キダルト
キダルト、って言葉をテレビのニュースで知りました。
今、子供少なくなってるけど、おもちゃの売り上げは上がっていて、大人が買ってるんだって。
うん、思ってたんだ。大人になっても、子供の頃のおもちゃが好きだったり、遊びをやってみたい、ってことはあるって。
知らない道を歩いて、どこに辿り着くか冒険してみたい。あまりやらないけど、そういうワクワクした気持ちがあったりもしますし。
大人になってから、人形のジェニーちゃん(リカちゃんよりちょっとお姉さん仕様)の着せ替えの服とかを、大人クオリティで作って遊んだりしてました。楽しい。
白に黄緑を差し色にした、ペチコートで膨らませたふわっふわのドレスとか、もう人にあげちゃったんだけど、素敵に出来ました。
今はもう、目が疲れちゃうのと気力が足りないので、縫い物はやってないのですが、故人の父に、当時、子供がやるようなことをやってる•••と心配そうな目で見られたのを思い出します。人形や着せ替え服、捨てられたりも。
あの時の、優しく柔らかいふわふわした遊び場を否定された悲しい気持ちは、覚えております。
でもな。
父は釣りが大好きで、子供のうちからハマっていたのであった。大人がやっても恥ずかしくない遊びと、そうでない遊びって何よ?って思っちゃいます。彼も、童心に帰って遊ぶ場所を持っていたではないか?
多分私がその他の所で、ちゃんとした大人のふるまいをできていたら、父も、もう少し違ったのかもな、とは思います。当時私の病もあって、確かに大人っぽくはなかった。父も私にしっかりして欲しかったんですかね。彼は、大人になる=子供の遊び、振る舞いを捨てる、と考えたらしかった。
母は全然反対してはなかった。何なら良いじゃん位の感じだったのです。昔の男親の、理解が不足している感じと、女親の、良いよね着せ替えとか楽しいよね、っていう理解のある感じ。もうね、それは仕方ない。親も全能ではないんで。しかも父は昔、実家から養子に出て、若いのに家を任されて大人の振る舞いを求められた、という人なので、余計に子供の遊びを好きな気持ちを捨てるのに、引っかかりもなく必然だと思った事であろう。
私も分かっています。子供から大人になる時、何かと決別し、責任とか分別とか常識の範囲内とかまあ、大人の装備を纏わなければならない、ということは。
だがね。纏うだけであって、本体は変わらない。
今、大人になってみて、子供の遊びや気持ちを、捨てられたか、っていったら、それはない。そして、周りの大人も、大人の衣に隠してるけど、けっして遊び心がない訳では、ないのよね。はっきり子供と同じ遊びではないけど、日常の生活に、遊びは沢山隠れてるのだ。お気に入りのハンカチ持とう、とか、ボールペンのインク最後まで使おう、とかそんなのでも、ちょっとふわっとした嬉しい気持ちがするでしょう?
そういうの忘れてくと、灰色の生活になっちゃう。
そして今の社会、子供が大人になるのを求めるのと同じくらいに、子供の遊び心を忘れずに生きる事を、段々と許され受け入れられ喜ばれている気がします。
私はそれを良い事だなあ、と思っています。まぁ、経済のためだったりもするんだろうけどもー。
我慢
切り捨てる
遊びじゃない
こういう言葉って、ぎゅり、と心を圧迫して苦しくさせるじゃないですか?
遊びがあっても、大人には、なれる。
って言いたいな、という気持ちがしています。
優しい柔らかい、楽しい美しい世界を持っている事を許されれば、他者のそういう部分にも寛容になるかと思います。
大人の振る舞いと、子供の遊び心は、大人であるからこそ、両立できるのでは。そういう生き方も、あっていいな、って思います。
そして、大人っぽくするのが好きな人もいると思うし、律するのが好きなタイプの人もいると思うのです。そういう人の美しさもある。
だから、子供の遊びを強要するのも、やめとくべ、とは思います。
ただ本当、子供みたいなワクワクする楽しみの気分で心が遊べると、その日一日中、もつんですよね。
本当にやりたくてやってるなら違うんだろうけど、仕事でも、生活でも、やらなきゃ!ってのに囚われて、イライラして尖ってるのが好きじゃない。というか、保たないんです。しょんぼりしちゃう。
今、キリキリと頑張っている人には怒られちゃうのかもしれないんだけど、そういう人と、呑気にしてんな!と怒り怒られするより、お互い遊んで許し合おうよ、の方にいきたいなーという気持ち。だから、大変な人が助かる技術や仕組み、工夫は大好きです。ちょっと腹に力を入れて、助け合おうとする事も必要かもね、良く遊ぶには。
これからも、大人やりながら、子供の心で楽しく遊んで生きようと思っております。
キダルト良いじゃん。なのでした。