第五撃「うずらの卵」①
「なんかさ、シャンプー変えた?」
風呂上がり、鏡太郎は軽い天然パーマの髪を拭きつつ、茶の間でテレビを観ている父親に尋ねた。
「おっ。わかった?」
「わかるっしょそりゃあ。いきなり無臭だし」
「香料なしの石けん100%シャンプーな。地肌にもいいらしいぞ」
「髪、キシキシすんだけど」
「界面活性剤とか入ってないしな。汚れを落ちやすくする物質のことだけど、川や海の魚とかにはあんまりよくないのよ。鏡太郎、リンスしてないだろ? リンスすりゃキシキシしない」
博一は、建設コンサルタント会社で環境アセスメント…土地の開発などをする際に、それが環境にどんな影響を及ぼすか調査する仕事をしている。当然、趣味志向は全般的にエコい。
顔の両側に垂れ下がったバスタオルの間から画面が見えた。ビーグル犬を抱いた獣医らしき白衣の女性が、くたびれた顔でインタビューに答えている。水曜日の夜10時、父がいつも観ている30分のドキュメント番組だろう。
「そうだ買っといたぞ、うずらの卵」
「ああ、さんきゅ」
鏡太郎は、茶の間の向かいにある台所の冷蔵庫を開け、ムギ茶を飲むついでにうずらの卵の1ダースパックを取り出した。
「もちろん答えなくていいんだぜ。あんたんとこの流派は、それにしてもどんな練習をしてんだかサッパリわからんよ。それをどう使うっての」
「…いつもどおり、稽古終わったら普通に料理に使えっから」
鏡太郎は砂糖入りのムギ茶を飲み干した。夏が来る味だ。脱衣場にバスタオルを掛け、うずらの卵を持って階段を上がった。
北統麝汞流は自分の代で失伝させる。そう決めたきっかけの一つが、まだ宗範を継いでいない時に目にしたさっきの番組だ。その日は父が先に風呂に入り、鏡太郎は茶の間で見るともなくテレビを眺めていた。
高校時代にずっと、演劇部の顧問から身体を触られるなどのセクハラを受けていた女性が、10数年後にその教師に会いにいくというヘビーな回だった。
被害を受けていた当時、女性は悩んだ末に部活の友人に相談した。だが、顧問を尊敬する友人から「そっちにも悪いとこがあったんじゃないの」と言われてしまう。ショックで人間関係が上手く作れなくなり、卒業と同時に自宅に引きこもる。
時が経ち、過去と決着をつけようと、支援者と一緒にその教師と対面するのだが、今や退職している教師は、ひたすら「申し訳ない。でも覚えてないんです」と繰り返すだけ。女性は画面に顔をさらしているのに、元教師の顔にはモザイクがかかっていた。
観ている間じゅう、心をくしゃくしゃ丸められているようだった。観終わってもその気分はなくならなかった。丸めた紙を拡げて伸ばしても、シワは消えやしない。男であることがなんだか嫌になり、あのモザイクの顔面に、自分の顔が浮かび上がるような気さえしたのを覚えている。
あの女性が北統麝汞流を学んでいたとする。秘伝の乙女わざがなんだ。実戦本位だったらどうだっていうんだ? 自分の所属する社会で、“上”にいる人間相手に使えるだろうか。
祖母の夕子は、ひっぱたくような口調で言うだろう。社会的な上下関係を利用した加害は大問題だが、北統麝汞流の意義は、あくまで物理的な暴力が始まった局面での“命拾い”に有効なことにある。ある場所に毒虫(夕子がよく使った喩えだ)が出るとして、その虫が出ないように環境などを改めることと、その毒虫に咬まれそうになった際の叩きつぶし方を知っておくことはどちらも大切なのだと。
そして麝汞流では敵を「他人」と「身内・知人」に大別し、技の出し方も変化させる。後者に用いる内の技は、たまたま当たっただけで、故意の攻撃でないように見える。「内」の意味合いを鏡太郎が教えられたのは、さすがに中学生になってからだったが…。
でも、仮に一度それで難を逃れたにせよ、「敵」が家族や教師だったらハラスメントは続くかもしれないじゃないか。その場しのぎの技なんか覚えるより、法律とか、相談できる窓口のことを調べたほうがずっと「実戦的」だ。
この技が“使える”ことなら鏡太郎だって痛感している。だが“使う”ためにはーースポーツだって楽器だって同じだがーー稽古やイメージトレーニングをたゆまず続けなければならない。
戦国時代だの、昭和だのならいざ知らず、今は防犯グッズや、周囲に助けを求めるアプリだってあるのだ。身体を用いる対抗策なら大声を出す練習や、逃げる時のことを考えて走力を鍛えるだけで十分だろう。
卑怯な暴力に備える、それだけのために、こんなものの上達に人生の時間を使い続ける? タイパ悪。そしていつか3代目(おれの『娘』だってさ。笑けてくる)にもそれを押しつけろっていうのか。お断りである。
〈続きます〉
第五話「うずらの卵」は、全6回の見込みです。
各回の文字数は1000〜2000字前です。




