第五撃「うずらの卵」②
失伝への決意を改めて強くしながら、鏡太郎は2階の自分の部屋に入った。5畳の和室と古い机は、亡くなった母のお下がりだ。「勉強部屋」という昭和っぽい表現がしっくりくる空間である。漫画や小説の他、考古学や民俗学の入門書も並ぶ本棚には、両耳がくるりと反った黒い子猫の写真が飾られていた。ベッドはない。寝る時は、押入れから布団を出して敷く。
机の上のMacBook Airを脇にどけ、うずらの卵を半ダース、横一列に置いた。木目調の天板の上に、アイボリーとこげ茶のモザイク模様の球体を並べていると、鳥類学者か何かになった気分だ。
椅子に座ってTシャツを脱ぐ。これをする時は、上半身に何も着ていないほうが集中できるのだった。深呼吸の後、おもむろに右手を机の上に伸ばし、引き戻す。
一瞬の動作で、てのひらの窪みにうずらの卵が挟み込まれていた。
また右手を伸ばし、卵を元の位置に戻す。次は左手で同じ動作を。続いて両てのひらで交互に…やがて同時に。並べた卵の一つをはさみとってはまた置き、を繰り返す。
手の内…つまりてのひらの感覚を鋭敏に保つ稽古なのだが、武術として意味があるのかよくわからない。従姉妹の話だと目黒の本家では週に一度やらされるというが、北統ではさほど重視しておらず、祖母もはっきり言ってヘタだった。鏡太郎は2ヵ月に一回程度、思い出したタイミングでやることにしている。
はじめのうちは卵をタオルの上に置いて行ない、上達すると硬いものの上でやる。最初は幾つ割ったことか…。
「久々チャレンジ行くか」
スウェットパンツも脱ぎ、トランクス一枚になった。両てのひらを揉み合わせた後、より長く深呼吸。行けそうな気がした。連続して二度、右手を伸ばす。
卵2個が、縦に並んでてのひらに挟み込まれていた。殻と殻とが接した箇所の、今にもヒビが入りそうな危うい感触に、思わずふーっと息を吐く。
「調子ええやん」
さやかが、膝を組んで机の角に腰掛けていた。デニムの短パンに、襟ぐりの開いたダボッとしたTシャツを着ている。ショートヘアに加え、やや日に焼けた肌とスリムな体つきは、いつもながら少年のような雰囲気を感じさせる。
「左手でもやるん?」
「うーん…。いや。やめとく」
当然ながらさやかとの「会話」は、鏡太郎の脳内で行われている。でも自室だと、今のようについ小声に出してしまうこともあった。
さやかはとん、と机から下りると、屈んでふいに鏡太郎に顔を寄せてきた。唇が唇でふさがれる。
「ちょっ…」
あわてて右手の卵を机に戻そうとしたが、手首をつかまれて阻止された。さやかは、優しく唇を押しつけてくる。鏡太郎はされるがままになっていた。
「…くそ。卵、落とさせよと思ったのに」
さやかは唇をつけたまま目を開くと、握っていた手首を放した。鏡太郎は「あっぶね…」とうずらの卵を机に戻す。
「あたしがあの子やったら、蜂蜜バター匂ってるとこやな」
おかしそうに、さやかが鏡太郎のトランクスを指差した。中央が硬く盛り上がっている。鏡太郎は、黙ってうずらの卵をパックにしまいはじめた。
「今さら照れんのんかい!? 鏡ちゃん変なとこ紳士やからな」
「そうですかねえ」
「あたしの前でパンツ脱がれへんくせに」
「……。こんな汚ないもの、誰にも見せられませんね」
「あたしは妄想やから気にしませんけど。でもあたしにさせるカッコも水着までで、下着やハダカ無理やねんもんな」
「…こちとら童貞なもんで。データ持ってないっスから、そういうの」
「生成AIかい。エロ動画参考にすればええやろ。アイドルのおっぱいは時々想像してるくせに。…な?」
さやかはまた屈んで、顔を近づけてきた。襟から覗く薄い胸の谷間につい視線が吸い寄せられ、あわてて目を逸らす。
「うわ股間、さらに角度エグくなってるんやけどー」
「“やけどー”じゃねえわ!…方言ってこういう時トクだよな、生々しくなくてさぁ」
「何べんもクギ刺しますけどさ。あたしの関西弁は東京もんの鏡ちゃんが考えてるテキトーやからね? ホントのさやかが聞いたら、さぶいぼ立てとるわ、たぶん」
ホントの鷹邑さやか。小1から一緒のクラスで、小5の1学期が終わると転校していった、関西出身のクラスメイト。いわゆる…初恋の女の子。
妄想の「さやか」は高1の歳かっこうだが、それは鏡太郎が脳内で「同い歳補正」をし続けてきた結果なのだ。
「にしても、あの子の話…不思議やったね。割りと淡々と話してたけどな」
〈続きます〉




