07 妻は家に居なかった
「本当にエレクトラは、家に居ないのか」
「はい、旦那様」
何故なのだ、と。ハリードは思う。理由が思い当たらない。
「……俺が居ない間、いつも彼女は、外で遊び呆けていたのか?」
ハリードが問い掛けると、その場の空気が冷え込んだように感じた。
「少なくとも、エレクトラ様が遊び呆けるなどと他の使用人たちの前では、おっしゃらないでください。旦那様が、エレクトラ様を愚弄する意味が全く分かりません。あの方はカールソン男爵領に対して、この2年間、本当に尽力してくださいました。我々、使用人一同、彼女に敬意を抱いています。当然、その職務も立派にこなされていましたよ」
「……それは、俺が家の仕事をしていなかったと言いたいのか?」
ハリードは、侍従長サイードの強い言葉にムッとして言い返した。
「旦那様は、お疲れなのですね。先程から、おっしゃっている言葉に意味が通っておりません。なぜ、戦地で戦われていた旦那様を、そのように言わねばならないのですか」
「では、先程の言葉はなんだ?」
「男爵家に嫁ぎ、立派に職務をこなされていた男爵夫人に対して敬意を払う。そんな彼女に、ありえない愚弄と取れる疑念をぶつける旦那様をお諫めする。どちらも、カールソン男爵家に仕える者として、当然のことです。むしろ、それをしない方が、使用人失格かと思いますが……。本当に旦那様は、何をおっしゃっているのですか?」
「もういい!」
苛立ちながら、ハリードは執務室に急いだ。
誰も使わずに荒れているかもしれないと思ったが、それは杞憂で、執務室は綺麗に掃除され、整えられていた。
すぐにでも、この部屋で仕事が出来てしまえそうだ。
「エレクトラの手紙、これか。……ん?」
これみよがしに机の上に置かれていた便箋を手に取るハリード。
それと一緒に折りたたまれていた紙が、パサリと床に落ちた。
そして、それを思わず拾おうとしたハリードは、
「……は?」
その紙が『何』であるかに気付いて、固まった。
「なん、だ、これは……?」
その紙は、王国が正式に発行している『離縁状』だった。
実は今日、ハリードも同じ物を用意してきている。
当然、ハリードの名が既に書かれている離縁状だった。
これを突きつければ、きっとエレクトラは泣き縋るだろう、と思いながら、それでも愛しいリヴィアのためならば心を鬼にしようと決意していた……、
だが、ハリードが拾った離縁状は、既に妻であるエレクトラの名が記されていた。
二枚の離縁状は、まるで二つで一つのようだ。
「なぜ……」
わなわなと手を震わせるハリード。
どういうことかと侍従長を怒鳴りつけようとしたが、その前にとエレクトラからの手紙を見ることにした。
乱暴に便箋を開き、そしてエレクトラの手紙を読む。
『親愛なるハリード・カールソン様。
いつも貴方の無事を祈っておりました。
しかし、戦場からの一報にて貴方様が愛する者を見つけたと知り、私も覚悟を決めました。
どうも、私は不要なご様子。
一体、戦場でナニをなされているのか、とも思いましたが……。
貴方様の戦いもまた知らされております故、その功績までは疑いません。
また、このような一報を意図して報じる悪意も感じました。
私は、私の存在が領民に迷惑をかけたり、使用人たちを苦しめることになるのは許せません。
よって速やかに離縁させていただきます。
使用人たちには、主がしばらく居なかろうとも暮らしていけるように手配しております。
エレクトラ・ヴェント』
ハリードは、自覚なく、その場に膝を突いていた。
『──追伸。貴方様には心底、失望致しました。貴方のような人のために貞淑であろうとした私が愚かだったようです。戦場で十分に不貞を楽しまれたご様子。私も驚きました。そのような騎士もいらっしゃるのですね? 貴方だけだと思いたいですが。今では、貴方と離縁できることを嬉しく思うほどです。もう二度と貴方の顔も見たくありません。さようなら』
辛辣に綴られる文面に、妻の怒りを感じた。
確かに今日、ハリードはエレクトラに離縁を突きつけようとした。
泣き縋られると思い込んでいたが……。
蓋を開けてみれば、これだ。
ばつの悪さ、罪悪感、或いは甘い見通し。
どこかで離縁を突きつけたあとも、変わらない何かを期待していたような……。
いや、それでも彼女が『邪魔』になると、離縁するまでは『我慢』なのだと、傲慢に思っていて。
それらすべてに正面から水を掛けられてしまった……羞恥心。
妻が自分を愛していると思っていたのか。
失望させた、喪失感。
離縁を求めようとした相手が既に居なくなっていたのだから、いっそ清々しいとそう思えばいいはずなのに。
どこか後味の悪い、モヤモヤとした感情。
後悔、とはまた違う何か。
「俺が……捨てられた……?」
そう。自分が彼女を捨てるつもりだった。
だが、これでは自分が捨てられたようだ。
否、まんまと先に離縁を切り出されているのだから、確かに捨てられたのはハリードなのだろう。
それは新しい恋を始めるには、随分と腹立たしく……。
居なくなった妻の思い通りになることが、どうにも癪に障る。
「旦那様、手紙は読まれましたか」
「サイード、お前、この手紙はいつ……?」
「1ヶ月ほど前でしょうか。旦那様の帰還の目処が立ったと知らされた後でございます」
「……なぜ」
「はい」
「……なぜ、エレクトラを止めなかった?」
「止めて欲しかったのですか?」
「当たり前だろう!」
ハリードは、立ち上がって侍従長を睨み付ける。
「なぜ?」
だが、侍従長は平然とした顔で、そう問い返してきた。
「なんだと?」
「エレクトラ様とは離縁されるおつもりだったのでしょう。だからこそ、あのお嬢様を連れて帰ってこられたのでは?」
「そ……! それは……」
「旦那様も、離縁状を用意なさっていたのではないですか」
「ぐっ……」
ハリードは目線を逸らした。
そして用意していた己の離縁状を服の上から握り締める。
「……男は、一度でも好意を寄せられた女性が、永遠に自身に愛を誓うものだと思いがちです。まったくの幻想というものですが。旦那様とエレクトラ様には、その愛すら元からなかったではありませんか? であれば、不貞を犯された旦那様に愛想を尽かすのも当然かと思います。旦那様は……今日、エレクトラ様を捨てられるおつもりでしたね?」
「お、俺は……! しかし、彼女の今後のことも考えていて……!」
「不要でございましょう、エレクトラ様には。英雄の功績に免じて、慰謝料も不要とのこと。貴方と諍いを起こす暇があれば、さっさと新しい生活を始めたいとのことでした。……エレクトラ様から、旦那様への未練は一欠片も感じませんでしたね」
「ぐっ……!」
今日、ハリードが使用人たちへ感じていた違和感の正体を、ようやく悟る。
皆、怒っているのだ。
ハリードが、リヴィアを選んだことに。
エレクトラを捨てるつもりだったことに。
2年の間、カールソン男爵家を担っていたのはエレクトラだった。
その間で使用人たちは、彼女の味方となったのだろう。
ハリードに対して怒りを抱く者たちしかいない屋敷で、新生活が始まる。
過去に区切をつけるどころか、残された多くの者に敵意を向けられる中で。
彼らの心は、己ではなく、妻にあった。
ハリードには、どうにもすることも出来ない。
離縁を求めた妻は……既に家に居なかったのだから。