っているのが見えた。
ここは、離れだ。
私は上体を起こした。体が軽い。手を見る。小さい。傷もない。処刑台で縛られた跡も、爪が剥がれた痕も、何もない。
夢を見ていたのだろうか。
いいや、違う。
断罪の夜を、私は覚えている。エドワード殿下の冷たい声。セレスティナの泣き顔。そして、私を見捨てた人々の沈黙。
「ヴィオレッタ・グラティア。貴女を王家への反逆、聖女への迫害、数々の悪行により断罪する」
あの言葉は、今も耳の奥に残っている。
私は処刑されたはずだ。首に刃が落ちる瞬間の、あの冷たさ。
なのに、なぜ。
ゆっくりと部屋を見回した。質素な寝台。古びた机。最低限の調度品。私の部屋——グラティア公爵家の令嬢として与えられた豪華な部屋とは、まるで違う。
「お目覚めですか」
声がして、私は振り返った。
扉の前に、老齢の男が立っていた。白髪交じりの髪。深い皺の刻まれた顔。執事の装いをしているが、私の知る執事長ではない。
「……誰」
声が掠れた。自分の声ではないような、幼い響き。
「ハンスと申します。リーネ様のお世話を仰せつかっております」
リーネ。
その名前に、心臓が跳ねた。
「私の、名前は」
「リーネ様。グラティア公爵家の……」
ハンスは一瞬、言葉を切った。その沈黙の中に、何かがあった。
「お生まれになってから十五年、この離れでお過ごしです」
十五年。
私は十五歳で処刑された。ならば今、この体は——。
「鏡を」
「はい」
ハンスが差し出した小さな手鏡を、私は受け取った。映っていたのは、見覚えのある顔。けれど、私の顔ではない。よく似ているが、どこか違う。髪の色が少しだけ淡い。目の形が少しだけ丸い。
双子。
記憶の底から、かすかな声が蘇った。産婆の囁き。「双子でございます」という言葉。そして父の——ルシアン・グラティア公爵の冷たい返答。
「一人は死産だった。いいな」
あれは、本当のことだったのだ。
私には双子の妹がいた。リーネ。存在を消され、この離れに閉じ込められていた妹。
そして今、私はその妹の体にいる。
「リーネ様。お加減が優れないのでしたら、医師を——」
「いい」
私は手鏡を返した。ハンスは黙って受け取る。その所作は丁寧だったが、目には困惑があった。
当然だ。今までのリーネは、おそらくこんな態度ではなかったのだろう。
「ハンス。今日は何年の何月か」
「……五年前、でございますか」
「答えて」
「王歴三百十二年、春の月の十五日にございます」
五年前。
私が処刑されたのは、王歴三百十七年の冬。ならば今は、私がまだ生きていた頃。いや、「あの私」がまだ生きている頃。
つまり、姉が——ヴィオレッタ・グラティアが、まだ断罪されていない時代。
「姉は」
言葉が勝手に出た。ハンスの目が僅かに見開かれる。
「リーネ様は、ヴィオレッタ様のことを……」
「知っている」
嘘だ。この体の元の持ち主が知っていたかどうかは分からない。けれど、私は知っている。私自身が、かつてヴィオレッタだったのだから。
「姉の、今の状況を教えて」
ハンスは数秒、沈黙した。それから、深く頭を下げた。
「畏まりました。ただ、私の知る範囲は限られております」
「構わない」
「ヴィオレッタ様は、来月の夜会で社交界にお出になる予定です。エドワード第一王子殿下との婚約も、正式に発表されると聞いております」
姉の社交界デビューまで、あと一ヶ月。
婚約発表。
あの時も、そうだった。社交界デビューと同時に、王太子の婚約者として華々しく紹介された。誰もが私を羨んだ。誰もが私に微笑んだ。
けれど五年後、その誰もが私を見捨てた。
「それだけか」
「……セレスティナ様という方が、宮廷に出入りを始めたとも」
その名前に、体が強張った。
セレスティナ・ヴェルト。没落男爵家の令嬢。「聖女の兆し」を認定され、宮廷に招かれた女。
そして、私を追い落とした張本人。
もう動き始めている。
私は寝台から立ち上がった。足元がふらついたが、すぐに立て直す。この体は虚弱だ。ろくに外に出ていないのだろう。
「ハンス」
「はい」
「私は、これから姉を守る」
言葉にすると、決意が固まった。
前の人生で、私は愚かだった。セレスティナの策略に気づかず、エドワード殿下の心が離れていくのを止められなかった。周囲の讒言を信じた人々に断罪され、誰一人として味方がいないまま処刑台に送られた。
もう一度、同じことを繰り返すわけにはいかない。
けれど、私が表に出ることはできない。リーネは「存在しない」人間だ。公式には死産として届けられている。今さら現れれば、公爵家のスキャンダルになる。父は決して認めないだろう。
ならば。
「私は影になる」
「……影、でございますか」
「姉を陰から支える。姉が必要とする知識を与え、姉が避けるべき罠を教え、姉が握るべき機会を作る。全て姉の功績として」
ハンスは何も言わなかった。ただ、その目には複雑な光があった。
「リーネ様は、ヴィオレッタ様に会ったことがおありで」
「ない」
この体としては、一度もない。
「それなのに、なぜ」
「理由は聞かないで」
私はハンスの目を見た。十五年間、この離れでリーネを育ててきた老執事。父の命令に従いながらも、おそらくは罪悪感を抱えていた人。
「ただ、協力してほしい。姉の情報を集めてほしい。社交界のこと、宮廷のこと、セレスティナという女のこと」
「……私の立場では、限界がございます」
「それでいい。できる範囲で」
ハンスは長い沈黙の後、再び頭を下げた。
「畏まりました。リーネ様」
私は窓辺に歩いた。小さな窓から見えるのは、屋敷の庭の一角だけ。本邸の華やかさは、ここからは見えない。
五年。
五年あれば、変えられる。姉の運命を。そして——私を見捨てた者たちに、思い知らせることができる。
エドワード殿下。あなたは私を断罪した。あなたの判断が正しかったのか、いずれ分かる日が来る。
セレスティナ。あなたは私を陥れた。聖女の仮面の下の本性を、いずれ暴いてみせる。
父上、母上。あなた方は私を——いいえ、リーネを捨てた。その報いは、いずれ。
けれど今は、まだ。
今は姉を守ることだけを考える。
「ハンス。来月の夜会について、詳しく教えて」
「はい」
ハンスが語り始めた。夜会の日取り、出席者の予想、姉の立場、エドワード殿下との関係。
私は全てを記憶に刻んだ。
離れの窓から差し込む光は、相変わらず弱い。けれど私の中には、冷たい炎が灯っていた。
影として生きる。
それが、新しい人生の設計図。




