11 妻が居なくなって
「旦那様、こちらの離縁状にサインをなさってください」
「……!」
侍従長サイードに促され、差し出されたのは自分が用意した離縁状ではなく、エレクトラが彼女のサインをしたものだ。
ハリードが用意しているものは、彼の服の中に入ったままなのだから当然と言える。
「……書かないのですか?」
「本人が居ないのに書くものではないだろう! そのサインも偽物かもしれない!」
「ご本人様のサインですよ。我々、使用人一同の前で記入されました。この屋敷で働く我ら全員をお疑いですか? 旦那様」
「……なんだと!?」
ハリードは、よりいっそう苛立ちを覚えた。
何故、自分が主張することを事前に予期していたように対策しているのか。
「お前、誰が主人か分かっているのか? お前を雇っているのは俺だぞ!」
「……それは、つまり、何をおっしゃりたいのですか?」
「俺の望むように動くべきだということだ!」
「……旦那様の望むように、ですか」
「そうだ!」
「……であれば、離縁状を書いていただき、責任を持って役所へ提出に向かうのが旦那様のご意向かと思いますが」
「なっ、それのどこが……!」
「応接室で今も待たれている女性。彼女と結ばれたいのではないのですか?」
「そ、それは……!」
その通りだった。
ハリードは今日、エレクトラと離縁し、リヴィアと結ばれるつもりだったのだ。
ただ、離縁はハリードから言い出すはずで、エレクトラは、それを聞いて泣き縋るはずで。
間違っても、このような愚弄される形で、己が捨てられるような形での離縁ではなかった。
「旦那様は、どうされたいですか? あちらのご令嬢、リヴィアと申されましたか。彼女も旦那様と結ばれるおつもりだったなら、こちらの離縁状を速やかに記入し、提出するのが『彼女への』誠実な対応だと思います。それとも、あの女性は愛人にでもされるつもりで、エレクトラ様への顔見せがしたかったのですか?」
「ち、違う……」
そうだ。この離縁状を書いて、すぐに出す。
それで終わりだ。元からそうするつもりだったのだ。
ただ、何か納得が出来ない。苛立ちを覚える。
このままでは腹が立つ、と。それだけ……。
「旦那様、罪の意識が、あるのですか?」
「……罪、だと?」
「不貞は罪と言えるでしょう」
「そんなこと! 俺は、確かにリヴィアを愛していて……!」
「愛は、免罪符にならないと思います。そのような考えで、エレクトラ様と離縁をなさったと他の貴族の前でも、堂々と話せるのですか? 私は、貴方の方が失望されると思います」
「ぐっ……!」
その後も、侍従長とハリードのやり取りは続いた。
だが、話せば話すほど、ハリードは格好がつかず、無様を晒すだけだった。
近くで、その様子を聞いている使用人たちからの評価もどんどん下がっていく。
「旦那様の、今の態度をあちらのご令嬢に真摯にお伝えした方が良いでしょうか。こうも離縁を悩むのですから、きっと、それが彼女のためでもありましょう」
「やめろ! ……くそ! 書けばいいんだろう!」
まったく思った形ではないが、ハリードはエレクトラとの離縁状を書く羽目になってしまった。
サインを確認したサイードはそれを受け取る。
「ご自分で役所に提出されに行きますか? 私には、奥様の代理人として委任状がありますので、提出が可能ですが」
「……なぜ、そんなものまで受け取っているんだ」
「エレクトラ様が、ご準備されていたことですから」
妻のエレクトラと離縁し、そして改めて……、リヴィアと婚約することになったハリード。
「ハリード様」
「あ、ああ、リヴィア。いや、気にしないでくれ。エレクトラとは無事に離縁できそうだ。君にも迷惑を掛けずに済みそうだよ」
「……奥様とは会えないのですか?」
「ああ、彼女は既に一ヶ月前に家を出たらしい」
「……そう。私、奥様に謝りたかったのに。今、どこにいらっしゃるの?」
「どこ? いや、それは……。サイード? エレクトラは今、どこにいるんだ」
「存じ上げません。奥様は、行先をあえて我々に伝えずに屋敷を去りましたから」
「……無責任だな!」
思わずそう不満を漏らしてしまうが、ハリードが喋る度に、それを聞く使用人たちの温度が冷え込んでいった。
「ねぇ、でも心配でしょう? 探してあげるべきじゃないかしら、ハリード様」
「そう、だな。心配だからな」
「…………」
「サイード、エレクトラを探してくれ。離縁するのは仕方ないが、夫婦だったんだ。最後に話もせずに、なんておかしいだろう」
「……かしこまりました、旦那様」
そうして、侍従長にエレクトラの捜索を委ねるハリード。
その後は、気を取り直すようにリヴィアと過ごす。
そんな彼らを見る使用人たちは、深い失望を抱くしかなかった。
「……侍従長」
「ああ、そうだな。所詮、不倫をする者の考えなど、おかしくて当然なのだろう」
「奥様、いえ、エレクトラ様が事前に皆の分の紹介状を用意していなかったら、と思うと恐ろしいです」
「……そうだな」
侍従長サイードは思う。
あの様子では、気に入らない使用人に解雇を突きつけようとするのは時間の問題だろう、と。
しかし、2年の間でこの屋敷で過ごしていた者たちは、既に全員がエレクトラが用意した紹介状を持っている。
再就職先に、極度に困ることはないだろう。
彼女は、いつでも使用人たちが逃げられるようにしていたのだ。
まるで、随分と前からこのようなことになるのが分かっていたかのように。
「あの、リヴィアという女性。わざわざエレクトラ様を探し出そうと提案するなんて、嫌な予感がするのですけど」
「……そう、だな。俺も何か嫌な感じだと思ったよ。女性から見てもそうなのか?」
「はい」
「どういう意図だと思う?」
「……深い企みがあるかは分かりません。ただ、少なくとも……あの方は、エレクトラ様に対して勝ち誇りたかったのではないでしょうか?」
「勝ち誇る?」
「ええ、その。女性として選ばれた、愛された、ということを、です。何か大きな企みがあるというよりは、どこか浅はかな印象を受けました」
「……そうか。なら、エレクトラ様には会わせたくないな」
「はい、そうですね」
「今すぐ逃げることもできない。旦那様が、きちんと領民のことを考えているのなら……。如何に思うところがあったとしても、我らはお仕えしよう」
「……はい。領民たちの幸せは、エレクトラ様が願われたことですから」




