第五撃「うずらの卵」③
「北森くんのそれさ、ちょっとでいいから教えてくんないかな。わたし、闘えたほうがいいと思うんだよね」
初の弟子入り志願者が、学苑の新マドンナ候補…。恋愛シミュレーションゲームかよ。
約5時間前。人通りのない南阿佐ヶ谷の路地を並んで歩きながら、鏡太郎は鮎から蜂蜜バターの“におい”について説明された(…山﨑の話は、かなり意外だった)。そして、頼まれたのである。
「陸奥さんはさ、ジョギングできる? まいんちでなくても、まあ週3回」
「なんで?」
「ウチの流派の基礎なのよ。下半身鍛えるためと、逃げる時の練習。自分のテリトリーの商店街とか住宅街とかほっそい路地とか、できるだけくねくね曲がりながら走る。ここは人通り多いとか、ここに隠れられるとか意識しながら」
「…ハードル高いなー」
「アホくさいだろ?」
住宅街をぐるりとして、鏡太郎と鮎はまた区役所の近くまで戻ってきた。
「それに悪ぃ、さっきはUSBとか愚痴っちゃったけど、これはおれの代で終わらせるって決めててさ。警察で教えるのも、受験勉強始まったら辞めさせてもらうつもりだし、そしたら自分で稽古すんのも止めるし」
「…どうして?」
「まぁ、いろいろ」
「もったいない気するけどな。せっかくそんなに強くなったんじゃない」
「強さじゃないんだ。こんなもんは」
声に強い感情がにじむのを抑えたつもりだったが、漏れ出ていたかもしれない。
5年前の5年3組の教室。6月の、雨の日の放課後。鷹邑さやかの泣き出しそうな顔がまたフラッシュバックする。
色の白ちゃけた寄木細工の床の上で、股間を押さえてうめくいじめの首謀者。殴りかかられ、反射的に出てしまった稽古の成果。首謀者の傍らに立つさやかが、鏡太郎に向ける視線。
彼女が、その首謀者の男子を好きだという噂は本当だったのだろう。取り囲むクラスメイトの「ミラ、いきなりきんたまに反撃はひきょうじゃね?」というヤジが、はじけるキャンディーのように耳の奥でちくちくと破裂する。そして今も心にこびりついた、諭すようなさやかの言葉。
「ケンカなら…男らしくやれや」
それが最後に聞いた彼女の声。生まれて初めて、それも初恋の女の子から突き立てられた、失恋もかすむ「軽蔑」ーー。
鮎は、きょとんとして言った。
「なんでよ。明らかに強いじゃん」
「ケンカでさ、いきなりポケットからナイフ出して勝ったって、そいつのこと『強い』って思わないっしょ」
「…まあ…そうかもね…」
「ウチのこれはさ、そういうもんだから。あ、女の人が使う分にはそれで全然いいんだけど」
「だったらーー」
「でも半端に覚えて使うと、かえって危ないしさ。女性専用車乗るとか、スマホに防犯アプリ入れるとかのほうが絶対いいって!」
「ふぅん…」
鮎は、不満そうな顔で少し黙っていたが、やがて「“家元”の方針じゃ仕方ないか…」と言った。
諦めてくれて鏡太郎はホッとした。少しだけ、残念なような気もしたけれど。
「それじゃ、話変わるんだけど。北森くん内部生だよね。山﨑って知り合い?」
「中1の時、一緒のクラスだった」
「“におい”のことがハッキリしたじゃないですか。だからあの人のことホント気持ち悪くて。どんな子なの?」
言葉に詰まった。特に仲がよかったわけではない。山﨑は、そもそもクラスメイトとあまり話さず、休み時間にはすっ…と教室から姿を消した。昼休みは一人、図書室で過ごしていたようだった。
理科の授業で、鏡太郎がガラスの試験官を棚に戻そうとしてつまずき、床で粉々に割ってしまったことがある。隣りの班だったにもかかわらず、山﨑は昼休みを潰して片づけを手伝ってくれた。礼を言うと、「ぼく、ほらどうせ昼休みヒマじゃない」と笑った。
「静かで…優しいやつだと思うけどな」
あの山﨑が体育の授業中に、女子を見ながらエッチな妄想をしているというのは、やはりあまりイメージできない。
だが鮎は納得した感じで「裏の顔アリってことか…」と言った。
「いや、裏って。裏…裏なのかなそれ」
超能力が真実とすると、鮎が気持ち悪がるのは理解できる。だが山﨑は、盗撮やストーキングをしたわけじゃない。鮎も気づかなかったくらいだから、そこまで露骨に長時間見つめていたのでもないだろう。
クラスの女子の、体育着の胸のラインに頬がカッとなったり、視線が一瞬固まってしまった経験なら、自分だって覚えがある。
「ムッツリの変態ってことだよね」
「そのくらいは、男なら普通じゃね? いいこととは言わないけどさ…」
山﨑が陸奥 鮎をどう思っているのかは分からない。何せこの外見である。単に見とれてモヤモヤしただけかもしれなかった。
でも…もし、本気で好きなのだとしたら。
これが理由で嫌われるのは、気の毒過ぎやしないか。一軍だの二軍だの量産型だの、スクールカースト的な階級分けは好きじゃない。しかし正直この先、山﨑がこの人と親しくなる世界線はまるで想像できなかった(自分も右に同じだ)。だからこそ…何も始まる前から、積極的に嫌われてしまうってーー。
半歩前を歩いていた鮎が、急に立ち止まって鏡太郎のほうに向き直る。
「…北森くんも、結局そうなんだ」
その口調には、急に針があった。
「…そうって?」
「女の人のための流派の先生なのに、男をかばうんだ」
「いや、かばうとかじゃなくないか?」
「何もかも最低だよ。ほんっとに最低。わたしの…わたしは…」
「陸奥さんほら、かわいいじゃんか。だから見とれちゃう男がいるのもしょうがな」
しまったと思った。「しょうがない」は「原因はそっちにもある」のように受け取られたかもしれない。あのドキュメンタリー番組の、部活仲間の答えと結果的に同じじゃないか。
といって、どう言えばよかったのだろう。自分のことは棚に上げ、山﨑を変態扱いするのか? 嫌われた初恋の子を脳内彼女にして、妄想に逃げ込み続けてるやつのほうがよっぽど変態だし気持ち悪い。
「『かわいい』とか『見とれる』とか言えば嬉しがるって思った?」
抑揚なく、鮎が言った。
「いや…」
「見た目見た目見た目…滅べよ…」
そうつぶやくと、鮎は一回転しそうな勢いでまた前を向いた。リュックの脇で、ボトルの強炭酸水がぼしゃっと波音を立てる。ポニーテールも弧を描いて揺れ、鏡太郎は鞭でも食らったような気分になった。
「秘密は守るから。そっちもよろしく」
背を向けたまま独り言のように言って、鮎は駅のほうに歩きだした。
「おい!」
鮎の顔だけが振り向いた。その目の縁が少し潤んでいる気がして、鏡太郎は言葉に詰まった。
「…気持ち…悪がるのはさ、自由だよ。たださ…山﨑がそっちのことガチで好きとして…その、そこの部分のとこは」
鮎は無言で、再び鏡太郎に背を向けた。古い木造住宅と小さな駐車場にはさまれた狭い道を歩き去っていく。スカートのポケットから、何か取り出したように見えた。金属のケースを閉じる、小さなパチリという音が聞こえる。
あの子はたしかに秘密を守るだろう…。鮎の後ろ襟の「種」が金色に夕陽を反射するのを見ながら、鏡太郎はそう思っていた。
〈続きます〉




