表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/28

モヤっとした話

※少し差別的な言葉を聞いた話です。その言葉を書きたくないので、ぼかします。ちゃんと聞いた言葉をハッキリ書いた方が、私の受けたショックが伝わるのですが、悪い言葉って誰かが真似しそうじゃないですか。

その言葉を無かったことにするのがダメ、って言い分もあるのですが、今回は、皆さんも私と一緒に、何なんだ、その言葉って!って、モヤっとして下さい。

歳をとる、という事は、素敵な事であると同時に。恐ろしい事でもあるな、と思います。


親戚のおばあさん(90歳代)と話をした時の事です。

おばあさんは、息子を、この歳になってから亡くしました。おばあさんの歳が歳ですから、息子もそれなりの歳です。まだまだ生きて頑張れたよ、早かった、と周りは思うけれど、早すぎて切ないほどではありません。ただ、順番が違うから、そこは切ないよね。

おばあさんにとっては、大事な息子が亡くなったので、それは、それは、きっと、心の中が騒めいているのでしょうね。


ウチは、その親戚のおうちに、お葬式には行かなかったので、ちょっと幾らか包んで、仏壇を拝みに行かせてもらったんだったかなあ。

おばあさんの家の近くに独立した息子は、奥さんも亡くなっていて、子供はもう外に出ていて、無人のおウチ。おばあさんと、もう1人の息子とで、管理していて、鍵を開けてもらって、遺影があるところで、ちょっとテーブルに座って。皆で、お話しました。


亡くなられた方の話をしみじみするのは、遺された者たちの弔いの仕方であるでしょう。

おばあさんは、とても元気で、その頃も畑をやっていたりするほどだったので、お喋りも闊達でありました。


亡くなった息子の自慢話です。

よくできた息子だったと。

こんな事をしていた。立派にお勤めした。話していると、それを呼び水に思い出されるのでしょう、口を挟む間もなく、おばあさんは、自分の思いのままに話をします。

うん、いや、元々自分の話を、聞いている人の応えを待たずに、バーって話すおばあさんだったかもしんない。勢い。


息子は、勤めあげた後、こんな事もした。


おばあさん:

「(差別用語 知的障がいの子らをさす言葉)たちの施設で、色々お世話したりもしたんだよ〜。」


私:

「……!?」


話の流れで、息子が、他者のためになる公務員として、立派に勤めて退職してからも。そういうハンデのある子たちに真摯に関わって頑張ってきた、できた息子だったんだ、人格者だった!という、いい話ではあるものの。


その、差別用語どうなの。

サラッと言われたし。


「待って待って、(差別用語)はないでしょう。今は、そういう言葉を使わないんだよ、おばあさん!」

とは言えない雰囲気でした。そして勢いのある喋りは止められない。何度も(差別用語)を言うのです。


ものすごくモヤっとした。


90歳代のおばあさんからしてみたら、彼女の時代、田舎では、その言葉は、特になんでもない、当たり前の言葉だったのでしょう。だけど、その事自体が、昔はそう言ってたんだな、っていう、差別の視点があった事を感じさせます。


おばあさんに、今はそう言わないんだよ。と言えたら、モヤっとしなかった。

だけど、90歳代のおばあさん。

もう、多分、こっちの話を聞く、なんていうか余白っていうのがない、お年寄りです。そして、価値観の認識を、今からでも改めてくれるのか?それを、その、やっつけの、たまにしか会わない、遠い関係の私たちが、できるのか!?

と言ったら、やっぱり出来ませんでした。


日本人的に。

うんうん、あー、そうですねぇ、そうだねぇ、うんうん、息子さん凄い人だったねぇ、早く逝っちゃったねえ、うんうん、と。

めっちゃ頷きながら、心の中でモヤっとしているしか、なかったのです。


くっ。こういう時、勇気が足りないと思う。


思考としては、思うのです。

高齢者だからって、新しい言葉や、今の時代に沿った、障がいがある方たちへ、他者への見方を学ぶのは、もう無理なんじゃん、て諦める事は。私たちの方の、傲慢なのでは、怠慢なのでは、勝手な決めつけなのではないか。


でも、やっぱりこうも思う。

年寄りは、もう、しょーがねーな。諦めてこちらが受け入れる。流す。


歳をとるのは恐ろしい事です。

自然に、自分が生きていた真ん中の時代には、何でもなかった言葉や概念が。今、時代が新しくなればなるほど、それは社会が進化しているからともいえるのですが、それってダメじゃん!になっている。


おばあさんの事を言うけど、私だって、きっと、将来は色々と今から取り残されるのです。

老害って言うけど、自分がそうならない、いつまでも柔軟に、新鮮な学びを、周りから吸収して成長し続けられるか。どこかで、立ち止まってしまわないか。気持ちはあっても、身体も心もしんどく、いつしか新しい見方を取りこぼしていって古くなる。


きっと、全てに対応はできないのです。自分が思ってもみなかった所で、それダメ!がある。怖い。


だけど、きっと。

「年寄りだから、しょーがねーなー。」

という、ちょっとこちらも差別的で下に見ている感じはありますが、その分、甘く見てくれる、ってやつが、あるのかなぁ……。

あんまりキツキツに、突き詰めちゃうと、雰囲気がトゲトゲしちゃって、正しいかもしれないけどそれはどうよ、という事もあり……。だって私たちは生きているのだから。

その人の生き方にもよりますが、ずっと、ゴウッと燃えて正しさに戦って生きたい、って人ばっかりじゃなくて、ある程度で、ほどほどで、毎日穏やかに幸せに、そんな時間をもって、それなりに生きたいじゃないですか。


うん、モヤっとするのです。


このモヤっとは、多分、ちょっとずつじゃないと、解消されないのです。孫とかが、「ばあちゃん(差別用語)は、ねーだろ。」とか軽く言ってくれる、とか、必要だと思います。


若い者の方が、若い見方をできるでしょう。だけど、年寄りはダメよな、おじさんおばさんはダメよな、若者は分かっちゃいねー、と。

その世代世代だけで固まって理解し合わない、ってのは、なんか、社会の進化、良くなった所が、広がっていかない感じがあります。


それなりにほどほど関わりつつ、だけど、激しすぎもしない、緩やかな関わり合い、が、あると良いなあ、なんて思います。学びは上の世代から降りてくる事も、下の世代から伸びてくる事も、あると思う。


理想はそうだけれど、同時に。

あー、だから人は、老いて死ぬのかもしれぬ。

と、私は思っちゃったりもしました。

全てを若返って新しく学ぶ事は出来ない。どこかで、停止してしまう、滞ってしまう、日常をやっていく、淡々と、静かに、終息していく。

それで良くなってしまう。生きていくだけで、大変なのだから。


だから新しい人に生まれてほしく、そして、古い者は終わってゆく。


分からない年寄りは死んじゃえよ、という話ではなくて、伝わると良いんですが、良く言うよね、バトンタッチだって。そんな感じ。


モヤっとを抱えたまま、生きていけるようになると、次の時に、少しだけ、違う事ができるかもしれないから、頑張ります。



もう一つ、モヤっとした話。


ご近所のおばあさん(90歳代)と話をしていて、彼女が言いました。


「ウチの前の通りを、そこの会社まで歩いて通っている人がいるんだよね。家族と歩いててさ。」


「あー、それは私かもしれないですねぇ。」

その会社に勤めているし、散歩がてら家族が良く迎えに来たり、送ってくれたりしていた。今はしませんが。


「あれだよ、(差別用語 知的障がいの人を指す言葉)だよ。家族がついてってるけど、最近は、一緒じゃないね。私は近所の事、良く知ってるんだ。」


うん。

私です。私ンチの事です。


おばあさんは、当の本人に、噂話として、こんな人がいるんだよ、と言ってきた。


私は知的障がいではなく、精神障がい者ではありますが、あれだ、そうだよね、別に、どんな障がいですよとご近所中に言った訳じゃありません。それでいて、無職で症状があった時には、独り言をぶつぶつ言いながら、外をウロウロしてたりしたんですから、そりゃあ、ご近所では。

「あの人は、普通の人ではないね。」

といった話になるでしょう。


でも、そっか、そーか。

(差別用語)か。


噂話って正確じゃない、アテになんねーな。と少し思ったし。


自分の中で、(差別用語)と思われていた、というのが、何かモヤっとします。


それは、知的障がいの方を、私も差別しているのではないか?私の方がまともだと思っている気持ちがあって、下に見られた的な気持ちか!?

と、自分の中さえも、モヤモヤとします。変なプライド、嫌だな。モヤ。


家族が「散歩がてらだよ〜。」とか言いつつ、送ったり迎えに来たりも、当時、私がちゃんとした社会人じゃないみたいで、実はモヤっとしていた。認められてない感があったのです。でも、私は大人である。

「私がナメられるだろ!」的に、多分少し家族の心配と、あとは家族の散歩気分に付き合えない余裕のない自分は嫌で、まぁ、しょうがないよネ、と。


それは、行き帰り、家族と過ごす時間としても、まあ、良い機会でもあり。十何年か後には、あの時、一緒に過ごせたな、と思う時間でもあり。

色々と感じていて、結果として。

思春期のように、家族、ついてくんな!なーんて、言えない私であったのです。


おばあさん、(差別用語)はねーぜ。

という、その言葉への、忌避感もあるし。

親戚のおばあさんの時に思ったような、あー、ここで。


「それ、私ですから!」ニッコリ


と言えたら、モヤっとしなかった。

だけど、ニコニコして、そうなんですかぁ、的に、黙ってしまいました。そして他の話をフって流してしまった。


うん、そのおばあさんも、人の話をちゃんと聞く余白は、なさそうだったよなー。高齢者の方、自分が喋りたい事を言うのに一生懸命で、人の話が入らない、って事は良くあります。喋りたい。とにかく、言いたい。聞いてない。それでも会話が成り立っている。あるあるです。


うん、勇気が欲しい。


とにかく私は、モヤっとして、そして、それを言ってしまえればモヤっとが残らなかったのに、何故言えなかったのだ。という事は、まああります。


だからエッセイに書くのだろうし、自分の中に残って、後々まで、どうするべきだったかな、こうならハッピーだったのでは、と考えられる事もあるのかな。物語にも、昇華する時もある。現実で、少しずつ、何かできる時もある、と信じたいです。


そして、その常に曖昧な途中の状態であるのが、この私、竹美津、であるのでしょう。


またモヤっとしたらお伝えします。

いいモヤっとがありますように。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ