08 エレクトラの懸念
エレクトラは、ハリードの一報を受けて決断した。
あの予知夢を信じることにしたのだ。
ずっと警鐘のように、あの夢の内容が忘れられなかった。
夢を見ていなければ自分は、ロクに結婚式も挙げないまま結婚して、初夜でハリードに純潔を捧げる。
そうして翌日、戦地へ旅立っていった夫の無事を祈りながら、帰ってくることを信じて、男爵家を支えて。
その挙句、帰ってきた夫に理不尽に離縁を突きつけられるのだ。
……きっと、その時の自分は絶望するだろう。
理解が出来ずに『何故?』と泣いてしまうかもしれない。
或いは、あまりの屈辱に激しく怒りを抱くか。
まったく許せることではない。度し難いことだと思う。
戦場で、命懸けだからこそ燃え上がったのだろうか。
しかし、如何なる理由があろうとも、それは不誠実に違いない。
「……ふぅ」
だが、落ち着かなければ。
まず、ハリードの不貞を示すのは戦場について知らせる一報のみ。
確たる証拠があるワケではなく、噂の類に過ぎないと言っていい。
だから今すぐ離縁すると屋敷を出ていくのは得策ではないだろう。
それに急に主人の代行を務めていた男爵夫人が居なくなれば、困るのは領民や使用人たちだ。
彼らには、何の罪もない。苦しめるつもりなど、エレクトラにはなかった。
だから、エレクトラが決断したのは、夫が帰ってきた時、必ず離縁を突きつけられるのだと覚悟すること。
そして、それに向けて動くことだけだった。
領民と使用人たちには、好かれていた方がいいだろう。
精神的に己が追い詰められるほど、のめり込む気はないが……『エレクトラ夫人の治世では、満足できる暮らしだった』と思わせれば今後、彼らを味方にできる。
ずっと先までを見据えた繋がりでなくていい。自身が居るのは、一時的なことだから。
そう。短期的に彼らの心を掴めればよいのだ。それならば出来る。
そうして、エレクトラは目的を定めて活動し始めた。
ハリードが出兵してから1年以上が過ぎて、まだ彼が戻る目処は立たない。
その間、逐一、戦場からの報せがもたらされるのだが……。
「……ねぇ、サイード、それからサリア」
「は、はい。奥様……」
侍従長サイード、侍女長のサリアに、エレクトラは声を掛ける。
一報の内容に目を通しながらだ。
それが一体、どのような内容なのかは、既に二人も把握している。
主が『英雄』と持ち上げられるのはいい。だが、そのそばに『愛する者』が居るなどと。
既婚者である主に付け加える内容ではない。
そして、それを妻であるエレクトラが面白く思うはずもないのは分かっていた。
「何かおかしいと思わない?」
「え?」
二人は、エレクトラが夫の不貞に激怒し、自分たちを罵ると身構えていた。
だが、彼女はそのように荒々しくはならず、冷静な口調で続ける。
「旦那様を持ち上げるのはいいのだけど。どうして、そこにわざわざ、愛する者が居るなんて書き加えるの? 調べれば、彼が既婚者だと分かりそうなもの……。まぁ、男爵だし、結婚式も挙げていないから知らない、とも考えられるけど……」
エレクトラは、だんだん違和感を覚え始めていた。
どうも、この一報はハリードの不貞をどうしても肯定的に広めたい様子だ。
何の意味があって? 英雄のプロパガンダだから?
相手は女僧兵……治療魔法で騎士たちを治癒して回る若い女性だ。
そんな彼女のことも、やたらと持ち上げようとしている気がする。
「これ、王都でも伝えられているのよね?」
「はい、そのはずです」
「……世間では『英雄』と『聖女』と持て囃されている、ということね」
つまり、持ち上げたいのはハリードだけではない。
相手の女性、『リヴィア』という名の女僧兵のことも『聖女』と銘打ちたい様子だ。
これは、もう何者かの意図したことだろう。
英雄と聖女の、戦場での恋愛譚。それを大々的に報じたいのだ。
「王家か、或いは教会? どちらもかしら。それに近い誰かが……だとしたら」
「奥様?」
「……あのね、二人とも。これからね。『私』に対して、悪評を広める者が現れるかもしれない」
「え?」
「そうなっては、この男爵領に嫌がらせをされるかもしれないわ」
「お、奥様? それは一体、どういう……?」
不貞をしている夫と、その相手を持ち上げるような一報。
それらが、何者かが意図しているものならば、もう一つ必要なことがある。
それが『エレクトラの悪評を流すこと』だ。
……だって、己は、英雄と聖女の恋愛にとって『邪魔者』に違いない。
ハリードが、どう振る舞おうとも、だ。
ずっと、どうして己が、あのような予知夢を見たのかと思っていた。
『ただの不貞』を教えてくれる奇跡なんて、神様は何をお考えなのかと。
もしも、それが、ただの不貞では終わらない、もっと大きな陰謀であったのなら。
そのような理不尽に晒される己の運命を、神が哀れんでくださるのだとしたら。
「ヴェント家にも伝えるわ。不埒なことを考える輩が、領地に現れるかもしれない、と。警戒するように」
はたして、エレクトラの懸念は当たった。
なんと『英雄の妻』を名乗る不埒者が、カールソン領とヴェント領に現れたのだ。
その者は如何にも『悪妻』だと思われるような言動を繰り広げたらしい。
何者かが、エレクトラの評判を貶めようとする意図は明らかだった。