第一撃「シナモン」⑤
剛士が帰った後、鮎は罪悪感に襲われ自省モードに入った。一人でベランダに出て手すりに頬杖をつき、シナモンスティックを唇の端でゆるくくわえる。夜風は止んでいて、緑のにおいがさっきより濃くなった気がした。
6歳で横須賀に引っ越した時、母と散歩にいった浜辺で、頭から砂をかけられているのに微妙な顔で笑っていたひょろっとした男の子。砂をかけている太っちょの得意げな顔がむかむかした鮎は、二人の間に飛び込むと砂の入ったバケツを両手で跳ね飛ばしたのだった。突然の助太刀にびっくりしている剛士の顔をまだ覚えている。
知らない土地で友達がおらず、すでに人懐こいとは言えない性格も現れていた鮎だったが、家が近所なこともあって、剛士はそれから図書館や児童館へ行く度に誘ってくれた。小学校5年から空手を習いだすと、ちょっとしたイジメから今度は守ってくれたりもした。そんなタケ兄を一瞬とはいえ…汚い物を見るような目で睨んでしまった。根拠は、くだらない思いつきだ。そこから導かれる結論と言ったら「アナタは超能力に目覚めたのです」ーー。
「バカ? わたし」
自意識過剰なのだと思った。
小学校に入った頃から、外見について周りからあれこれとほめられることが多くなった。高学年になると告白などをされはじめ、中学時代には女子の後輩による「ファンクラブ」が立ち上がり(本気で『やめてくれ!』と言った)、横浜に出るとモデル事務所のスカウトを名乗る人間がちょくちょく声をかけてきた。いつの間にか、自分の見た目に鼻持ちならない自負が生まれていたのだろう。だからしょうもない仮説なんか思いつくのだ。
「男 性欲 におい 蜂蜜バター」で検索してみようかとも考えたがよした。見たくもないエロ動画ばかり引っかかりそうだから。
だけど。
どの時も“におい”は、男の存在や視線に気づく前からしていた。それは確かである。
それにあの“におい”は、感じ方がおかしい。鼻腔の奥のほうに、どこかから送信されたみたいに不意に立ち現れるのだ。
ーーースッキリしなさ過ぎる。
シナモンスティックを奥歯でぎゅっと噛んだ。
決めた。「仮説」を検証してやる。結果はマルでもバツでも、最悪なのだけれど。
浜田山駅で降りた鮎は、踏み切りを渡って駅前の商店街を抜け、住宅街が始まるあたりにある公園に立ち寄った。家に帰る前に、頭の中をちょっとでいいから落ち着かせたかったのだ。
高級住宅街と呼ばれる浜田山は、同じ杉並区でも高円寺や阿佐ヶ谷などのいわゆる“中央線タウン”のように若者でにぎわってはいない。夕方前の公園にも人の姿はなく、真空地帯のように静まり返っていた。
大きな滑り台のあるメイン広場へと通じる園路沿いに並んだ、スツール型のベンチに腰を下ろす。コンクリートの硬さと冷たさがスカート越しに伝わってきた。周りに植えられたケヤキの梢がドーム状に重なり合って、日差しや風をほどよくさえぎってくれている。割りと好きな場所だった。ここなら、かき回した泥水のようになった脳内を、少し澄ますことができるだろうーー。
「ね〜え、さぁ」
ショップの袋の底に突っ込んだリュックから、シガレットケースを取り出そうとした時、ねばねばした声がした。自分にかけられたものとは思わなかった。
〈続きます〉




