普通
普通、という言葉を、割と良く使ってしまいます。
普通の概念は人それぞれ、とか、世の中に普通はない、とか、使う時にいつも複雑な思いがする言葉です。
私自身、私はあんまり普通の事ができないな、と、あまり良い感じではない、特別感や優越感などのない足りなさをもって、なんとなく生きてきたように思います。
そうなのだ。
できないことによる、何か突出した、或いは偏った事による技能があるレベル、などというのとは、また違うのだ。そんなには偏ってない。ただ単に、「普通に」普通と少しだけ合わせらんないのである。
普通にしているつもりでも、人と話してると、あ、普通はそう考えるんだ?って思ったりする事がある。
そして、そう思う人も、割といるのじゃないかな、とも思います。
同腹の者が複数いるので、同じ家に育っても、その、割と普通にうまくやれるかどうか、しかもどの方面に適用が広がっているか、みたいなのは、人によって違うのも知っています。ほんと、個性なんだよね。
普通に憧れる気持ちと、普通に馴染まなくても自分が心地よいようにやっていければいいじゃん、て気持ちと、2つがあります。どっちかに決められるものでもなくて、時々で、もわーもわーとどっちかが浮いて出てきたりする。
その普通、っていうのも、普通はこうあって欲しい、という私の願望なのであって、その普通願望は割と高いお望みであったりもする。って分かってもいます。
それでも普通、って使ってしまうのは、普遍的な、とんとん、と流れて整えて、生活して波があり散らばるものを、めんどくさい気持ちと喜び悲しみ色々な気持ちを持ってまた整えて、っていう営みに、癒され愛しい気持ちがあるからだろうな、って思います。
普通の生活を、本当に渇望して胸掻きむしるほどの生活、ってほどの苦境ではなかったけど、穏やかなのが良いよなーって経験はあります。若い頃より、丸くなったよ!
私はこれからも、普通、って言葉を使ってしまうのでしょう。そこに含まれる幾つもの普通、沢山の気持ちを、いつもやっぱり書く度に複雑に思いつつ。
多分、その、幾つもの普通を、一つ一つ知って、あるよね、って書いたりしていくのが、良いかな。
普通なんてクソ喰らえ!って意見にも、うんうん、って思うんだよ。
それだけじゃおさまらないぜ!っていう、とんがってる普通じゃない人の話も大好きです。若い挑戦者の話も。
普通を呪縛にするか楽しむか、ぶっ飛ばすかは、色々経験してみてのお楽しみ。
どれか一つじゃなくても良いのです。