第六撃「ココアクッキー」②
まなじりが両目とも吊り上がり、放たれた視線がレーザーみたいに鏡太郎に突き刺さった。鏡太郎も睨み返すように受け止める。
…お互いに黙ったまま、10秒くらい経ったろうか。
鮎のあごの先が、こくん、とわずかに上下した。
鏡太郎も、唇を押し潰すように一文字に閉じたまま頷き返す。
それで、約束は成立だった。
「……で? しきたりは」
表情を解凍させ、鮎が尋ねた。
「いいんだよやんなくて。警察の人たちもやってないし。まずこっちが、次にそっちが、まあまあの強さでほっぺたひっぱたき合うんだぞ」
「…? なんで?」
「身体に痛みを食らうってこと、逆に食らわせるってことを覚悟するためなんだと。これから教える、教わるのは、まともな状況で使うもんじゃないってことをさ。そのための師弟の契約っつう…なんかもう、宗教だろこれ」
「うーん……」
「省略省略! ていうか、おれがやりたくないんで。絶対にだ!」
ーーその夜の陸奥家の晩ご飯の主菜は、マッシュルーム入りのデミグラスソースがかかったハンバーグだった。
18時半過ぎに家に帰った鮎は自室に籠もり、さっき教わった動作の順序や注意点を文字と略図でノートに書き記していた。
アニメが好きで、たまにタブレットでイラストを描いたりもしているが、「動き」のポイントを絵で記録するのがこんなに難しいとは。上手く描けず「ん〜〜〜〜!!」と唸りながらシナモンスティックに手を伸ばしかけた時、食卓に呼ぶ母親の由貴子の声がした。身体を動かしたうえ、頭も使ったのでいつも以上に空腹だ。ノートを引き出しの奥にしまって、部屋を出る。
さっき会社から帰ってきた父の明はもうテーブルについていて、自分と母のグラスに赤ワインを注いでいた。最近、とみにお腹の下側がせり出してきている。母と違って強くないんだからお酒を控えればいいのに。去年から生やしはじめた口ひげはやめるつもりはないらしいので、なんだかマリオに似てきたと鮎は思う。
妹の鯉子も部屋から出てきた。区立中学の1年生。小学生の頃から近眼のため、いつも丸眼鏡をかけている。美容院が嫌いで、先週末に由貴子に切らせた髪はボブヘア…と言うより“おかっぱ”だ。鮎なら数日は母と口をきかないところだが、妹は鏡を見て「へぇー」と言っただけで平然としていた。
由貴子は、味噌汁をお椀によそっているところだった。「お茶碗とか並べて!」と言われ、鮎と鯉子も配膳を手伝う。母は元・漫画雑誌の副編集長。6年前に出版社を退職して現在はフリーの編集者だ。細身で、おっとりした感じの優しげな外見だが(目だけはきろっと大きい。鮎はよく母親似と言われる)、物言いはいつもテキパキとして、たまに命令口調っぽい。
レタス、アスパラガス、炒めたベーコンの上に細かく砕いたゆで卵を散らしたミモザサラダの中皿を食卓に置きながら「そうだ鮎、冷蔵庫からタッパーも出して」と由貴子が言った。
鮎はタッパーを取り出し、テーブルに置いて「おいしょっ」と蓋を開いた。数時間前にココアクッキーが入っていた空間には、たくさんの薄茶色の立方体が、褐色の液体にシメジと一緒に浸っていた。
「ちょっと姉! お菓子用のタッパーに何入れてくれてんの?」
由貴子が鯉子に答えた。
「高野豆腐よ。お姉ちゃんが今日、お友達ん家でいただいたの」
「こーやどうふ…? 鯉子さんは食べたことないが」
「クッキーのお返しにもらったの。美味しいよ」
「それにヘルシーよね。うちはパパが“ぐしゅっ”とした食感のもの嫌いだから作んないけどね」
「汁がじゅっ、って飛び出す感じ、嫌じゃないか? ケーキのサヴァランとかもパパ駄目だな」
「…ねぇこれ、容器に匂い移んない…?」
不安げにタッパーの蓋を嗅ぐ鯉子に、由貴子が「薄味のおつゆに浸ってるだけだから、洗えば大丈夫よ」と言った。
4人全員が食卓につき、今ひとつ揃わない「いただきます」を言って、晩ご飯が始まった。鮎は豆苗とねぎの味噌汁を一口飲み、サラダに箸を伸ばす。野菜の緑の上に散った、白身と黄身のたんぱく質の花がきれいだ。
「でも、クッキーのお返しがこれか? 姉の友達って、個性ぶりたい料理女子?」
タッパーを両手で持ち上げ、高野豆腐をしげしげと見ながら鯉子が言った。
「…男子ですけど」
「男の子なのぉ!? 鮎あなた、男の子の家にいきなり一人で遊びに行ったの?」
由貴子が、少し大きな声を出した。明も、推し量るように鮎の顔を見る。
「……」
親に嘘はつきたくない。しかし、自分が習っているのは秘密の武術なのだ。鏡太郎の許可なく、北統麝汞流のことを言うわけにはいかないだろう。もっとも「女性専用の護身術を教わっている」なんて言ったら、何があったんだとよけいに問い詰められそうだが…。
「ーー幼稚園の頃、スイミングスクール通ってたじゃん。中野の駅前にある」
「行ってたわね、ちょっとの間ね」
「そこで一緒だった男の子なの。その時だけ、けっこう仲良かったんだよ」
「偶然、高校で再会したってわけ? そんなこと言ってなかったじゃないの」
「わたしも向こうも、最近まで気づいてなかったの」
3分の1くらい本当だった。稽古の後、鏡太郎の父親が出してくれた緑茶とごま団子を食べながら雑談になり、鮎が4歳まで杉並に住んでいたことを話した流れから、二人とも同時期に同じスイミングスクールに通っていたと判明したのだ。もしかしたら、実際に顔を合わせたことがあったかもしれない。
母はさらに「なんて男の子なの。同じクラス?」と畳みかけてきた。
「北森くん。きたもり、きょうたろうくん。クラスは別だけど」
「剛士より先輩の幼なじみがいたわけか、鮎に」
明が由貴子のほうを向いて言った。数回の激しめの口論を経て、昨年から父親は長女に「おっかなびっくり」するようになっていた。あまり直接は話しかけてこない。鮎のきかん気が強いのは昔からで、特に反抗期に入ったわけでもないのだけれど…。
鯉子が、魚を銛で仕とめるみたいに高野豆腐に箸をグサッと突き刺して「嫉妬しそう、剛兄が」と言った。
「そこの13歳うるさい。“嫉妬”とか、大人ぶった言葉使うのイタいんだけど」
「鯉子ちゃん! 行儀悪い。刺し箸はよしなさい」
母の注意には答えず、妹は焼き鳥を食べるように横から高野豆腐をくわえ、箸をぐいっと引き抜いた。
「こら! もっとお行儀悪いじゃない!」
鯉子はゆっくりと、味を確かめるように高野豆腐を噛む。
「ーーおいし…い。鯉子さん初食感。なんか奇妙で佳きだ。工作の材料みたい」
「何その、上からのコメント…」
「鯉子ちゃん、食べ物に“奇妙”とか言わないの」
鮎と由貴子も、高野豆腐を口に運んだ。画用紙みたいなざらっとした舌触りの立方体に歯を差し入れると、昆布の風味を感じるほの甘い液体が湧いてくる。夏に、もっとちゃんと冷やして食べたら、元気が出そうなおかずだと思った。
「落ち着いた味つけよね。お母さま、薄味が好みなのかしら」
「お母さん、亡くなってるの。北森くんが…北の森に、鏡の太郎ね、お父さんとごはん作ってるって」
「まあ、偉いじゃない…」
「そりゃお父さんもたいへんだな」
明は、また由貴子のほうを見て言った。
「ちょい両親。心配しないの? 姉がボーイフレンドん家に行ったんだぜ」
「だから中1うるさい。そういうんじゃないから」
弟子入りしただけだ、とは言えない。
「…まあでも、高野豆腐じゃな」
「あなた、嫌いじゃないの」
「それは関係ないよ。親父と作ったこれをタッパーに入れて渡すってのは、とりあえずモテようとはしてないんじゃないか?」
「食べ物差別じゃん。姉の中1に時のクラスメート、名前なんだっけ? 姉の誕生日にケーキ焼いてきたの。あの時は『狙いすぎだ』って怒ってたくせに。まあ鯉子さんも同意だけど。あのケーキ甘すぎた」
妹の言うとおり、普段なら鮎の異性の友達のことは、父はそれとなく間接的に値踏みしてくる(正直、ストレートに訊かれるよりうざったい)。母と死別し、父と家事をやっているという情報が「そういう少年のことをやいのやいの言うのは…」とブレーキになっているらしい。
〈続きます〉




