第二撃「白湯」①
第二話「白湯」は全3回です。各回の文字数は第一話と同じ900〜1500字前後です。
駅で言うと高円寺と阿佐ヶ谷の中間あたり、東京都杉並区月待にある自宅の一室で、16歳の北森鏡太郎が棒を振っていた。
一見日本舞踊の稽古場のようだが、ところどころ奇妙な空間だった。まず床が3色に分かれている。小さな庭に出る引き戸があるのは靴脱ぎ場を兼ねた2畳ほどの土間。そこから一段上がると10畳のつやつやとした白木の板敷き。だが板敷きの半分には畳が乗せられており、鏡太郎がいるのはその上である。
庭の入り口から見て左側の壁には、ほぼ全面に大きな鏡が張ってある。窓のある右側の壁近くには、梁からウォーターバッグ(水と空気が入ったパンチングバッグ。サンドバッグより、感触が人体と近いとされる)が吊るされていた。窓には暗幕のような厚手の黒いカーテンがかかっており、部屋の中は薄暗い。
振っている棒も奇妙だった。年季の入った赤樫材で直径は2㎝強、鏡太郎の身長の168㎝より少し短い。芯の部分が縦長にくり抜かれ、そこに細長いガラス管がはめ込まれていた。ガラスの中では銀色の液がゆっくりと動いている。
化学記号Hg。水銀だ。
少年は、薄手な道衣の上下を身につけた上に、黒い袴を履いている。弓道や合気道のようなズボンタイプの「馬乗り袴」でなく、ロングスカートタイプの「行灯袴」だった。身体をひねったり回転させる度に裾が翻ったが、素足は一畳の畳からはみ出ることはなかった。
棒の片端を両手でつかんで床を薙ぎ払うように振り、抱え込み、鋭く上へ突き出し、次は片手持ちでバトンみたいにゆっくりと回す。所作全体が、水銀のたゆたいに同調する「流動体」の気配をまとっていた。水面を歩いているような摺り足、時折りタン! と畳を踏み鳴らす足運びは、能や狂言も思わせる。
しばらく振った後、鏡太郎は壁に据えつけられた置き場に棒を掛けると、ウォーターバッグと壁の間に立った。バッグにお辞儀するように頭を下げ、上体を起こした次の瞬間、左掌がウォーターバッグを打っていた。ぼしゃりという音がする。
ほぼ予備動作のない動きだった。
バッグに寄り添うように周囲を摺り足で移動しつつ、左右のてのひらが連続してはたき込まれていく。
撫でるような打ち方、めり込ませるような打ち方、吸い着くような打ち方、横面を張るような打ち方、指先ではじくような打ち方、バッグ下部をアンダースローのように叩く打ち方…両掌の多彩な軌道は一見、舞い飛ぶ蝶のようにやわらかだが、一打ごとにバッグはそうとうに揺れ、水音を立てる。足首や膝のさりげない屈伸の反動を腰から肩、肩から腕へ螺旋状のねじりで増幅することで、至近距離からとは思えない打撃力が発せられていた。
胡蝶鞭ーー。
古流武術「麝汞流」独特の打撃だった。鏡太郎がニ代目の宗範を務める分派「北統」では、この技を殊に重視する。
両掌の打撃の合間には、これもさまざまな角度から飛び出しナイフのように繰り出される肘打ちが、バッグに「く」の字にめり込んでいく。
蹴りも加わった。やはりほぼノーモーションで、バッグの下部にのみ膝やかかとが鋭利に放たれる。アクション映画のような華麗なハイキックはもちろん、中段を狙うミドルキックさえ見られない。
〈続きます〉




