第六撃「高野豆腐」①
第六話「高野豆腐」は全4回の予定です。
玄関で鮎が挨拶をした時の博一の表情を見て、鏡太郎はやはりゆうべ一言言っておいてよかったと思った。
行きがかりで、同学年の子に初歩の初歩だけ教えることになっちまって。毎週木曜の夕方、明日からしばらく稽古場に来ると思う。月謝は9百円ーーいやおれも言ったから、同学年から月謝はもらえないって。でも、とにかくめんどく…きっちりした人でさ、払わないのは絶対納得できないって譲らないから。交渉して千円以下にしたんだから。それから、顔を合わせても、外見については何も言わないで。そういうの、父さんはわかってると思うけどさーー。
庭を回って稽古場に案内した。鮎は、壁に張られた大きな鏡を見て「歌舞伎の俳優とかの家みたい」と驚き、吊るされたウォーターバッグを珍しそうに揺らしてみている。
「なんで床、畳とフローリングが半分半分なの?」
窓の暗幕を閉めながら、鏡太郎は答えた。
「いろんな状況で受け身や足捌き試して、感覚摑んどくため。“実戦”はどんな場所で始まるかわかんないからさ。今靴脱いだとこ、でこぼこの土間だったろ? あの上でも、たまに受け身取ってみたりするわけ」
…「自宅」という日常。「同じ高校の女子生徒」という日常。二つの日常が重なっただけなのに、こんなに非日常な光景になるんだと鏡太郎は驚いていた。父に偉そうなことを言ったけれど、鮎の外見の「かわいい」と「美人」のバランスーー全体として『かわいい』に寄ってると思うがーーはどこで見ようと際立っており、そんな女の子が、祖母と母と自分しか入ったことのないこの場所にいる様子は、AIの生成画像みたいだった。
「着替え、ここで頼むわ。ロッカーとかなくて申し訳ない。リュックとか脱いだ服は、適当に押入れに入れて。奥の襖、今おれが出たら中から鍵かけて」
鮎は「あ、そうだった」と言いながら、リュックから茶封筒と小さなタッパーを出した。
「月謝。一応、中確認してください」
鏡太郎は、茶封筒の中身をてのひらに出した。500円玉1枚と100円玉4枚。
「たしかに」
「あと、これクッキー。来週、父親の誕生日なんだけど、練習で作り過ぎちゃってさ。せっかくだから」
鏡太郎がタッパーを開くと、パウダーシュガーが薄くまぶされたチョコレート色の丸いクッキーが10個入っていた。形や大きさにバラつきがあるのが、いかにも手作りという感じである。
「ココア味なんだけど」
「ありがとう。気遣わせて悪ぃ。料理までできんだ…」
「“まで”ってなんだよ。あ、それじゃ非の打ちどころがない?」
「そっちが言うと、それ冗談に聞こえないっスから」
「でもほら、頻尿だから」
「そ…いやだから、頻尿は…」
鏡太郎と鮎は同時に言った。
「“非”じゃねえから」
「“非”じゃないよね」
笑いながら鮎が続けた。
「料理は、妹がね。わたしは、ほんとにちょこっと手伝っただけ」
…妹がいるんだ。こういう姉を持った妹というのも、何かと大変なのかもしれないと鏡太郎は一人っ子ながら考えた。
「頻尿で思い出した。トイレ、外出て廊下の突き当たりだから。…じゃ、おれも着替えてきますんで」
「よろしくお願いいたします!」
鮎が頭を下げてポニーテールが揺れた瞬間、フローラル系のシャンプーの甘い香りが鏡太郎の鼻腔に入ってきた。このところ無着色&無香料の石けんシャンプーを使っているせいで、自宅で嗅ぐことのなかった種類のその匂いは、「女の子」が間近にいることを不意打ちのように意識させた。
自室に行って稽古着を身につける。情けないが、同学年の女子が今まさに自分の家で着替えている、という事実にどぎまぎしていた。横で腕組みをして立つさやかは(しょうもな…)という冷めた目つきで「リラックスな、2代目」とだけ言った。
稽古場に戻り、襖をノックする。かちゃりと掛け金を外す音がして、襖が開いた。柿星学苑の体育用ジャージの上下の上から、紺のロングスカート(捨ててもいいやつを、と鏡太郎が指定した)を履いた鮎が立っている。道衣に袴を着けた鏡太郎を見て「うわ、『先生』だ…」と呟いた。
二人は、畳の上で正座して向き合った。
「決まりだから、まず『こんにちわ』ってお辞儀して」
鮎は手をついて頭を下げ「こんにちは」と言い、鏡太郎も「こんにちは」と礼を返した。
「『押忍!』とかじゃないんだ」
横須賀にいた頃、道で空手道場の先輩に会った時の、緊張した剛士の姿を鮎は思い出していた。
「あと…別に正式入門じゃないけど、一応これ、書いてください」
鏡太郎が差し出したのは、年季が入ったB5判の大学ノートだった。ベージュ色の表紙に、銀墨の筆文字で「汞名録」とある。書いた人物の潔癖さが察せられるような、整った楷書だ。
「きれいな字だ。なんて読むの?」
「こうめいろく」
「こうめいろく…」
鮎はノートを開いた。便箋のように縦の罫線が入った中の用紙は、縁が少し黄ばんでいる。最初のページに、群青色のインクでこう記されていた。
「この録に名前を記す方は、以下につき厳に誓約したものとする。
一、当流を許可なく他人に伝授せぬこと。
一、実践の際を除き、技を男子の目に触れさせぬこと。
北統麝汞流 初代宗範 北森夕子」
表紙と同じ筆跡だった。2ページ目からは、銀の色鉛筆で書かれた女性の名前が連なっている。女性警察官たちのものだろう。最初のほうはペン習字のお手本みたいな字ばかりだが、ページが進むうちに徐々に丸文字っぽい筆跡が増えていた。
「“汞”は水銀って意味なんだっけ」
「そう。どんな形にも変化して、毒があって、ウチの流派の…象徴っていうか、理想っていうか」
「“麝”は?」
「ムスクっつう香料…香水の原料のことだけど、そっちは…北統は関係ないから。本家と違って」
「うん?」
「誓えるなら、名前書いてくれ」
鏡太郎は、ちびた銀の色鉛筆を鮎に手渡す。
「やっぱり銀で書くんだ」
「なんか中二病っぽいんだけどさ。ほい、下敷き」
「…これ、ナイフとかで削ってない?」
色鉛筆の先の木彫のような凸凹を指でなぞりながら、鮎が尋ねた。
「麝汞流は削り器とシャーペン禁止でさ。鉛筆削るのは集中力と、手先の感覚の鍛錬になるんだと…あ、陸奥さんはそんなの守んなくていいから!」
鮎は畳の上にノートを開き、下敷きを挟んだ。前のページがいっぱいになっていたので、その左のページの最初の行に「陸奥 鮎」と書きはじめる。筆圧は強めで、一画ごとにキシッ、キシッと乾いた音がした。
書きながら鮎が呟く。
「何歳になっても、金色や銀色で書くのって特別感あるよね」
鏡太郎は、重大な何かを受け取ってしまう気がして、やっぱり断わりゃよかったと考えていた。ファンタジーもので、大魔法使いが弟子に「おまえの真の名を預かろう」とか告げるシーンが脳裏に浮かぶ。
鮎からノートを受け取り、鏡太郎は言った。
「ありがとう。しきたりのもう一個は…省略で。じゃ、まず柔軟運動から…」
「いや、やろう? 大事よ、しきたりは。おいしいと思ったことないけどわたしお正月はお屠蘇飲むしさ、七草のおカユ食べるし」
「七草ガユは美味いって!…つぅか弟子が師匠にそんなカジュアルな口きいてる時点で、しきたりもクソもないの」
鮎は「あ、敬語使ったほうがいい?」と真顔になって言った。
「やめてくれ…それからーーー」
果たして。これを。言うべきなのか。
さやかとはさんざん話し合った。結論は出なかった。「言っといたほうが、彼女も余計なガマンしなくて済むんちゃうの」というさやかの意見もわかったが、それは結局、相手を気遣った体のアリバイ作りでしかない気がした。陸奥 鮎を失望させ…いやそれどころか、傷つけるだけじゃないのか。
でも、さっきシャンプーの香りでふわふわした気分になった時に「言おう」と決断せざるを得なかった。自分に自信が持てない。そもそも、自らの意思でコントロール可能なものなのかもわからないーー山﨑の一件も、頭に浮かんでいた。
「もし…万が一…稽古中にその」
鏡太郎は、人差し指を鼻に添えた。
「これ…がしたらさ、すぐに激怒してくれ」
鮎の表情が、固まった。
〈続きます〉




