09 エレクトラは家を出る
何者かの悪意を、はっきりと自覚したエレクトラは、だからといって、その黒幕を突き止めようとはしなかった。
どうも黒幕が、ただの男爵夫人が楯突いて無事に済む相手とは思えなかったのだ。
各地にもたらされる『英雄』と『聖女』扱いの不貞男女を、とにかく持ち上げたい何者か。
彼らをそこまで持ち上げて、どうなるのかは何も分からない。
想像を膨らませるのも限界があった。
ただ領民や、実家に被害をもたらさないために、あらゆる対策を講じた。
『悪意ある何者か』は確実に居る。
今、この時もだ。それを念頭に活動した。
「『私』を陥れたいのか、ヴェント子爵家を陥れたいのか……?」
両方かもしれない。
例えば、ヴェント家を貴族から追い落とし、領地を奪う。
そして英雄と持て囃されている夫に与えて領地を拡大するのだ。
二つの領地を合わせれば『伯爵』に陞爵しても釣り合うだろう。
それをして得をするのは、それこそハリードぐらいだが、彼が黒幕というのはないだろう。
「……考えても仕方ないわね」
とにかく『敵』は居るのだと、実家と共に警戒する。
焦れて何かを仕掛けてくる可能性もあるけれど……。
思うに、何者かはハリードを陥れようとはしていない気がする。
そもそも、エレクトラが嫌な予感を覚えたのは、戦場から届く報せの内容ゆえなのだ。
そこでハリードは『英雄』と称賛されている。
わざわざ、そのパートナーを持ち上げているが、二人を悪く書かれてはいない。
つまり、何者かはエレクトラにしか悪意は向けていないと言える。
それからは地道で、地味な戦いの日々だった。
男爵夫人を陥れようと企む何者かが居ることを前提に、エレクトラとヴェント家は警戒し続ける。
まずは、とにかく悪評を流さんとする動きへの対策だろう。
次にあるとすれば商売の邪魔か。或いは農業の妨害か。
それらは領民の生活に、大きく影響してしまう。
『ハリードの領地』であるカールソン男爵領を、そこまで貶める気はないと踏んでいるが、それも確かなことは言えない。
領民の生活を保障するために備蓄の確保と、警備を強化した。
そちらも、やはり『敵』を想定しているので、目に見える警備とは別に、隠れた警備人員を用意して……罠を用意した。
「……奥様、『網』に掛かったようです。しかも、捕まえました」
「捕まえたの?」
「はい」
以前、現れた『偽・男爵夫人』は、まんまと逃げられた。
深追いもさせる気はなかったのだが……。
「備蓄食料に何かをしようとした男を捕まえております」
「……よく捕まえられたわね」
エレクトラが想定していた黒幕は、かなり『上』の何者かだ。
そんな誰かの指示で動く人物が、尻尾を掴ませるような真似をするとは思わなかった。
「おそらく、こちらが警戒していると思わなかったのかと」
「まぁ、そうでしょうね」
エレクトラとて、自分がどうしてここまで強く懸念を覚えるのか、分かっていない。
もしかしたら、あの予知夢ほどではないにせよ、何かしら特別な『予知』をしているのか。
「……会うことは出来る?」
「危険です、おやめください。奥様を狙っているかもしれないのですよ」
「私を狙っているのはそうでしょうけど、暗殺が目的とは思えないわ。少なくとも私の評判を下げてからが、お望みじゃないかしら?」
偽者と断じて対応したことで、偽・男爵夫人による私の悪評は広まっていない。
偽者が吹聴しようとした方向性としては、エレクトラが英雄ハリードに執着し、彼にまとわりついている、というものだ。
そういった妻の悪評を広めた上で、英雄を凱旋させたいのだろう。
聖女と結ばれる美談を際立たせるために。
エレクトラは、備蓄食料に工作をしようとしていた男の前に立った。
あまり腕の立つ衛兵は少ない。
そもそも実力者であれば、辺境の戦場に駆り出されているのが、今の王国だ。
そのため、エレクトラの行動は、とても危険な行為だった。
「……はじめまして、人殺し」
「……!」
エレクトラは、開口一番で男にそう告げた。
「お前が手を付けようとしたのは、領民たちが食い繋ぐための最後の砦。それが食えなくなれば、死者すら出ただろう。
……お前は、神の意に反する人殺しだ」
エレクトラはカマをかけた。
男が、どういった方面から来た者なのかを探る気だったのだ。
「どうして領民を大量に殺そうとした? お前の名は知らないが、教会には破門をさせるように願おう。お前が何者かは知らせずにな」
「ち、違う……」
男は、それまで黙っていたそうだが、私の言葉に初めて口を開いた。
その表情の変化から、男の立ち位置になんとなく当たりを付ける。
「……教会の指示、か」
「……!」
あえて断定口調で、何もかもを分かっているようにエレクトラは呟いた。
男に問いかけるのではなく、一連の流れで察した……と錯覚させる。
エレクトラは、頭が痛くなった。
自分は、本当に目の前にある情報から、論理的に推察したのだろうか?
それとも、やはり予知夢のように超常的な力で事態を察したのか?
……何も分からない。
ただ、男の様子を見て……エレクトラは、次の行動を決めた。
「彼を解放していいわ」
「え、よろしいのですか!?」
「ええ、領民の食糧を奪おうとして、彼の心がそれで良いと。神に許されると。そう考えているのなら、もう救いはありません。
きっと私たちが手を下さずとも、神の裁きがあるはずです」
あとは男の良心に委ねるだけだ。
それよりも、と。エレクトラは次の行動に移る。
「……教会に行くわ」
己の名を偽り、教会に通おう。
『夫の不貞に苦しめられている』と嘆いて救いを求めるのがいいか。
『エレクトラ』でなければ、救って貰えるはずだと思った。
ハリードが帰ってくる前に、ただの平民として教会に入るのもいい。
いわゆる修道院入りに近いものだ。
教会に一時的な保護を求める。
おそらく『敵』は教会の上層部だと思うが、なんとなく、それだけではない予感も強かった。
『男爵夫人エレクトラ』の失踪とタイミングをズラせば、いわゆる『灯台の下が一番暗い』という諺に似たことになる気がする。
そうして。
エレクトラは、表向き『男爵夫人が姿を消した』タイミングを、侍従長たちの協力の下で遅らせて。
自身は、平民の『エレン』を名乗り、教会に保護を求めたのだった。