第五撃「うずらの卵」⑥
教室棟の2階に降りた鏡太郎は、早歩きのペースを緩めずに渡り廊下に出ると、少し離れたところにある理科室棟へと渡った。ホルマリンの瓶に浸されたフナの解剖標本や、プラスチック製の人間の耳の構造模型が陳列された棚を横目に1階に降り、裏手にある池に向かう。誰もいない池の縁に着いて、ようやく足を止めた。
生徒は「沼」と呼んでいる。卓球台5枚分くらいある広さの水面はウキクサの緑の葉で覆われていて、地面との境目がパッと見にはわからない。うっかり踏み込んで足首まで濡らす外部生(内部生は、中等部の時に生物の授業で来るので学習する)が時々出る。
校舎の陰になることが多い場所で薄暗く、小さめのコイやメダカがいるのだがあまり姿を眼にすることはない。周りの地面はびっしりとコケに縁取られ、何本か植えられたヤナギの下にはシダやギボウシが生い茂っている。たまに生物部員が来るくらいで、ほぼ人気のない場所だった。
「ったく…」と言いながら、しばらく息を調える。ここに立ち昇る泥とコケと水分をこね合わせたようなにおいは、いつも鏡太郎に両生類の皮膚を想像させる。
背後に、草を踏む音が聞こえた。
すかさず振り向く。
数メートル後ろに、陸奥 鮎が立っていた。また無表情で。
「………。ええっと…」
想定外の事態に、鏡太郎はかける言葉に詰まった。鮎はずかずかと雑草を踏んで近寄ってくる。細い指が、ぎゅっと締めつけるように鏡太郎の右手首をつかんだ。昨夜、さやかに握られる妄想をしたのとたまたま同じ位置で、脳が混乱る。
「ころしたの」
押し殺した声だった。どこか責めているようでもあった。
「いや…」
「そりゃ殺すよね。…助けてくれたんだもんね、わたしを」
手首をつかむ力が緩んだ。ーーたぶん、鏡太郎ではない。この人が責めているのは。
手首を握られたまま、鏡太郎は右てのひらを上に向けてみせた。
サンリオキャラクターみたいな、まるっとしたフォルムの黄色いハチが、拇指球と掌にはさまれて脚をもがもがさせながら、ブブブ…と羽音を立てていた。小型モーターのような振動を鏡太郎は感じている。全身で「怖いの…とっても困っているの…」と言っていた。
「ナルトバチっつってさ、オスだから刺さない」
鮎は、驚いた顔だった。
「…オス…なんだ?」
正式名はコマルハナバチ。ミツバチ同様、メスは刺すのだが、そもそも攻撃性が低くておとなしい種類だ。父によると、かつては住宅地でもしょっちゅう見かけたらしい。刺さないオスは、ナルトバチの他にも「キバチ」「ライポン」など地域ごとの通称があり、昭和の東京少年たちの遊び相手だったという。
鮎がナルトバチに手を伸ばした。鏡太郎のてのひらにわずかに触れた指先から「おそるおそる」が伝わる。親指と人差し指でハチを優しくつまむと、暴れるハチに「ごめんね」と言いながら目の前に近づけた。
「…わたし……ハチに触ってる」
「ぶっきらぼう」でも「つっけんどん」でもない声を聞いたのは初めてだった。
「逃がしていい?」
「ああ、もち」
鮎はそっと指を開いた。ハチは抗議するかのように螺旋を描いて舞い上がり、レモンイエローの点となって、ヤツデの天狗のうちわのような葉の間に消えていった。
その行方をしばらく目で追っていた鮎が、やがて言った。
「今の技も、ほくとうじゃこうりゅう?」
流派の名前を正確に覚えていたことに、鏡太郎は驚く。
「いやこれは技っていうのか…まぁ…応用?」
「なんでわざわざこんなとこまで来たの」
「校舎の近くで放して、また迷い込んできちゃったらかわいそうだろ」
「オスだって知っててつかんだ?」
「メスはもっと色、黒いんだよ。見たの久しぶりで自信なかったけど…メスでも握り込まなきゃ刺されないかもって。それにおれはたぶんアナフィラキシーじゃないし。ハチには何度か刺されてっから」
「…そっか」
「でもメスバチのほうは死んじゃうもんな。一度刺したら」
鮎の目が、少し見開かれたようだった。
「『だめ』って言っただろ、そっち」
「え?」
「アゲハをハチと間違えた時さ。普通だと『きゃっ』とか『嫌っ』とか言うとこじゃんか。まあ、何が普通かわかんないけど」
「……」
「ハチに、言ったのかなと思ってさ。刺したらだめだ、そっちも死んじゃうんだってさ」
「……だから?」
そう詰めてきた鮎の口角は、なんだか少し上がっているようにも見えた。
「だから…だからなんつぅのかな…」
ハチを握りこむ寸前、一昨日の鮎の叫び声が頭をよぎったのは事実だ。でも自分だって、なるたけ殺したくなかったのだ。「キミのために殺さなかったのさ」とか、そんなもんじゃないわけで。
その時「クボのヘディングだっさ!」「っせえよ!」という声が校庭のほうから風に乗ってかすかに聞こえてきて、鏡太郎はふと、我に返った気分になった。1年A組の陸奥 鮎と「沼」のほとりで二人っきり。柿星学苑高等部の男子生徒の、ヘタしたらすでに8割近くがやっかむシチュエーションに自分はいる。
鮎のこげ茶色の大きな瞳や、セーラー服の襟からすらっと伸びた首筋、学園アニメのヒロインのような頭身に急にそわそわする。そもそもこんなところを誰かに見られたら、迷惑するのは向こうのほうだ。
「あ、5限目始まるじゃん。おれ美術だから、道具取りに戻らねえと」
背中を向けて立ち去ろうとした。頭の中でさやかの「また“そそくさ”かい…」という呆れた声がする。
「ねえ、まさか信じた? “におい”の話」
鏡太郎の背中に、小馬鹿にしているような鮎の声が投げつけられた。
「『気のせいだよ』とか『気にし過ぎだって』とかぜんっぜん言わないんだもん、北森くん」
「……」
「ごめんねー。悪かったよ、変な話して」
「からかったのかよ」
「そっかな。わたし性格悪いし、そんなようなもんじゃない? 決まってない?」
「……」
鏡太郎は答えず、理科室棟に歩き出した。
「どうして? なんで信じたの」
追い討ちをかけるように鮎が訊いてきた。でも独り言みたいな言い方だった。
「なんで」ったって。そりゃあ女子が、ほぼ初対面の男子に噓であんな話をするメリットが…いや、そんな理屈立ったことじゃない。路地を歩きながら、この人が“におい”について話している時、自分の頭に浮かんでいたのはーーー。
鏡太郎は、上半身だけ鮎に振り返った。
「…並んで、一緒に、戦っただろ」
雹が降る中、公園の砂利に膝をつきながら見た、あの勇敢な目だった。鏡太郎をこれ以上殴らせまいと、金髪男の腕にしがみついてきた時の、あの。
「…だからかも、じゃねえのかな」
文法的におかしいと自分でも思った。鮎は鏡太郎の目を見ていた。
「そいじゃ! 美術! なんで!」
軽く右手を挙げながらそう言い、鏡太郎は小走りで理科室棟へ戻っていった。これでもう、ほんとに陸奥 鮎と話すこともないに違いない。美術室には、午後の始業時間ギリギリに飛び込むことになった。
ーー週末、日曜日の夜。
夕食の洗い物を終えた鏡太郎が、部屋のパソコンで煮卵の料理動画を検索していると、スマホから音が鳴った。LINEでなく、ショートメッセージの着信音はレアである。
画面に表示された「陸奥 鮎」という送信先に思わず目を見開く。区役所の前で会った時、「念のため」と携帯番号は交換していたけれど使うことも、使われることもないと思っていた。ロックを解除し、メッセージアプリを開く。
〈ありがとう〉
〈ひょうが降った時も、金曜日のハチの時もね。やっと言えたぜ〉
〈で、ジョギング3日目なんですけど〉
鏡太郎はさらに目をむくことになった。続けて添付された3点の画像は、早朝や夕方の浜田山らしき住宅街や商店街で、ライトブルーのランニングウェアにグレーのキャップを被ってピースをする鮎の自撮りだった。思わず、そこそこ大きな声が出る。
「おい待て! 別にジョギングすれば教えるとは言ってな…」
またメッセージが届く。
〈そうだ、言えてなかったけどイーブンじゃないから言っとく〉
少し間が空いた後で、回転する円のマークが、続くメッセージの受信を告げた。着信音と共に文字が現れるーー。
鏡太郎はスマホを机に置き、椅子から崩れ落ちるように畳に大の字に寝転がった。天井板の、子供の頃は木目が翼竜の頭部に見えていた箇所を見つめる。
「…なんかあいつ…人として、かっけえんじゃないのか?」
画面にはこう表示されていた。
〈わたしも割りと頻尿かも〉
〈第五撃「うずらの卵」/おわり〉
第五話までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございます。




